137.生きた証
不気味な腕が、真っ黒な壁を喰らい尽くす。
視界が広がり、様々な物が瞳に映し出される。
クレシアは咄嗟に、残った魔力を振り絞る。
使用した魔術は探知。広がる世界の状況を把握する必要があると感じた。
はじめに拾った音は、すぐ側に危機が迫っている事を彼女へ知らせた。
甲冑が僅かに擦れる音。どれだけ音を殺そうとも、クレシアの探知はそれを捉えた。
目線だけを向けると、音を発していたのはビルフレスト・エステレラだった。
まさか薄い壁一枚を挟んで、彼が身を潜めているとは思わなかった。
そして何より目を疑ったのは、王宮で失ったはずの左腕が在る事だった。
相対している『暴食』と同じ、漆黒の腕が。
ビルフレストは左手を伸ばすと、その矛先をイルシオンへ向けた。
もし、あの怪物と同じ物なら。考えたく無い事実がクレシアの脳裏を過る。
――どうすればいい?
風の魔術で押し出せるだろうか。万が一不発であれば、イルシオンを救ける事が出来ない。
残った魔力で、不確実な方法に頼る事は出来なかった。
「イル! 危ない!」
そう判断した時、クレシアは自然とイルシオンの背中を押していた。
思ったよりも大きく、広い背中。背負ってもらった時、どこか安心した自分がいる。
だけど、彼は自分だけではなく、もっと大きなものを背負う背中。
彼が振り向かなくて良かったと思う。最期の瞬間に見る彼の姿が、苦しそうな顔をしているのには耐えられそうにない。
これでいい。彼はこれからたくさんの人を、救けるに違いないから。
ただひとつ、心残りがあるとすれば。
いつまでも隣に居たかった。
それが叶わないと思うと、自然とクレシアの頬に涙が伝っていた。
さよならは、言わなかった。
言ってしまうと、もう逢えないと認めてしまうから。クレシアの細やかな、最後の抵抗だった。
……*
ビルフレストが「ここに居る」と言った漆黒の左腕は、膨張と収縮の運動を繰り返している。
まるで咀嚼のような動きは、イルシオンの頭に血を上らせる。
斬り落としたはずの左腕がある事は、気にも留めていなかった。
そんな事を考える余裕すら、今の彼には残っていなかった。
「どういう意味だ、ビルフレスト!」
紅龍王の神剣を構え、イルシオンは斬りかかる。
怒りに身を任せた直情的な動きは、猪のようだった。
「言葉の通りだ」
ビルフレストはイルシオンの剣を弾くと、それ以上は答えなかった。
ラヴィーヌと『色欲』に異なる能力が発現しているように、彼もまた『暴食』の消失とは違う能力を左腕に宿している。
その能力は吸収。左手で捕食した者を、自らの力へと取り込む。
様々な物を欲し、味方として得て来た彼にとっては願ってもない能力だった。
「ふざけるな! クレシアを返せッ!」
力任せの雑な剣撃が、ビルフレストの身体を捉える事はない。
容易く受け止められ、それが益々イルシオンを激昂させる。
怒りと焦りが彼の視野を益々狭くする。
自分が追っていた、異形の存在を忘れる程に。
「こ……ンのォ!」
ビルフレストの一振りで、イルシオンの剣は弾かれる。
よろめいた瞬間、背後に黒い影の存在を感じた。
弾かれた先、その背後に立っていたのは『暴食』だった。
頭上に全てを喰らい尽くす左手が構えられている。後はそれを、振り下ろすだけ。
「終わりだ。イルシオン・ステラリード」
「しまっ――」
イルシオンは悔しさで歯を食いしばる。
このまま自分も殺されてしまうのか。クレシアの仇も取れず、成す術もなく。
身体はいう事を利かない。躱せない。
「この……ッ! ボクの事も忘れるな!」
次の瞬間、『暴食』の左手はイルシオンに触れる事なく吹っ飛ばされる。
迫りくる『暴食』を蹴り飛ばしたのは、フィアンマだった。
「フィアンマ……」
「バカ野郎! ぼさっとするな!」
呆然とするイルシオンを、フィアンマは一喝する。
しかし、イルシオンは未だに心の整理がついていない。怒りと哀しみで、精神と肉体のバランスが釣り合っていない。
「勿論、忘れているはずがない」
そして、ビルフレストは当然忘れてはいなかった。紅龍王の存在を。
フィアンマの背に跨り、漆黒の左手が彼の片翼を抉り取る。
「が……っ」
「フィアンマ!」
自分の身を抉り取られる。襲い掛かる未知の激痛に、フィアンマは声を漏らす。
彼もクレシアが消えてしまったのを目撃している。叫び声を上げなかったのは、彼女への敬意を示してのものだった。
命を賭して大切な人間を守った彼女に、紅龍の王たる自分が負ける訳には行かないという意地を見せる。
「お前は……! 無礼だぞ! ボクの背中から降りろ!」
痛みに耐えながら、背中からビルフレストを振り払う。
断面から漏れ出る血が周囲に飛び散り、赤い雨を降らせた。
……*
リタの渾身の一撃。
妖精王の神弓による光の矢が『色欲』の頭部を捉えたのは、常闇の迷宮が消えるほんの少し前の出来事だった。
頭を潰され、悲鳴こそ上げられないものの、その身が悶えている事は確認できる。
抵抗する力は弱まってはいるが、『色欲』が活動を完全に止める事は無い。
「まだ動いてるの……!?
