139.魔女の目醒め
ヒビ割れた『扉』。その外殻がボロボロと剥がれていく。
中から現れたそれが、大地を踏みしめる。
ただそれだけで、生み出された衝撃が周囲の者を散り散りにする。
人間とそれほど変わらない大きさ。それは呪詛という名の祈りを送り続けたのが人間だからだろうか。
元々、創り出そうとした者の意図通りなのだろうか。各々の神に対する認識が混ざり合った結果なのだろうか。
ただ、ひとかけらの光すら映さない純然たる闇は、見ているだけで胸が圧し潰されそうになる。
「邪神が今、顕現した。総てを破壊する、幽冥の主が」
アルマが新たに生まれし神へ敬意を表し、頭を垂れる。
彼の持つ漆黒の刃から溢れる、純然たる悪意。それが、自分に近い存在だと邪神は即座に理解をした。
挨拶と言わんばかりに、邪神は腕を上下に振るう。
たったそれだけの事で大地は裂け、大きな亀裂を生み出した。
「なんなんだ、あれは……」
冷静さを欠いていたイルシオンでさえ、瞬時に現実へ引き戻される。
桁違いの一撃は、イルシオンの精神に初めて畏れというものを刻み込んだ。
こんな化物を、第一王子派はどうしようというのか。
これはもう人間がどうこう出来る範疇を越えている。震える手を抑え込んで隠すのが、彼にとって精一杯の強がりだった。
クレシアの仇を取るために引き下がれない思いと抱いた畏れの間で、彼は葛藤を余儀なくされる。
「あれが……。人間の創り出した、神……」
神への祈り。誰よりもそれを最も捧げている妖精族の女王が、呟いた。
恐怖よりもおぞましさが勝る。ただ、黒いだけの人形がひたすらに気分を害する。
「気持ち、悪い……」
口元を抑えながら、リタは目を逸らす。
こんなモノを『神』と呼称する事自体が、神への冒涜とさえ感じた。
「いや、邪神は……ヤバいだろ」
「お主にも解かるか?」
邪神から一番遠い場所に位置するレイバーンとヴァレリア。
彼らは唯一、邪神の繰り出す衝撃波の影響を受けなかった。
だからと言って、何かが好転する訳ではない。
「そりゃあ、まあね。少なくとも、今のアタシたちじゃどうにもならないってことぐらいは判るさ」
「……そう、だな」
邪神は何も識らない子供のように、周囲を見回している。
その眼光がもし自分達に向けられたなら、一巻の終わりだろう。
全身は傷だらけで、満足に身体を動かす事も出来ない。
邪神より発せられる威圧感に、ただ気圧されるだけだった。
ヴァレリアが「案外、すぐ再会するかもな」と諦めたように呟いたのを、レイバーンは聞き逃さなかった。
「漸く、現れたか」
ビルフレストは、堪えながらも上がっていく口角を止められない。
長かった。研究を続け、何度も失敗を繰り返し、何度も邪魔が入った。
強大すぎる力を分体へ分け与える事で、漸く輪郭が見えた。
ついに悲願が叶った。自分は、自分達はこの瞬間、現御神を手に入れたのだ。
これから先に何が起きようとも、恐れる物はない。『暴食』の消失と、自らの吸収。そして、邪神の力さえあれば。
ミスリアを、この世界を恐怖に陥れる神の誕生を、ビルフレストは心より祝福した。
ビルフレストの意を汲むように、『暴食』は邪神へ向かって跪いた。
自らの父であり、自分自身でもある主に向かって精一杯の敬意を示す。
その異様な光景を眺めていたフィアンマは、固唾を呑む。
黄龍王の言っていた事が、少しだけ理解できた気がする。世界が変わるというのは、邪神が変えるという意味なのだと。
ただそれは、死と破壊による暗黒の世界だとしか思えない。
退屈で凡庸な世界だとしても、そんなものを認めたくは無かった。
認めたくないのに、どうにか出来ると思えない。失った物は、翼だけでは無かったのかもしれないと彼は自嘲した。
感嘆の声も、恐怖の眼差しも、混沌の人形の方向へ向かって集められる。
しかし、誰もが邪神の発する存在感に目を奪われた訳ではない。
正確に言えば、視線は邪神が生まれた場所へ向けられていた。砕けた『扉』があった、そこへ。
「シンさんは……?」
アメリアがぽつりと呟く。さっきまでいたはずの、彼の姿がどこにも見えない。
蒼龍王の神剣が手からすり抜けそうになるが、柄が小指に引っかかる。
