140.怒りを向けるものは
大地は震え、火山が噴火したのかと見間違う程の火柱が立ち昇る。
大木の倒れる音が、恐怖心を煽った。
黒いカーテンに閉ざされた世界が開けたと思えばこれだ。
三日月島どころか、世界が崩壊するのではないかと見間違う。
縛られた身体では逃げる事も、抵抗する事も叶わない。
だからといって天に命運を任せる気にはなれない。
ライラス・シュテルンは自らの意思でこの地に足を踏み入れた訳では無かったからだ。
ラヴィーヌの魅了によって傀儡となったライラスは、フェリーとアメリアの前に敗れた。
シンが彼女の精神に与えた動揺は最終的に魅了をの効果を薄れさせ、漸く彼は自分を取り戻す。
操られていたといっても、意識はある。自分が、何をしたかという記憶は彼の脳裏にうっすらとだが刻まれていた。
魅了の恐ろしさは、影響下にある間はそれが何よりも大切だと信じて疑わないという事。
正気を取り戻した今だからこそ、ライラスは思う。自分は取り返しのつかない事をしてしまったのではないかと。
仲間に、同僚に刃を振るった。操られていたと言っても、その事実が覆りはしない。
単純で、口下手だがライラスは決して悪人ではない。深い後悔が、彼の胸を苦しめた。
同時にライラスには信じられなかった。第一王子と第一王女の筆頭に、国に反旗を翻す者が現れた事に。
彼らは一体何を考えているのか。平和なミスリアという国を、どうして王族自ら争いを呼び起こすのか。
自分以外の人間は、自らの意思でこの戦いに身を置いているようだった。自分の父も、喜んで協力をしているようで残念に思った。
共に縛られているリシュアン・フォスター。五大貴族で最もお堅いフォスター家。分家といえ、彼まで第一王子派に参加しているのには目を疑った。
「リシュアン。この異常な地響きや火柱は、邪神とやらの仕業のせいなのか?」
傀儡となっている間、微かな記憶に残っているのは『邪神』という単語。
破壊の化身だとも、呪詛と怨嗟の塊だとも受け取れる存在が、この世界を破壊しようとしているのだと想像するのはライラスとて容易だった。
リシュアンは何も答えない。じっと、三日月島の中央へ視線を向けている。
瞬きをしている間にも、島は破壊されていく。
「こんなものが……」
続きの言葉は口に出来なかった。
ビルフレストを、第一王子についた事を後悔しないと思っていた。
新たな英雄の象徴として、倒すべき存在だと聞かされていたからだ。
それが、現れてみればどうだ。注ぎ込んだ魔力も、どす黒い感情も乗せた神。
本来なら望まれるはずのない存在は、この世界そのものすら破壊しかねない。
計画に狂いが出たのか、自分が言いくるめられただけなのかはリシュアンには判断が出来ない。
ただ、一線を越えてしまった事に強烈な後悔を覚える。
同時にリシュアンが思い返したのは、フローラの言葉だった。
――貴方が王家に尽くしてくれたこと、私は感謝しています。当時も、今も。
裏切った家臣に向ける言葉だとは思えなかった。
あの瞬間から、リシュアンの心には迷いが生じていた。
本当に仕えるべきは、王家では無かったのかと。
フローラの温もりが、彼の心を癒していた。
今はただ、心からの謝罪と礼をしたい。
こんな自分に感謝をしてくれた、健気な王女へ。
……*
「あそこにいるのは、本当にフェリーさんなのですか……?」
三日月島の中央で悪意の塊に立ち向かう少女見ながら、フローラは呟いた。
ほんの数日ではあるが、彼女の人柄は知ったつもりだった。
明るく、素直で、とても可愛らしい少女。
友人になりたいと心から思った。なれると、信じていた。
目の前で暴れる魔女は、そんな人物像とかけ離れている。彼女は一体何者なのか。
アルマに斬られた傷を抑えながら、フローラはその光景を眺める事しか出来なかった。
「フローラさま、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ですが、フェリーさんが……」
