138.光に消える
シンがその人影を捉えるのとほぼ同じタイミングでの出来事。
初めにその存在を視界に捉えたのはオリヴィアだった。
「アルマ……様」
その姿を、見間違うはずが無かった。
一連の騒動。その首魁であり、ミスリア王国の第一王子、アルマ・マルテ・ミスリア。
手には漆黒の刃を握り締め、返り血で己の服を汚している。
彼が何も語らなくても、装いが教えてくれる。誰かを斬ったのだと。
オリヴィアは自分の身体をフローラとアルマの間に滑り込ませる。
不服そうな顔を見せながら、アルマは足を止めた。
「お久しぶりです、姉上」
自らの装いを意に介さず、アルマは語り掛ける。オリヴィアではなく、その後ろに居るフローラへ向かって。
堂々とした立ち振る舞いが根拠として、斬った人間が誰なのか答えが導き出された。
「アルマ……。その血、もしかして……」
「はい。父上は、この手で殺しました」
「――ッ」
彼が浴びている血は、自分達の父親のもの。フローラは口元を抑え、催す吐き気を必死に耐える。
眼前に居る男は、弟はどうして平気でいられるのか。フローラには一切理解が出来ない。
「それで、出来れば姉上にも死んで頂けると都合が良いのですが」
アルマの発する声。そのトーンが一段階下がる。
呼応するように、空気が重くなった事を全員が肌で感じた。
「――終焉の氷結閉塞!!」
オリヴィアが咄嗟に唱えたのは、周囲一帯を凍らせる氷の魔術。
焦りの中で出したにしては、魔術のイメージ自体は上手く行っている。
アルマを中心とした周囲を凍てつかせ、その動きを奪う。
「フローラさま、イリシャさん! 下がってくだ――」
指示を出し終えるよりも早く、オリヴィアの出した終焉の氷結閉塞は砕かれる。
漆黒の刃に纏わせた風が、生み出された氷を粉々に粉砕していく。
「このレベルの魔術を詠唱破棄するなんて。さすがと言ったところだろうか」
「なっ――」
言葉だけを取れば、アルマは感心しているようにも聞こえる。だが、その実は苛立ちで満ちていた。
オリヴィアに向かって振り上げられた刃と、冷たい視線がそれを証明している。
(妨害されるのを承知で、初めから魔術を剣に纏わせていた?
違う。重要なのはそこじゃない。防御魔術、詠唱破棄、ううん。間に合わない。
だったら――)
迫りくる生死の狭間に、オリヴィアは自分で出来る事を精一杯考える。
刃が振り下ろされるなら、自分のその身で食い止める。
即死しないのであれば、そこからありったけの攻撃魔術を叩き込む。
本来であれば一度は死んだ身。それを助けてもらったのはこの為だと、オリヴィアは覚悟を決めた。
「オリヴィア! いけません!」
「フローラさま!?」
しかし、護衛対象の行動が彼女を仰天させる。事もあろうに護衛である自分と凶刃の間に、彼女は割って入る。
ドナ山脈でもそうだった。フローラは決して、独善的に命を投げる事を決して許してはくれない。
ただそれは、アルマにとっては幸運以外の何物でもない。
振り下ろされた漆黒の刃が、一直線にフローラへ襲い掛かる。
「絶対、それだけは……!」
何が何でも、フローラを殺させはしない。
オリヴィアが咄嗟に放った魔術は、とても魔術と呼べる代物ではない。弾き出された魔力の塊が、切っ先を僅かに逸らす。
時を同じくして、イリシャがフローラとオリヴィアの身体を力の限り引く。
結果、アルマの剣先はフローラの二の腕を軽く引っ掻くに留まった。
即座にオリヴィアは氷の魔術を放ち、アルマとの間に壁を創り出す。
「な……にしてるんですかっ!? 護衛の立場、考えてくださいよ!」
命までは奪われなかった安堵と、傷を負わせてしまった負い目から、オリヴィアは強い声を発してしまう。
どうしてこの人は、臣下の為に命を投げ出そうとするのか。
信じられないといった顔をする反面、本心では嬉しいと思ってしまう自分がいる事も苛立ちの原因だった。
「だったら、護衛対象の気持ちも考えなさい! 貴女に死んでほしくないの!」
