142.もうひとつの出逢いと再会
すぐにでも消えてしまいそうな儚い光を頼りに、シンは洞窟の中を進んでいた。
時々現れる、飛び回る蝙蝠。地面を這う虫。ここが自然に出来た洞窟である事は疑う余地が無かった。
自分の様子を確かめてみたが、どうやら銃を落としてしまっているらしい。
薄い光を頼りに周囲を見渡しても、見つかる事は無かった。
古代魔導具の短剣も、所々に亀裂が入っている。次に武器として扱えば、折れてしまう恐れがある。
状況が芳しくない事も後押しして、シンは慎重な足取りで一歩ずつ進んでいく。
微かな音にさえ、どんな罠が潜んでいるか解らない。細心の注意を払いながら歩みを進めていく。
すると、大きな空洞になっている場所を見つけた。
正確には松明の灯りが通路にも漏れていたからこそ、その空洞の存在に気付く事が出来た。
それは同時に、自分以外の人間が洞窟内にいる事を意味している。
敵か味方かは解らない。けれども、自分の状況を考えると接触した方が良いと判断をした。
「お願い! 誰か、助けてっ!」
突如、洞窟の中に女性の声が響き渡る。
切迫したような、高く腹の奥から吐き出している声を聴いて足取りを速める。
通路の先。灯りに照らされた空洞には、顔を背ける女性。そして、別の通路からずるずると這い寄る大蛇の姿があった。
獲物の反応を楽しむように、ゆっくりと女性へと近付いていく姿は嫌らしさを覚えた。
どういう経緯で、彼女と大蛇が相対する事になったのかは判らない。
ただ、このまま彼女が喰われてしまえば恐らく次は自分だろう。
灯りも無い中、あの魔物と戦うには骨が折れる。
一方で、シンからすれば手掛かりを得る機会でもある。
自分に残された武器であるミスリルの剣を握り、大きく息を吐いた。
不意打ち気味に大きな口を水の羽衣で塞いだ事もあってか、毒の大蛇を斃す事は出来た。
襲われていた女性は浅い呼吸を繰り返し、肩を震わせている。
余程怖かったのだと思い、落ち着かせようとして声を掛けた。
まさか、彼女だったとは思わずに。
「――イリシャ?」
松明の炎によって赤みが掛かっていても、それは明らかだった。
降り積もった雪。銀世界を連想させるような美しい銀の髪も、白い肌もほんのりと朱に染まっている。
けれど、眼も鼻も口も。自分の知るイリシャそのものだった。
変化があるとすれば、髪を後ろで軽く纏めている。動きやすくするためだろうか。
それと、服装が違う。三日月島へ向かった時とは違い、ローブを纏っている。まるで冒険者のように。
「え? あ、はい。そうですけど……。
あの……。どこかで、会いましたっけ?」
突然、名を呼ばれたイリシャは眼を丸くする。その様子が更に、シンへ混乱を与える。
彼女は間違いなく、イリシャだ。それなのに、まるで初対面のような反応をする。
「会ったも何も、さっきまで一緒に居ただろ。
ここはどこなんだ? フェリー達はどこに居るのか、知らないか?」
「フェリー……? 誰ですか、その人?
それに、さっきまで一緒に居たって……?」
イリシャは首を傾げる。シンの言う事を、本気で理解していない素振りだ。
彼女はよく悪戯を試みるが、その時のような演技臭さが無い。
眉間に皺を寄せるシンとは対照的に、彼女は考えた末に得心が行ったのか、手をポンと叩いた。
指の隙間から空気の抜ける音が、空洞内に響く。
「あ、もしかして冒険者ギルドですれ違いました?
いやあ、でもそういうナンパは良くないですよ。『初めて逢った気がしない』とか、もう露骨すぎるので!
命の恩人だからと言って、それで気を許すかどうかはまた別の話ですからね。
それに、他の女性の名前を出すのは論外ですよ。あまりいい気分はしませんから。
比べられるっていうのかな? それは良くない。うん、良くないですね」
親指と人差し指の間に顎を乗せながら、一人で納得するように頷くイリシャ。
したり顔でシンの顔を見上げるが、不服そうな彼の表情が彼女に誤りだと気付かせる。
「えっと……。ナンパ、じゃないの?」
「違う」
気まずい空気が流れるが、シンはあまり気にしてはいない。
それよりもここまで会話が噛み合わないのは何故なのか。理由を考えた時、シンにはその答えがうっすらと見えて来た気がした。
その過程は一切判らないままなのだが、他にこの状況の説明がつかない。
「イリシャ。これは、俺がアンタに借りたお守りだ。見覚えはあるか?」
そう言うとシンは、自分の首に掛けられたネックレスを取り出す。
ぶら下がっている指輪を見て、イリシャは血相を変えた。
「それ、わたしの結婚指輪じゃない!? いつの間に盗ったの?
