148.きみのいる未来のために
シンは気づいてしまった事、思い立ってしまった事を深く後悔した。
決して甘美な囁きではない。どちらかしか救えないという、非情な現実。
運命の分岐を自分で選べる事を、幸運だと言う人間がいるかもしれない。
多くの者は皆、待ち受ける運命を知らずに前を進まなくてはならないのだから。
勿論、何もかもがシンの思い通りに進むとは限らない。
どう足掻いたって収束する運命なのだとすれば、徒労に終わる。
ただ、それさえも運命を分岐させなければ誰にも答えは解らない。
自らの頭を殴り、そのまま頭を搔き毟る。
広がっていく痛みが、思考をより深みに落としていった。
フェリーが引き取られなければ。
カランコエは消滅しない。父も母も妹も、きっとまだ生きている。
その選択を万が一選んでしまった場合、フェリーはどうなるのだろうか。
楽しい事も、嬉しい事もただの一度も経験せずに、その生涯を終えてしまうのだろうか。
受け入れ難かった。フェリーを救いたくて旅をしているのに、苦しませる結果ばかりになるのは許せなかった。
一番大切な女性と、大好きな家族が天秤にかけられる。
救けられるのは、どちらか一方のみ。選ばれなかった方は、その手から零れ落ちる。
(俺の命じゃ、駄目なのか?)
シンはぎゅっと下唇を噛みしめる。自分の命で済めばどれだけ気が楽だったか解らない。
突き付けられた現実が、自分の命では勝負の土俵にすら上がれないと言われているような気がした。
いくら考えても、答えは決して見つからない。
大切な人を必ず不幸にする選択が、頭の中で延々と駆け巡っていた。
冴えた方法も思いつかず、決断する勇気もないまま、夜は明けていく。
シンはこの日、宿に戻る事は無かった。
……*
「カンナ、行こう」
「本当に行くの?」
「勿論だ。すっげぇ綺麗なんだ、カンナも見たら絶対に喜ぶから!」
早朝に自分よりひと回り小さなカンナの手を掴み、ケントは薄暗い外を歩く。
カンナはイリシャを泊めたまま外へ出る事に気が引けたが、両親が「行っておいで」と言うのでその言葉に甘える。
ケントが見せたいものは、朝焼けの空。丘の上から、茜色に染まるカランコエの村を展望できる場所がある。
彼のお気に入りの場所で、村の誰にも教えてはいない。
その特等席に初めて招待されたのが、彼が恋慕を抱くカンナだった。
切欠は単純で、昨日現れた黒髪の青年だった。
あまりに楽しそうに接客するカンナを見て、ケントは少しばかり焦っていた。
村の誰よりも仲が良いと自負はしていたが、まさか外部から強敵が現れるとは思ってもみなかった。
ただ、強敵だと思っているのはケントだけで、カンナはあくまで営業の一環としてシンに接していた。
シンとて、両親の仲が進展するのを邪魔するはずがない。むしろ一日でも早く、くっついてくれた方がありがたいぐらいだった。
ケントの早とちりであり、勇み足なのだが、カンナは彼の誘いが嬉しかった。
親の許可を得たとはいえ、こんな早朝に家を出るなんて初めての体験だ。
どんなものを見せてくれるのだろうかと、ワクワクが止まらない。
彼女を傷付けないよう、枝を掻き分けながらケントは進んでいく。
徐々に明るくなる空。最高に美しい景色を、見せる事が出来ると意気込んでいた時だった。
「な、な、な……」
前を歩いていたケントが、わなわなと震える。
一体、何を見つけたのだろうとカンナが顔を覗かせた。
「なんで、アンタがここにいるんだ!?」
「え? あ、ええっと……」
ケントが突き出した人差し指の向こうには、シンが居た。
彼もまた父に教えられて知っていたのだ。この村を一番綺麗に眺められる場所を。
「あら? イリシャさんと一緒にいたお兄さんじゃないですか」
ひょっこりと顔を出したカンナを、嫉妬心からケントが遮る。
一気に距離を縮める計画が丸つぶれで、ケントは動揺を隠せないでいる。
「なんでよそ者のアンタが、この場所を見つけられたんだ!?」
何度もこの場所を訪れたが、誰かに逢うのは初めてだった。
それが村の人間ではないのだから、ケントは余計に動揺する。
誰にでも見つけられるような場所に、カンナを連れてきてしまったのかと。そうだとしたら、格好悪いのではないかと。
一方のシンは、ケントの言葉がきちんと耳に入ってこない。
二人の顔を見ると、胸から込み上げてくるものがある。