フローラは一歩も退くことなく、毅然とした態度でオリヴィアへ言い返した。
姉妹のように共に育った彼女の命を代償に生き永らえる事を、フローラは良しとしていない。
その結果が、オリヴィアにとって信じがたい行動へ彼女を誘った。
「二人とも、喧嘩は後にして!」
イリシャが一喝すると二人は我に返った。
彼は終焉の氷結閉塞すら、簡単に破壊して見せた。
今ある氷の壁が破られるのも、そう時間を必要としないだろう。
「とにかく、下がってください。アルマ様はわたしが何とかしますから!」
息巻いてみても、具体的な対策は何ひとつ思い浮かばない。
逃がすにしても、敵地真っただ中で安全地帯すら判らない。
ただ、自分がアルマを討てば戦いは終わる。千載一遇のチャンスでもある。
考えている間に、氷の壁は砕かれる。
アルマの冷たい眼光に、たじろぐ自分がいる事にオリヴィアは気付いた。
刹那、二人の間が霧で覆われる。正確には、その周囲全体が。
新たな敵が発生したのかと警戒するオリヴィアだが、自分の真横を駆け抜ける人影を見て何が起きたのかを理解した。
「オリヴィアちゃんは、二人をお願い! この人はあたしがっ!」
霧を起こした張本人。フェリー・ハートニアはアルマの元へと駆ける。
シンが放った凍結弾の氷を、魔導刃で溶かし蒸気を発生させる。
かつて彼が行った事を、真似した目眩まし。
「不老不死の魔女。この眼で一度見てみたかったんだ」
アルマが呟く。興味深い存在ではあるが、邪神の顕現は既に目前に迫っている。
今となっては『器』として利用するつもりは無い。ただ、気になる存在ではあった。
「あなたはゼッタイに、ここで止める!」
「君にも興味はあるが、邪魔をするなら容赦はしない」
茜色の刃と漆黒の刃が交わる。
熱気でオリヴィアの魔術により創られた氷が解け、更に霧を濃くしていた。
それがアルマにとって好都合である事に、まだフェリーは気が付いていない。
……*
突如、自分達を遮断していた氷の壁が消える。
代わりに現れたのは霧。それが一体何を意味するのか、アメリアは状況が把握できていない。
ただ、霧の中を抜け出すオリヴィア。傍にはフローラとイリシャも居る。
状況が芳しくない事だけは、遠目でも予測できた。
本来ならば、最優先で王女の元へ踵を返す必要があるのかもしれない。
しかし、アメリアは放っておけなかった。この怒りに身を任せるだけの少年を。
「お前だけは、お前だけは!」
「イルくん! 落ち着いて!」
乱暴で、型も何もない。ただ力任せに、感情のままに振るわれる剣。
アメリアが乱入した事で、一瞬冷静になったかと思えばすぐにビルフレストの挑発に乗る。
もう既に、アメリアの言葉を聞き入れる事はしなくなっていた。
「無駄だ、貴殿の剣では私に届く事はない」
「黙れ! 貴様だけは、絶対にオレが殺す!」
簡単に捌かれる剣閃は、アメリアのフォローが無ければ何度命を落としていたか判らない。
ビルフレストからすれば、イルシオンを逆上させて対処を楽にしていた。
いくら彼と言えど、複数人の神器持ちを相手にするのは骨が折れる。
視野の広い。悪く言えば、仲間を割り切れないアメリアをイルシオンの援護に徹するように仕向ける事で行動に制限をかけた。
傍には『暴食』と相対しているフィアンマも居る。翼を失った彼は、その巨体で対応するには小回りが利かない。
結果、アメリアの意識が余分に割かれている。彼女自身も、ビルフレストに制御されている事は薄々感じている。それでも、この場を離れる事は出来ない。
しかし、それはこれ以上の犠牲を防ぐ意味では最大の結果を齎している。
ビルフレストの持つ吸収、『暴食』の持つ消失は共に一撃で甚大な被害を及ぼす。
彼女の献身的な補助があるからこそ、戦況が崩れずに済んでいた。
故に、アメリアは気付かない。本当に注意するべきものの存在に。
……*
頭を撃ち抜かれ、更に妖精王の神弓による矢の集中攻撃を浴びた『色欲』。