何度も自分の大切なものを護ってくれた男性が、居ない。影も形も残さず、消えてしまった。
ひたすらに自分を責める。どうして、託してしまったのか。彼はミスリアとは一切関係が無いのに。
彼なら、どうにかしてくれると思ってしまった。大切なものを護りたくて、大切な男性を失った。
いくら謝っても、許されない。いくら悔やんでも、戻らない。
アメリアはどうすればいいのか判らず、ただ立ち尽くす事しか出来ない。
唇を震わせながら、アメリアは視線を動かす。その先には、フェリーが居た。
彼女にも、どう謝罪をすればいいのか判らなかった。今はただ、悲嘆に暮れるほかなかった。
フェリーは力なく、膝から崩れ落ちていく。
自分の事を一番大切にしてくれた男性。自分が一番大切な男性。
さっきまで、居たはずなのに。自分の名前を呼んでくれていたはずなのに。
――シンが、居ない。
胸に孔が空く。昔、同じ気持ちを経験した事がある。
大好きだったアンダルが死んでしまった時だった。
(あのときは、シンが……)
思い返す必要すらない。今でも鮮明に思い出せる。
泣く事しか出来なかった自分の手を、シンがずっと握ってくれていた。
夜になって、泣きつかれて眠ってしまっても、彼の握ってくれた手がずっと温かかったのを覚えている。
シンが居たから、自分はまた笑う事が出来た。
故郷を焼いた時もそうだった。
自分を拒絶しながらも、シンは手を差し伸べてくれた。
部屋に籠っている自分の為に、ずっと傍に居てくれた。
何度も殺して欲しいという、無茶な願いすら聞き入れてくれた。
彼のお陰で、胸の孔は綺麗に塞がった。
だから拒絶されていても、ずっとシンの傍に居たかった。
自分の我儘を、彼は受け入れてくれていた。
今も昔も変わらずシンは自分を『幸せ』にしてくれていた。
じゃあ、今はどうすればいいのだろうか。
シンは居ない。どこにも、居ない。
「あたしの、せいだ……」
自分がシンと一緒に旅をしなければ、彼をこんな事に巻き込む事は無かった。
自分がシンに殺して欲しいなんて頼まなければ、今でも彼はマギアに居たはずなのに。
自分があの時、拾われなければ。シンと出逢わなければ。たったそれだけの事で、シンは幸せになっていたに違いない。
フェリーは知らない。
シンが居ない世界で、心の孔を埋める方法を。
シンが居ない世界で、自分がどうすればいいのかを。
シンの居ない世界で、何かする意味があるのかを。
「シン、ごめん。ごめん、なさい……」
いくら涙を溢して、いくら虚空に謝っても決して何かが変わる事は無い。
それでもフェリーは、ただ謝る事しか出来なかった。
大粒の涙は、彼女の視界を滲ませるだけだった。
差し伸べてくれる手は、そこには無いと知りながらも。
「そんな……」
「シン、さん……?」
散り散りになった中で、オリヴィアとフローラも信じられないといった顔をしていた。
フローラは自責の念に苛まれる。
頼み込んで、巻き込んでしまった。命を救ってくれた人を、危険に晒した。
解っていたはずなのに、どうしてそんな軽率な行動を取ってしまったのだろうと、いくら後悔をしてもし足りない。
それはオリヴィアも同様だった。
姉は勿論、自分や主君も救われた。それどころか、王宮ではあのビルフレストの撃退に一役買っていた。
心のどこかで安心していた。あるいは、妄信していたのかもしれない。
魔力が殆どない事も知っていたはずなのに。姉がどれだけの時間を費やして、彼を治療したかを見ていたのに。ただの人間だという事実から、目を逸らしていた。
自分は最低の大馬鹿者だと諫めても、結果は何も変わらない。
(違う――)
邪神の顕現に反応を示す者、シンの消失に唖然とする者。
その中で彼女だけは、そのどちらとも違った反応を見せていた。
イリシャ・リントリィだけは知っている。
シン・キーランドが死んでいない事を。
「フェ――」
その事をフェリーに伝えなくてはならない。
そうしなくてはならないと思いつつも、彼女は言い淀む。
ある事に気付いてしまったからだった。
(待って。シンは間違いなく生きている。
だけど、伝えて良いの? 本当に逢えるの?)