流されようとする感情を、必死に堪えていた。
「……アンタ、どっか苦しいのか?」
シンの様子がおかしい事に気付いたケントは、腰を落とす。
鍛え上げられたはずの身体は、何故か小さく震える子供のように見えた。
「本当? 大丈夫ですか?」
カンナも同様に座り込み、シンの顔色を伺う。
善意からの行動が、シンに優しかった両親の記憶を蘇らせる。
優しかった家族と、幸せに暮らせる未来を取り戻せるかもしれなゐ。
甘美で残酷な誘惑が、シンの耳元で囁いている。
「だい……じょうぶ、です」
「そうは言ってもアンタ、相当顔色が悪いぞ」
一生懸命に絞り出した声も、ケントに一蹴される。
血の気が引いて、熱が失われていく身体。眠る事が出来ず、頭が痛む。
心身の負荷が限界を超えたからなのだろうか。
普段のシンでは絶対に口走らない事が、口から漏れ出る。
「あの。お二人は、もしも自分の子供が……。
自分と他人のどちらか一方しか守れないとすれば。どう、思いますか?」
突拍子もない質問に、ケントとカンナは互いの目を見合わせた。
シンは目元を手で覆う。「やってしまった」という顔を隠す事で精一杯だった。
(馬鹿か、俺は……)
自分で決断して、手を汚す事すら厭わなかったのに。
よりにもよって自分の両親に、責任を押し付けようとしている。
どれだけ愚かで、最低なんだと自らをあらゆる言葉で罵る。
「うーん。言っている意味がよく分からないけれど……」
カンナは顎に人差し指を当て、考え込む。
ケントは自分の子供にイメージが湧かないのか、腕を組んで首を傾げている。
「いえ、すいません。変なことを訊いてしまって。
出来れば、忘れてもらえれば――」
慌てて取り繕いながら、この場から逃げ去ろうとした時だった。
二人の出した答えが、シンの鼓膜を揺らす。
「どっちでもいいけど、誇らしいですね」
「俺も、好きにすればいいと思う」
「――っ」
胸から込み上げてくるものを抑えながら、シンは二人の顔を交互に見る。
それが決して適当に言われたものではないと、二人の顔が証明していた。
「どう、して……?」
「どうしてって、なあ?」
「うん。だって、ねえ?」
二人は顔を見渡して、互いだけが納得したように頷く。
「だって、親と同じぐらい大切な人がいるってことですよね?
もうその時点で、親としては誇らしいんじゃないですか。
大切な人を守ろうとする子供を持てて、親からすればきっと幸せですよ」
カンナは照れくさそうに「自分に子供が居ないから、そんなこと言えるのかもしれませんけど」と照れくさそうに続けていた。
「言いたいことは大体カンナに言われたけど、そうやって悩む時点で親とも上手く行ってそうだしな。
投げやりでなければ、きっとそれは間違っていないんじゃないのか?」
腕を組んだまま、ケントが納得したように頷く。
ちらちらとカンナの反応を窺っているので、隣で彼女がクスリと笑っていた。
「――誇らしい。――間違っていない」
二人の言葉を噛みしめるように、シンが反芻する。
いつの間にか頭の痛みは忘れ、身体は体温を取り戻していた。
「……ところでこれ、何かの心理テストとかだったりします?」
「どんな親になるかとか、そんなのか!?」
何度も首を傾げる父と母の姿を、シンはその眼に焼き付けた。
やらなくてはならない事が出来た。自分にとって、とても大切な事。
「ありがとうございます。俺、行きます」
「え? せめて、質問の意味を――」
「ただの、人生相談です!」
「人生相談って……。あの人、子供がいるのかしら?」
「どうなんだろうな……?」
そう言って走り去っていくシンの姿を見て、二人はまた首を傾げた。
茜色に染まるカランコエの姿を、目に焼き付けながら。
……*
カランコエの村にある唯一の宿は、雑貨屋を兼任している。
ゼラニウムが近い事もあって、頻繁に客が埋まる訳ではない。
現に今日も、シンとアンダル以外に宿泊客は居ない。
「あー、頭いてぇ……」
普段より早く目が覚めたアンダルは、二日酔いと必死に格闘をしていた。
昨日振舞った野兎や鹿はとても美味かった。村の人間が持って来た香辛料がとてもいい香りを放ち、ぐいぐいと酒を進ませてくれる。
未来の自分がここに住むと言われたのも、ほんの僅かだが納得をした。
不意に隣に並べられたベッドを見る。