異形の化物は、糸が切れたかのようにその動きを止める。
「止まっ……た?」
遠目にその様相を確認したリタが、手を止める。肩で息をしており、魔力を使いすぎた事により頭がフラフラとする。
それでも決して妖精王の神弓を掲げた腕を下げる事は無かった。
同様に『色欲』から力が抜けた事を、抑え込んでいるレイバーンとヴァレリアも感じ取っていた。
得体の知れない化物が相手でなければ、瞼を開いて状況を確認したいとさえ思う。
直後、収縮をするかのように『色欲』はその体積を小さくしていく。
レイバーンの腕をすり抜け、ヴァレリアの持つ剣は地面だけを刺している。
やがて、『色欲』は彼らの前からその姿を消した。
「たお、した……のか?」
付着した血の臭いが消えた事により、レイバーンが漸くその眼を開く。
自分の身体は、想像以上に痛々しかった。あちこちが裂けているし、無理に動かした右手は骨が肉を突き破っている。
ヴァレリアも同様で本人以外の血が纏わりついているだけでなく、額が割れてその顔は半分近くが赤に染まっていた。
「どうかな……」
血を拭いながら、ヴァレリアが答える。最後の感触は、倒せたという気がしない。
どちらかと言うと、去ったという表現の方が腹に落ちる。
「まぁ、なんにせよ。命はある……。妖精族の女王サマに感謝だね」
「そうだろう。リタは凄いのだ」
顔を見合わせ、二人はふっと笑い合う。そうでもしないと、痛みでそれどころでは無かった。
だが、戦闘はまだ終わっていない。眼を閉じている間も感じ取っていた臭いと音が、より鮮明にレイバーンへ流れ込む。
「レイバーン!」
「リタ、余たちの事はいい。……まだ、戦えるか?」
治療をしなくてはいけないと、駆け寄るリタをレイバーンが制止する。
これ以上負担を掛ける訳にはいかないと思いつつも、彼女へ頼らざるを得ない。情けない気持ちだった。
「……うん」
レイバーンの問いに、リタは頷いた。
当然、リタも気付いていた。気分が悪くなるほどの邪悪な気配を。
本心で言えば、傷だらけのレイバーンを治療したい。遠目で見ても痛々しい彼を、放っては置けない。
ただ、その本人が言った以上は意を汲むべきだと覚悟を決める。
彼女は神弓を構える。これまでの戦いを、無駄にしない為にも。
一日でこれほど妖精王の神弓を酷使した事は無い。自分の魔力も相当に消耗している。
だからこそ、気が付けなかった。これまでとは比にならない禍々しい魔力が膨れ上がっている事に。
……*
増えた人影。アルマの出現により、シンの攻撃が僅かに荒くなる。
勢いこそ増したが、サーニャにとっては幾分か受け流しやすくなっていた。
「邪魔だ、どけ!」
「いやいや、それは出来ませんって」
ウェルカでは『扉』を破壊し、王宮ではビルフレストの左腕を奪う事に一役買った。
この男は放っておくと何をしでかすか判らない。
サーニャとビルフレストの共通認識だった。更に言えば、ラヴィーヌにも恐怖心を植え付けている。
その男が焦りを感じて、短絡的な行動に走るのであればやりやすい。
サーニャが掴んだ勝機。だが、彼女ももっとシンの事を知るべきだった。
王宮でフェリーを助ける為に無茶な行動を起こした。その一部始終を、きちんと分析するべきだった。
ナイフによる一突きを、シンが水の羽衣でいなす。サーニャの予想通りの動き。
彼女の予測を越えて来たのは、その先にある。
銃声が足元に向かって鳴り響く。機動力を奪おうと撃たれた一発。
決して銃を手に離さない事から、警戒はしていたサーニャが足元をずらして間一髪躱す。
そしてそれは、彼女の重心がズレた事を意味する。続けざまに足首を蹴られ、彼女は自身の身体が支えられなくなる。
倒れ込むサーニャの身体を支えたのは、ミスリルの剣に込められた魔術付与が生み出す水の羽衣。
水の羽衣は彼女の顔を包み込み、酸素の供給を奪った。頭を上げようとしても、シンの手によって頭が羽衣へ抑えつけられる。
(まずい……!)