イリシャが知っているのは、ここまでなのだ。
シンが生きている事までしか、知らない。
もしも再会する事が出来なければ、それはフェリーにとってより辛いものになるのではないだろうか。
逡巡するイリシャをよそに、フェリーに向かって歩き出す影があった。
「……邪神よ、どうしたというのだ?」
アルマの問いに応える事もなく、邪神は一歩ずつ大地を踏みしめる。
たったそれだけ大地が揺らぎ、三日月島全体に緊張感が走る。
邪神の歩む先には、不老不死の魔女が居た。
ただ近くに居たからなのか、それとも彼女に妙な気配を感じたからなのか、邪神の瞳にはフェリー以外の者は映っていない。
放心するフェリーの前に立ち、邪神はニタリと笑う。
次の瞬間、邪神の脚は彼女の華奢な身体を捉えていた。
地面に大きな轍を生み、フェリーの身体は吹っ飛ばされる。
体中の骨が軋み、折れ、あらぬ方向へと曲がる。
それでも彼女は、一言も声を上げる事は無かった。痛がる素振りも、怒りを露わにする事もない。
どうでもよかった。自分の身など、何が起きても構わなかった。
シンが居ない世界を生きる必要性を感じなかった。フェリーはただ、消えたかった。
この身が不老不死である事を、最も怨んだのはこの瞬間なのかもしれない。
壊れぬ玩具を見つけた邪神は、轍を伝ってフェリーの元へと向かう。
脚を、腕を、胴を力の限り踏みつける。
治ったばかりの骨が折れても、内臓が破裂しても、彼女は元通りになってしまう。
その間もフェリーは一言も発する事が無かった。
頭を鷲掴みにされ、持ち上げられる。邪神と目が合ったらしい。
虚ろな眼をしているフェリーは、それすらも気付かない。
トマトでも潰すかのように、邪神は徐々に握力を強めていく。
ミシミシと頭蓋骨が音を立てる。こめかみに食い込んだ指が沈んでいく。
フェリーは痛みこそ感じるが、それだけだった。
「あーあ。もう、完全に玩具にされてるじゃないですか。かわいそー」
サーニャが、自らのこめかみを抑えながら呟く。
あれだけ痛めつけられても元通りになるというのは、流石は不老不死だと感心する反面、同情もした。
異質な存在を嗅ぎ取ったのか知らないが、邪神はフェリーだけを徹底的に攻撃している。
それでも不老不死の魔女は、決して壊れる事が無い。
生まれたばかりの邪神は、幾分か子供っぽさを残しているのだろうか。
ムキになっているというよりは、楽しんでいる節すら感じ取れる。
「ま、どっちにしても哀れですね。ただの人間なら、楽になれたわけですし」
親しい者を失って、虚無の中でただ痛めつけられるだけ。
こんな不幸な事があるだろうかと、サーニャは手を合わせる。
一方で自分の邪魔をし続けたシンが消えた事に関して、密かに溜飲を下げていた。
(わたしのせいだ)
生気の宿っていない彼女の瞳が、イリシャの胸を締め付ける。
自分が迷っている間に、フェリーが甚振られている。
彼女でなければ、とうに真っ赤な肉塊に変わり果てていてもおかしくないのだから。
誰もそれを止める事が出来ない。何度も破壊されては再生するフェリーを、震えながら眺めているだけだった。
薄情と言われようとも、割って入る事が出来ない。それほどまでに、圧倒的な暴力が牙を剥いている。
イリシャもまた、その一人だった。
もうどうすればいいのか判らないと戸惑う彼女の足に、硬い物が触れる。
シンの銃だった。
「これは――」
手に取り、こびり付いた土を払う。きっと、『扉』に短剣を突き立てている時に落としたのだろう。
それが衝撃によって、イリシャの足元へ転がっていた。