いくら命の恩人でも、やっていい事と悪い事があるわよ! 早く返して!」
柳眉を逆立てるイリシャの姿を見て、今度はシンが驚きで目を見開いた。
本気で怒った彼女を初めて見たという事もあるが、まさかよりによって結婚指輪を渡されているとは思ってもみなかった。
(いや、確かにきちんと手入れされているとは思ったけれど……)
まずは盗んだという誤解を解かなくてはならない。
眼前の彼女は鎖を引きちぎってでも、取り返そうとしている。
手が届かないように掲げても、飛び跳ねたり脚を蹴って腕を下ろさせようとしてくる。
「返してよ!」
「落ち着いてくれ。これは、アンタに借りたんだ。決して盗んだわけじゃない」
「どこの世界に、自分の結婚指輪を貸す人間が居るのよ!?」
全く以てその通りなのだが、貸す人間は確かに居たのだ。自分の目の前に。
なんて事をそのまま言うと、恐らくイリシャは更に逆上するだろう。話どころではないかもしれない。
だからこそ、シンは口にする。結婚指輪を敢えて自分に貸し出したイリシャの意図を予測したうえで。
「……一応訊くけど、結婚指輪はいつも持ち歩いているのか?」
鼻息を荒くしたまま、イリシャが答える。
「だからこうやって怒ってるんでしょ! ちゃんとお守りにして……。って、あれ?」
最後に一回、イリシャは小さく飛ぶ。
胸元に何度も当たる小物。首に擦れる、鎖の感触。
イリシャはシンに背中を向け、自分の胸元を覗き込む。
「……あった」
ばつの悪そうな顔で、イリシャが振り返る。
指でつままれた鎖。その先に取り付けられているのは、指輪。シンが今持っている結婚指輪と、全く同じ物だった。
「やっぱりか」
「や、一人で納得してないで教えてよ! どういうことなの?」
ふたつの指輪を見比べたいと言われたので、シンは彼女の言葉に従う。
勿論『奪わない』という約束をした上で。
「あなたの持っている方が、細かな傷が増えているけど……。
でも、同じだ。材質も、大きさも、彫られている結婚記念日まで……」
結婚指輪を返すイリシャは、ずっと首を傾げていた。
彼女からすれば混乱するだけだろうが、自分の持っている指輪の方が傷が多い。
その言葉で、確信を持った。だから、これから尋ねる事は最終確認に過ぎない。
「イリシャ、教えてくれ。今は、法導暦何年だ?」
「え? どうして急に……」
「頼む。俺も言うから」
質問の答えになっていないと、イリシャが不満げな顔を見せる。
シンの眼差しが真剣そのものでなければ、きっと素直に従わなかっただろう。
「じゃあ、言うわね」
一呼吸置いて、二人は同時に暦を口にする。
「0485年」「――0517年」
イリシャの眉間に、皺が刻まれる。逆にシンは、完全に腑に落ちた様子だった。
シンの顔をじっと見て、手をぶんぶんと振っている。
「いやいやいや。何言ってるの? 今年は法導暦0485年でしょ?
何で一人で納得してるのよ。おかしいでしょう」
「いや、おかしくなんかない」
初めてイリシャと逢った時の事を思い出す。彼女は自分に対して「久しぶり」と言った。
それでいて、フェリーとは初対面だとも。
彼女は決して嘘をついてはいなかった。
30年前という言葉さえ。
「……俺は、イリシャから見て30年。正確には32年後の未来から、来た……らしい」
最後に「らしい」と言ったのは、シン自身でさえその状況を受け入れきれていないから。
イリシャが、可哀想な人を観るような視線を向けて来た。
……*
「――それで、30年後のわたしに『久しぶり』って言われたの?」
空洞の中で、二人は岩場に腰かけている。
よく見ると傷だらけのシンを、イリシャが手当すると言い張ったからだった。
疑ったお詫びと、助けてもらったお礼を兼ねて。
「ああ。ドナ山脈で遭難して、イリシャの家に迷い込んだ時にな」
「……ちょっと待って。貴方が最後に、わたしと居たのはどこって言ってたっけ?」
「三日月島だ」
「あのね。気分でコロコロ天気が変わるようなドナ山脈と、魔物がウヨウヨいる三日月島?