まさかこんな方法で自分の自由を奪ってくるとは思わなかった。
焦りで攻撃が直線的になった訳ではない。怒りや焦りの中でも、勝利する方法を模索していた。
藻掻くサーニャを仕留めようと、シンが銃口を向けた時。それは起きた。
フェリーが生み出した霧の中から、黒い球体が姿を現す。
「あれは――」
サーニャへ向けた銃口。その照準を球体へ変える。
撃てども撃てども破壊する事はなく、黒い球体は三日月島に漂う魔力と悪意を吸って肥大化していく。
シンが焦り、銃口の照準を変えた球体を彼は視た事がある。
ウェルカでの戦いで姿を、マナ・ライドに搭載された魔導石を誘爆させてまで破壊した黒い球体。それに酷似している。
「は、はは。残念でしたね。邪神は降臨しますよ、もう止められません」
黒い球体へ気を取られている隙に羽衣を抜けだしたサーニャが、鼻で笑う。
ウェルカでの出来事視ていたからこそ、彼女は知っている。今のシンに『扉』を破壊する術は持たない事を。
『扉』の発する魔力が、周囲のあらゆるものを吹き飛ばす。
フェリーの造り出した霧も晴れ、彼女にもその姿が露わになる。
「あれって……」
シンと同じく、実物を見た事のあるフェリーが声を漏らす。
刃の向こう側にいるアルマが、不敵な笑みを浮かべた。
「そう。邪神を呼び出す為の『扉』さ。一度、君たちに破壊されているのだけれどね。
今度は一緒に見物しようじゃないか。邪神が生まれる様を」
「そんなコト、ゼッタイにさせない……!」
破壊しようと『扉』へ向かおうとするフェリーを、アルマが食い止める。
押しのけようと力を込める瞬間。魔導刃の出力を上げているこの瞬間さえも、『扉』は肥大していく。
「どいてよっ!」
「どくものか!」
空気中の水分が蒸発する程に魔力が込められた茜色の刃でさえ、アルマの漆黒の刃を破壊する事は出来ない。
焦燥感がフェリーの心の中を支配していく。とてつもなく良くない事が起きるのではないかと、肌がヒリついた。
「あれは……」
アメリアもまた、肥大化していく『扉』の存在を視認した。
自分はウェルカで実物を見ている訳ではない。それでも尚、同じものだと確信する程に禍々しい物だった。
「アメリア・フォスター、もう間に合わない。邪神は間も無く姿を現す。諦めるのだ」
イルシオンの剣を弾きながら、語り掛けるビルフレスト。
彼の顔は勝利を確信している。それがまた、イルシオンの神経を逆撫でしていた。
「貴様ッ! オレを見ろ!」
逆上するイルシオンを難なくいなしながらも、ビルフレストの注目は『扉』へ向けられている。
初めて見る、自分達が望んだ『神』の姿を待ち望んでいる。余裕の笑みを浮かべながら。
「……っ! そんなわけには!」
しかし、ビルフレストの言う通りだった。
自分が動いた瞬間、この場の戦況は崩れる。向かった所で、猶予がどれほどあるのかも判らない。
歯を食いしばる事しか出来ない中、『扉』へ一直線に向かう者の姿を確認した。
「……シンさん」
アメリアはその名を呟いた。最後の希望を託す形で。
「シン!」
フェリーが走るシンの姿を視認したのは、アメリアと同時だった。
「俺が『扉』を何とかする! フェリーは、アルマを抑えておいてくれ!」
「でも……」
シンの言葉を、フェリーは受け入れるべきか迷った。ウェルカでの戦いは魔導石を誘爆させたものだ。
今の彼に破壊できるだろうか。最悪の結果にならないだろうかと、不安が胸を過る。
「俺を信じろ!」
「――わかった!」
それでも変わらない強い言葉に、戸惑いながらも頷く。
元より、自分はアルマに邪魔をされて辿り着きそうにない。信じるしかないのだ。大好きな、彼の言葉を。
シンは背中に走る痛みを堪えながら、ひたすら『扉』へ向かって走る。
去り際に拘束を解いたサーニャによって、ナイフで切られた背中が痛む。
それでも歩みを止める訳には行かない。一か八かでも、出来るのは自分しかいない。
取り出したのは、古ぼけた短剣。魔力を吸い取る。古代魔導具。
土の精霊の言葉を思い出す。
人工的に生み出された存在なら、そこに必ず魔力はあるはずだと信じて。
だけどもしも、自分の考えが間違っているのなら。
過る不安を、必死に抑え込む。賭けるしかなかった。他に手段は思いつかない。
膨らんでいく『扉』へ向かって、シンは短剣を突き立てる。
吸い取られた魔力が成長を止めたのか、『扉』の肥大化が収まる。
予想だにしなかった現象を前にして、敵味方を含めた全員が刮目した。
破壊できるのではないかという期待と、破壊されるのではないかという不安。
彼が何をしているのかよりも、この結果が双方の運命を決めるのだと全員が確信していた。
肥大化は止まる一方で、古代魔導具の短剣は刀身が輝く。
初めて見る現象だった。逆に言えば、この短剣にはまだ余裕があったのかとさえ思う。
(いける……ッ!)
シンが手応えを感じた直後。
古代魔導具の短剣に、亀裂が入る。
刹那、シンを中心に眩い光が周囲を覆う。それは『扉』諸共、シンの姿を隠した。
「シン!」
不安と悲痛の混じったフェリーの声が、こだまする。
シン・キーランドはそこで姿を消した。
影も形もなく、忽然と姿を消した。
その一方で、亀裂の入った『扉』はボロボロとその外殻を溢していく。
まるで孵化するかのように、『扉』の中から何かが現れようとしていた。