襲い掛かる熱気から護る様に、オリヴィアが水の城壁を張る。
それすらも気休めにしかならない。すぐに蒸発し、周囲へ新たな熱気を生み出すだけだった。
「フェリーさん。一体何が……」
その理由を知る者は、誰も居ない。
変わってしまった、魔女以外を除いては。
「リタ、これはどういう……」
右手をぶら下げながら、リタへと歩み寄るレイバーン。
その顔は戸惑っていたが、声を掛けられたリタも同じ顔をしていた。
「わからないよ。あんなフェリーちゃん、見たことがない……」
愛する者を失ったショックからなのか、命の危険を前にこうなってしまったのか。
ただ、恐ろしいと思ってしまった。友人であるはずの彼女に、抱いていいはずの感情ではないのに。
目の前の光景が信じられないのは、彼女達だけではない。
邪神の降臨を待ち望んでいたアルマも、ただ一人の少女に苦戦している現状に眼を疑った。
魔女に焼かれた邪神の腕は、既に再生している。
拳に炎を纏い、それをぶつけんとする魔女の一撃。
邪神の咆哮は、それをかき消した。振り上げられた魔女の拳が消失する。
「だから、どうした?」
魔女は拳が消失した事など、気にも留めない。
手首から先が消失したまま、構わず腕を振り抜かんとする。
信じられない事に、邪神の顔に触れる時には既に拳が再生していた。まるで巻き戻ったかのように、灼熱の炎を握り締めたまま。
邪神の首があらぬ方向へ曲がる。地面に打ち付けられた身体は大地に新たな亀裂を生み、釘のように突き刺さる。
身体を引き抜こうとする邪神を見ろしながら、魔女は鼻で笑った。
「そんなにそこから出たいのか?」
そう言うと彼女が採りだしたのは、魔導刃だった。いつもの茜色の刃ではない。
もっと深く、強く込められた魔力は真紅の輝きを放っていた。
邪神の肩から、斜めに一閃。
たったそれだけの動作で、魔導刃に搭載された魔導石が限界を迎える。
魔女の魔力に耐え切れず、フェリーが長年愛用していた魔導刃はボロボロと砕け散った。
彼女の持つ膨大な魔力を常に受け続けても壊れなかった魔導刃。
その許容量を大幅に超えて繰りだされた一撃は、邪神の身体を真っ二つにすると同時に巨大な火柱が立ち上る。
肉の灼ける臭いが充満する。その中心から聞こえる悲痛な叫びは、敵味方の区別もなく恐怖を植え付けていく。
「なんなんだ、あの女は……」
アルマが漏らした声は、忌憚のないものだった。
邪神が顕現し、この世界を恐怖に陥れる。それを討伐する英雄に、自分が成る。
盛大な自作自演が、圧倒的な力の前に下らないものだと思い知らされる。
自分の企みは所詮子供のお遊戯。大した事は無いと、告げられているような気がした。
同様の思いを抱いていたのは、ビルフレストも同じだった。
分体に力を分け、より簡易的な形で邪神を顕現させた。
だからといって、これほどまでに一方的にやられる存在であるはずがない。あっていいはずがない。
そう思う一方で、自分の本能が告げる警鐘も偽りではないと確信していた。
何の策も無く、触れていい存在ではない。王宮で戦った彼女と、決して同一視してはならない。
魔女は、別の何かだと捉えるべきだと。
誤算があるとすれば、『暴食』だった。
生まれたばかりの『暴食』は、恐怖を識らない。
甚振られる自らの父。その姿を見て、救わねばという本能がその足を動かす。
「待て、『暴食』――」
接続しているビルフレストの制止に聞く耳を持たず、『暴食』は魔女へと襲い掛かる。
眼前に繰り出されるは、全てを喰らい尽くす左手。消失が、彼女へ迫る。
「下らない」
侮慢の表情を見せながら、魔女は呟く。
消失が彼女へ触れる事は無かった。それよりも早く、『暴食』の左手が炎に包まれる。
いくら喰らい尽くそうとも、消えぬ炎。瞬く間に『暴食』の全身を包み、新たな火達磨が創り上げられる。
「ぐ、あ……」
その影響を強く受けたのは、『暴食』と接続をしているビルフレストだった。
左腕に襲い掛かる高熱が、彼に膝をつかせる。左腕から発せられる煙が、彼の苦しみをそのまま表していた。