綺麗にメイキングされたベッドが、そのままの姿で残っている。
シンが戻って来なかったのは明白だった。
「あの小僧、何をしているんだ?」
とはいえ、ここが故郷であるなら懐かしむ事はおかしくもない。
気にせず二度寝でもしようかと布団に身を包んだ時だった。
「じいちゃん!」
勢いよく開けられた扉と同時に、シンの声がアンダルに頭痛を齎す。
アンダルはこめかみを抑えながら、不機嫌な顔をシンへと向けた。
「あったまいてぇ……。お前、今何時だと思ってるんだ……」
「ご、ごめん」
とはいえ、シンの様子から只事ではないと気付いてはいた。
全力で走ってきたのか息を切らせ、髪はボサボサ。それでいて逸らす事を躊躇うような力強い眼差しが送られている。
シンは息を呑み、心を落ち着かせる。
もしかすると、聞いてもらえないかもしれない。受け入れてもらえないかもしれない。
それでも、言うと決めた。伝えると決めた。これは、彼自身の決意表明だった。
「じいちゃん、聞いて欲しいんだ。これから先の事を、少しだけ」
「はあ? 儂は未来の話など聞きたくないって言ってるだろう。
何を考えて――」
下らないと一蹴して、アンダルは布団に潜り込む。
顔を隠しながらも、疑問に思っていた事がある。
これまでシンは、無理に未来の話を聞かせようとはしなかった。
うっかりと口を滑らせることはあっても、聞きたくないものを無理矢理聞かせるような人間ではない。
その彼が聞いて欲しいと言っている。自分の意思に反してでも、伝えたい事があると言っている。
ならばそれは、彼にとっては大切な事ではないだろうか。その想いが、アンダルの心を僅かに動かした。
「――つまらなかったら、儂はそのまま寝る。適当に話せ」
「……うん」
布団に潜ったままのアンダルに、シンは語り始めた。
「今から10年後ぐらい……かな。じいちゃんは一人の女の子を、引き取るんだ。
その子は身寄りがなくって、魔物に襲われているところをじいちゃんが救けたんだ」
シンは己の知っている範囲で語り始める。想いを確かめるように、ゆっくりと。
「俺はその子と一緒にじいちゃんの所で魔術を教わったり、冒険の話をしてもらってたんだ。
毎日、すごく楽しかった。色んな事を教えてもらえて、じいちゃんに憧れた。
……でも、それ以上に嬉しかったんだ。俺の隣でじいちゃんの話を聞いているその女の子が笑っているのが。
よく笑って、すぐ泣いて。でもじいちゃんが撫でてやるだけですぐ機嫌を取り戻して。コロコロと表情が変わる、とてもかわいい子なんだ」
アンダルは微動だにしない。
シンからは、起きているのか寝ているのかも分からない。
けれど、言った。自分で決めた事を、はっきりと伝えた。
「――俺はその子が好きだ。だから、逢わせて欲しい。
じいちゃんに、その子を救ってもらいたいんだ」
シンは選んだ。天秤に掛けられた大切なものから、片方だけを。
それは己の家族や故郷すらも滅ぼす、最低の選択。
けれど、それでも逢いたかった。フェリーが居ない自分なんて、考えられなかったから。
背中を向けたまま、アンダルがゆっくりと身体を起こす。
ボリボリと後頭部を掻き毟り、表情を読み取らせないまま彼は言った。
「お前が言いたい事は判った。つまり、惚れた女に逢いたいから儂の残りの人生を寄越せってことだな?」
「……うん」
アンダルは腕を組み、大きく息を吐く。突拍子もない話で酔いが覚めてしまった。
一歩で、ここまでよく子供を引き取る話を自分に漏らさなかったなと感心をした。
この男なりに気を遣っていたのが、垣間見えた。
沈黙の中、シンは拳を固く握る。自分が言った事によりアンダルが意固地になるかもしれない。
もしかしなくても、言ってはいけなかったのではないかと不安になる。
けれど、彼は言う事を決めた。もう死んでしまったアンダルにだけは、自分の気持ちをちゃんと伝えなくてはならないと思ったから。
アンダルもまた、シンの意図を汲んでいた。
数日の付き合いでも、どんな人間かは大体わかる。
自分の意を汲んでいた彼が、それを翻してでも頼みたい事。その重みが解っているからこそ、話を最後まで聞いた。
そして、アンダルもまた答えを出す。
「仮に儂がその子を引き取ったとして、儂はもう死んでいるんだろう?」
「……うん」
「だったら、そのよく泣く子は誰が護る?