初めて握る銃は想像以上に重く、彼女の腕へと圧し掛かる。
「……そう、だよね」
同時にイリシャは、こうも思う。もしも神の導きがあるのであれば、こういうものではないのかと。
自分は銃を撃つべきだ。シンに代わって、フェリーを救わなくてはならないのだと。
シンとフェリーが再会できるのか、イリシャは知らない。
それは、彼女自身の運命も分からない事を意味していた。
当然、自分だけではない。この先の全ての事を、イリシャは何も知らない。
この一発を放つ事で自分の人生が終わるかもしれない。
不老でも、自分にきっと『死』は訪れる。怖くて、ずっと避けていたもの。
(だけど――)
人より長く生きた。薬師をやって良かったと思う。きっと、それなりの人を救う事は出来ただろうと自負している。
シンのお陰だ。彼が居なければ、自分が救えなかった人も多いはずだ。
だから、この一発は撃たなくてはならない。シンの為にも、フェリーの為にも。そして、自分の為にも。
「こっち……。向きなさいっ!」
乾いた音が、三日月島に鳴り響く。
硝煙が狼煙のように、上空へ立ち昇っていく。
銃弾は彼方へと飛んでいく。初めて扱う銃は想像以上に、扱いが難しかった。
それでも、邪神の気分を害するには十分な代物だった。ゆっくりと、彼は頭を後ろへ向ける。
「馬鹿な真似を」
一部始終を見ていたアルマが憐れんだ。放っておけば、ミスリアの人間ではなく非戦闘員である彼女に危害を加える気は無かった。
だが、彼女はやってしまった。邪神の怒りを買ってしまったのだ。
反動で倒れ込むイリシャが顔を上げると、振り向いた邪神と視線が交差する。
見ているだけで呑み込まれそうな、混沌の闇。触れられてもいないのに、心臓が締め付けられる思いだった。
数秒、良くて数十秒後に自分へ訪れるであろう『死』。回避する術はないのだと、イリシャは悟った。
ならばと最後の力を振り絞って、彼女は小さな口を目いっぱいに開く。
「フェリーちゃん、聞いて! シンは――」
その一方で、振り向いた邪神が掴んでいる者。フェリー・ハートニアは自分の耳に入り込むその音を確かに聴いた。
良く知っている音。自分の身体を何度も撃ち抜いて、その一方で多くの人を救ってきた音。
シンが居るのだと錯覚をした。フェリーの瞳に、ほんの僅かだが輝きが戻る。
認識した視線の先に、シンは居なかった。
代わりに居るのは、真っ黒な気持ち悪い化物。甚振っておきながら自分に興味が無いのか、頭だけ振り向いている。
視線の先には、イリシャが居る。僅かに見える化物の口は、歪だと判るほどに口角が釣り上がっていた。
怯えるイリシャの顔を見た時、何かが弾けた。
「――触れるな」
フェリーの右手が、自分を持ち上げている邪神の腕を掴む。
刹那、燃え盛る炎が邪神の腕を焼き尽くす。
「なんだ……?」
「邪神の腕が、燃えているだと――」
アルマが、ビルフレストがその異変を感じた時。
既に邪神の右腕は炭と化していた。予想外の出来事が、目の前で起きている。
「……フェリーちゃん?」
イリシャが彼女の名を呼ぶと、僅かに視線が交差する。
慈しむようなその瞳が何を意味しているのか解らないまま、フェリーは視線を元へ戻していった。
「貴様達は、許しはしない」
いつもとまるで違うフェリーの様子に、誰もが戸惑いを隠せない。
集まる視線を意に介さず、フェリーは両手に炎を宿らせていく。
莫大な魔力を持つ彼女が魔導刃を通さずに生み出した、純然たる魔力の塊。
例えるならば、それは獄炎と呼ぶに相応しいものだった。
フェリーの中に潜むモノが、目を醒ました。