「いいぞ……」
目醒めた魔女に全員が刮目している最中。
苦しみ、悶えるビルフレスト。その無様な姿に笑みを浮かべる少年が居た。
ビルフレストの手により最愛の女性を失った、イルシオンだった。
自分では手も足も出なかったビルフレストが、苦しんでいる。
それは彼にとっては希望であり、光だった。
「もっと、もっと苦しめ。クレシアを殺した報いを受けろ。
お前は、決して生きていてはいけないんだ」
英雄を志しているはずの彼が、絶対に言うはずのない言葉。
怒りを通り越した怨みは、新たな呪詛となる。言霊が宿ったかのように、接続した左腕は更に熱を増していく。
ボロボロと崩れ始める左手が滑稽で、イルシオンは益々口角を上げた。
その彼と自分の間へ水を差すように、漆黒の矢が刺さる。瞬く間に闇はカーテンのように広がり、ビルフレストを隔離した。
常闇の迷宮ではない。互いを遮断する、遮断壁闇。
この状況で、一体誰がそんな小細工をするというのか。自分の姿を隠して、どうするつもりなのか。
闇の魔術を使うという事で術者はテネブルだと思ったが、見上げた先にいる顔を見てビルフレストは眉を顰めた。
「――テラン」
ギランドレで姿を消した自分の腹心。テラン・エステレラがそこには居た。
隻腕の魔術師は、自分の見た事が無い魔造巨兵の肩に乗っている。
「お久しぶりです。ビルフレスト様」
形ばかりの挨拶には、感情が込められてはいなかった。
その様子を察知してか、ビルフレストも灼熱の痛みに耐えながら立ち上がる。
「生きていたのか。今まで、何をしていた」
「それはもう、生き延びる為に色々としておりました。
……どうやら、邪神の顕現に成功したようですね。お見事です」
「……この惨状を見ても、そう思うのか?」
「はい。勿論です」
テランは残った左手で右肩を包み込む。
かつて、不老不死の魔女に安易な接続を試みた結果がこれだ。
それは邪神とて例外ではない。
彼女に喧嘩を売って、それでも形を保っているのであれば賞賛に値する。偽りなき本心として、そう思っていた。
「ただ、一言申し上げると引き上げた方がよろしいかと。
魔女は、手に負えませんので」
「――お前の言う通りだな」
僅かな沈黙を置いて、ビルフレストは同意した。
単体で邪神すら圧倒する存在を、現状どうにか出来るはずもない。
このままでは『暴食』はおろか、自分まで灰にされかねない。
それだけは何としても避けたかった。
「撤退をする。テラン、手伝ってもらうぞ」
かつての主の命令。昔のテランならば、率先して首を縦に振っていたもの。
しかし、今の彼は違った。命令に従うだけではない。自我を手に入れてしまった。
「出来ません」
「……何故だ?」
予想外の返答に、ビルフレストは剣をテランへ向ける。
テランは肩を竦め、言葉を続けた。離別の意思を伝える為に。
「どうやら、僕はシン・キーランドが気に入ったみたいなのです。
貴方と敵対するつもりはありませんでしたが、結果として彼は姿を消した。
自分でも戸惑っていますが、どうやら僕はその事に対して怒りを感じているようだ」
「ならば、何故撤退を薦める? 憎いのであれば、不意打ちでもすれば良かっただろうに」
ビルフレストが問うと、テランはもう一度肩を竦めた。
「貴方に仕えた事を後悔している訳ではありませんから。
だから、最後のけじめとして撤退を進言しましたにすぎません。
これは言わば、手向けです」
これ以上戦いを続けるなら、自分も参加をする。
ビルフレストは、テランの言葉の裏にそのような意味が込められている事を感じ取った。
実際、彼の言う通り魔女に対する手立ては見つかっていない。
このまま戦闘を長引かせれば、邪神は愚か第一王子派全てが壊滅する恐れすらある。
下らない矜持でテランの提案を突っ撥ねるのは愚かだと、頭では理解をしていた。
ただ、ひとつだけ気になった事がある。
「シン・キーランドは邪神の『扉』を前に死んだ。
それでもお前は、奴の肩を持つというのか?」