いくらなんでも、話を盛り過ぎじゃない?」
平然と言い放つシンに対して、イリシャは自分の視界がぐるぐる回っていくのを感じた。
いくらなんでも無茶苦茶だが、それ故に妙な真実味を感じる。
「事実なんだよ。それを言うなら、初対面で『久しぶり』って言われる俺の立場も考えてくれ」
「それ、わたしはまだ言ってないもの。
……まぁ、わたしがシンを信頼しているっていうのは分かったわ」
そうでなければ、自分の大切な結婚指輪を他人に預けるはずがない。
会話の流れで、シンは言っていた。過去へ渡った際に信じてもらえるよう、証拠として貸してくれたのではないかと。
二人は話し続ける。シンはイリシャとの話を補完するように。
逆にイリシャは、これからの未来を少しだけ知る。
既に不老だと知られていたので、イリシャとしては気が楽だった。
老けないというのは、長期的に見ると意外と不便な所がある。
不審がられないように、定期的に人間関係をリセットしていたのだ。
30年後もそれは変わらないようで、安心したような、どこか寂しいような気もする。
ただ、妖精族の友達が出来ているらしい事には胸が躍った。妖精族となら、長い付き合いが出来るかもしれないと期待に胸を膨らませる。
気になる事は、もうひとつ。
シンがしきりに口にする少女の名前。フェリー。
自分達の故郷の村が燃えて、一人だけ生き残った少女は不老不死となっていた。
それ以来、フェリーには膨大な魔力が宿る事になったという。
誰がどう見ても、彼女の魔力がその惨劇を起こしたと断定しかねない状況。
シンはしきりに「フェリーがやったとは思えない」と、呟いた。
言葉の節々にも、フェリーなる少女を大切に想っているという事が伝わってくる。
「後は、背中の傷だけね。裂けてるし、縫合するわね。
麻酔無しでも大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
シンが来ていたシャツを脱ぐと、サーニャに斬られた背中の傷が露わとなる。
思ったよりも深く裂けており、平然と動いているシンに唖然とする。
持っていた水を惜しみなく使い、傷口を洗浄する。
突き刺さる針の感触から気を紛らわせようと、イリシャが気を遣う。
「そういえば、シンの故郷ってどこなの?」
今までの話が全て本当なら、この時代では彼の故郷は存在している事となる。
もしよかったら、一緒に旅をして見てみるのもいいかもしれない。イリシャはそんな事を考えていた。
「マギアの、カランコエだ」
「えっ……」
予想もしていなかった答えに、イリシャの手が止まる。
不審に思ったシンが、彼女へ問いかける。
「どうかしたのか?」
「いや、だって。ここ、ゼラニウムよ?
カランコエって、すぐそこの村じゃない」
「え……?」
今度はシンの動きが止まる。
つい先刻まで三日月島で邪神と戦いを繰り広げていたはずなのに、今は30年前のマギアにいるという。
一体何が起きたのか。そして、自分は元の場所に帰る事が出来るのだろうかと不安が頭をよぎる。
フェリーは、無事なのだろうか。祈る事しか出来ない自分を、情けなく思う。
「な、なにしてんだお前たち!?」
状況に変化が起きたのは、その時だった。
空洞内に、大きな声が反響する。同じ言葉が何度も鼓膜を揺らし、頭が痛くなるほどに。
片耳を抑えながらシンとイリシャが顔を向けると、そこに一人の男が居た。
白髪が黒髪より多くなっている、初老の男。
口元に貯えた髭はまだ黒を保っているようで、堂々とした佇まいをしている。
眉も同様にまだ黒を保っているようだが、吊り上がっているのが非常に気になる。
高い訳ではないが、主張の強い鼻と骨っぽい頬。掌から炎を出しており、魔術を松明替わりにしているようだった。
その男を、シンは知っていた。正確に言うと、その頃よりも若い。
だけど、知っている。イリシャ同様、見間違うはずがない。
「……アンダルじいちゃん?」
フェリーを引き取った張本人。アンダル・ハートニアその人だった。
確かに、イリシャは彼と旅をした事があると言っていた。まさに、それが今だったのだ。
「ああん? 儂に孫はおろか、子供もおらん。増してや、お前みたいな年齢の孫が居る訳ないだろ。
何を意味の分からん事をホザいとるんだ」
「いや、そうじゃなくって」
流石のシンも、この状況には困っている。
イリシャと違い、自分と彼を結びつけるようなものは何もない。
フェリーだってまだ産まれていない。話をしたって通じるはずがない。
「第一だ! テメェ、儂のイリシャに半裸で何迫ってんだ?
このまま黒コゲにしてやろうか? あぁ?」
「いや、ちょっと待ってくれってば。じいちゃん!」
「テメェにじいちゃんと言われる筋合いはねえ!」
アンダルは手に持った炎を、シンに向かって翳す。
その眼は本気で、明確な敵意が宿っている。
「安心しろ。イリシャには傷ひとつ付けない」
ポカンとするイリシャを見て、アンダルが口元を緩めながら言った。
彼からすれば、格好をつけたつもりなのだろうがイリシャが一喝する。
「あーもう、アンダルうるさい! 今、縫合してるんだから手元が狂うでしょ!
それに、わたしはアンダルのものでもない! 奥さんの墓前に、言いつけるわよ!」
「あ、ごめん。どうかそれだけは……。いや、本当にごめん……」
「だったら黙ってて! シンも、驚くのはいいけど縫えないでしょ!」
「わ、悪い」
鼻息を荒くしたまま、イリシャは傷口の縫合を続ける。
無言で睨み続けるアンダルに恐れをなす反面、シンは久しぶりに逢えた事がほんの僅かだが嬉しかった。
フェリーに伝えれば、どういう反応をするだろうか。
うっすらと、そんな事を考えていた。