儂は老い先短い人生かもしれんが、誰がそれから先の時間を費やすんだ?」
意地悪にすらなっていない事は、アンダルも重々承知をしている。
ただ、言質を取りたいだけだった。だから、問う。求める。期待通りの答えを。
シンもまた、その願いを正しく受け取っていた。
「俺が、護るよ。ずっと、一生かけて護る。――約束する」
背中越しにアンダルの口元が緩んだ事を、シンは知らない。
妻に先立たれて、これからどうするかと迷っていた人生。それを、この男とまだ見ぬ少女に費やす。
我ながらヤキが回ったかと思うが、不思議と悪くはないと思ってしまった。
「だったら、仕方ねぇな。酒、飲みに行くぞ」
「え?」
アンダルが身体を伸ばしながら、着替えを始める。
何がどうなって、酒を飲む流れになったのかシンには分からない。
「いや、俺。酒飲んだことないし……。
それにじいちゃん、男とは酒を飲まないって……」
事態が呑み込めないシンの頭に、アンダルは手刀をお見舞いする。
こつんと手の当たった場所をさすりながら、シンはアンダルの顔をじっと見上げた。
「妻に先立たれたし、子供もおらん。儂が死ぬ頃のお前はまだ子供だろ。
息子と一緒に酒を飲むっていう夢ぐらいは、叶えさせろ」
目頭が熱くなったのを悟られないように、シンは顔を隠した。
嬉しかった。認めてもらえた。自分はフェリーを好きでいていいんだと、心から思えた。
アンダルは気付かないフリをしながら、シンの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ほら、さっさと行くぞ。シン」
「――うん!」
朝早くまだ店が開いておらず、夜に出直す事となったのは別の話である。
ただ、その間たくさんの事を話す事ができた。未来の話ではなく、アンダルの冒険譚を。
……*
イリシャの服。その直しが終わったので、カランコエを発つ日が来た。
「ありがとう、カンナちゃん。ケントくんと、仲良くね」
「イ、イリシャさん!」
悪戯っぽくカンナへ笑みを浮かべるイリシャ。その後に自分の顔を確かめるものだから、シンは目を逸らした。
息子だとバレる事はないだろうが、ケントが誤解を招きかねない。
「お兄さんもおじいさんも、お元気で。気をつけてくださいね」
「結局、あの質問はなんんだったんだ?」
ケントとカンナは質問の意図を知らない。知る日が来ることはない。
その代わりに、シンは二人の身体を抱き寄せた。
「え? ええ?」
「な、なんなんだよ!?」
「……ありがとう」
戸惑う二人に贈るのは、質問の答えではなく感謝の言葉。
それさえも、二人にとっては混乱の対象となる。
顔を見合わせた事で、極限まで気付いている事に気付いた二人は顔を赤らめている。
「すいません。では、また逢いましょう」
シンは二人から離れるが、ケントとカンナは固まったままお互いを見つめ合っている。
元々意識し合っている二人なのだから、このまま結ばれて欲しいと思う。
そして、シンは誰にも聞こえない声で続けた。
「――父さんも、母さんも、リンも。本当にごめん」
家族の事も本気で愛している。未来を変える事を拒んだ訳ではない。
自分はフェリーを選んだ。愛する女性を、護りたいと本気で誓ったから。
胸に決して小さくない痛みを残したが、不思議と後悔は無かった。
結局フェリーの名前は、アンダルが最後まで聞く事を拒否をした。自分でちゃんと決めると言っている。
尤も、シンも一切心配はしていない。きっと、彼は引き取った少女に『フェリー』と名付けるだろうから。