その問いに、テランは迷う事なく答えた。
彼に仕えている時に一度も見せた事のないような笑みを浮かべながら。
「信じるかどうかは自由ですが、彼は生きていますよ。
きっとまた、貴方の前に姿を現すでしょう」
「……なんだと?」
遮断壁闇による闇のカーテンが上がっていく。
テランは一体何を知っているのか。それを問う事は許されなかった。
ビルフレストが撤退の指示を出したのは、視界が開けた直後の事だった。
焼け焦げた邪神や『暴食』は、『色欲』のようにこの場から消えていく。
消滅したとは考え辛く、撤退したという表現の方が腑に落ちるような消え方だった。
魔女はその様子を、ただつまらなさそうに見ていた。邪神を殺す事が目的ではないと言わんばかりに。
邪神ですら手に負えない。
受け入れ難い現実に怒れるアルマが、果敢にも魔女へ立ち向かう。
怒りも虚しく、瞬く間に漆黒の剣は炎によって溶かされ、魔女の掌が触れただけで胸に大きな火傷を負う。
そのまま息の根を止めようと放たれた魔女の一撃を、上空から舞い降りる黄龍の一体が身を挺して護った。
燃え盛る黄龍がその命を賭して魔女へ巻き付いている間に、黄龍王を含めた龍族がアルマやビルフレストを含めた仲間を回収する。
何匹も、何匹も魔女に放たれる炎を前に灰となる黄龍。彼らを尻目に、アルマ達は空の彼方へと消えていく。
こうして、三日月島で発生した第一王子派との戦闘は終わりを迎える事となる。
ミスリアには大きな傷を、そして第一王子派には屈辱を残しながら。
……*
「貴方は、テラン・エステレラ……?」
エステレラ家の分家の者。殆ど公の場に姿を現さなかった彼を覚えていたアメリアが、その名を呟いた。
ただ、それは聊か軽率だった。今のイルシオンの耳に入れてはいけない単語が、混じっていたのだから。
「エステレラ……? ビルフレストの仲間かッ!?
貴様、ビルフレストを逃がしてどうするつもりだ! 何故、奴を逃がしたッ!?」
魔造巨兵から降りたテランの胸倉を、イルシオンは力任せに掴む。
激昂したその顔は、いつ紅龍王の神剣の切っ先を彼へ向けてもおかしくは無かった。
「イルシオン・ステラリード。その事については、また改めて申し開きをさせてもらう。
今はそれよりも、彼女の事だ」
テランの視線の先には、魔女が居た。
邪神の撤退以降、彼女はその場に立ち尽くしている。
「ああ、フェリー・ハートニアか。
彼女はとても素晴らしい。あの邪神を赤子扱いだ。
何が居ても、怖くない。あの力さえ、あれば……」
薄ら笑いを浮かべるイルシオンの顔に、テランは眉を顰めた。
自分の知っているイルシオン・ステラリードはこんな人間ではない。
殆ど面識は無いが、彼の噂はミスリアに居れば嫌でも耳に入る。
お人好しとは違うが、こんな悪意や敵意を露骨に他人へ向けるよう事は決してしなかったはずだ。
「悪いけれど、僕が言いたいのはそういうじゃない」
ギランドレの遺跡に残った自分が、解る範囲で得た物。
結果、シン・キーランドの現状について話そうとした時だった。
「フェリーさん!?」
魔女の炎が、周囲へ襲い掛かる。アメリアが咄嗟に張った氷の魔術が、一瞬にして蒸発する。
怒りを具現化したような、全てを燃やし尽くす獄炎が火柱を上げる。
「言ったはずだ。『貴様達は、許しはしない』と」
感情の籠っていない声から発せられる炎は、あらゆるものを焼き尽くそうとする。
彼女の怒りは、何ひとつ収まってはいなかった。許さないのは、この場に居る全員だったのだ。
その言葉が表す本当の意味を理解している者は、今この場には居なかった。
「待って、フェリーちゃん!」
ただ一人、炎から逃れたイリシャが前へと進む。
いつ炎に巻き込まれるか分からないと、不安に駆られる。
それでも、伝えなくてはならない。
フェリーにとって、一番大切な事を。
「シンは、生きてる! 生きてるの!」
魔女の身体が、僅かに硬直する。イリシャだけが、その顔を確認した。
驚きと、怒りと、哀しみ。それらが複雑に入り混じった魔女の表情を。