なら、まだまだ――」
どれだけしつこいのかと、リタは驚愕する。
レイバーンもヴァレリアも、とう限界を超えている。『色欲』は、今ここで確実に倒さねばならない。
妖精王の神弓が輝くと同時に、アメリアは神剣を構える。
大方の眼は、リタが潰している。今なら自分が斬りかかっても問題ないのではないか。
そう考えた矢先。
周囲を覆っていた、不気味な闇のカーテンが忽然と姿を消す。
常闇の迷宮が、遮断していた全てのものを解放した瞬間である。
「なに、これ……」
神弓を構えていたリタが、吐き気を催す。
『色欲』だけでも、十分に気持ち悪い感触が彼女に襲い掛かっていた。
それが今は、いくつも感じ取れる。
後方に現れた気配は『色欲』と同等。いや、それよりももっとおぞましい何かが、この島には潜んでいる。
「どうすれば……」
リタは既に弓を構えている。『色欲』は、確実にここで仕留めておきたい。
しかし、ならば背後の気配はどうすればいいのか。放置した一瞬は、命取りにならないのか。
猶予が残されていない中、リタは決断を迫られる。
その答えを弾き出したのは、アメリアだった。
「私が行きます。リタ様は、『色欲』を!」
「う、うん!」
アメリアも同様に、空気が重くなった事を感じ取っていた。
元々、妖精族程ではないにしろ彼女も魔力の感知には長けている。
『色欲』はリタへ任せ、自分は後方に現れた気配を断つ為に振り向いた。
新たに発生した異常な魔力。その発生源を見て、アメリアは目を疑った。
その先に居るのは、新たな化物とビルフレスト。そして、イルシオンと紅龍王。
更に言えば、ビルフレストは失ったはず左腕が存在しているではないか。
「一体、何が……」
訝しむアメリアだが、状況が芳しくない事はすぐに理解できた。
眼を凝らした先には、地面に転がる二本の腕。白く、細い腕。女性のものだと思われるものだった。
その答えは、激昂したイルシオンが教えてくれた。彼が怒りを露わにするというのなら、クレシアのものに違いないと。
直情的に剣を振るう彼は、冷静さを欠いてるどころではない。
襲い掛かる『暴食』を、フィアンマが蹴り飛ばすが、直後にビルフレストによって翼を抉り取られる。
ビルフレストを振り落としたものの、今度は『暴食』が再びイルシオンを狙っている。
彼はビルフレストしか見えていない。アメリアは咄嗟に、水の牢獄で『暴食』の左手を拘束する。
しかしそれは、消失によってかき消される。何が起きたのか判らず、アメリアは戸惑いを見せた。
「……っ、それなら!」
状況の整理が追い付かなくても、あの左手が危険だという事は本能的に察知した。
アメリアは走りながら、もう一度水の牢獄を放つ。今度は、『暴食』の両足を縛り上げるように。
急に足首を捉えられ、『暴食』はバランスを崩す。
倒れつつも『暴食』の左手は地面を捉える。抉り取られた大地が、イルシオンの体勢を崩す。
「終わりだ」
「貴様を殺すまでは、終われるか……ッ!」
ビルフレストの吸収を、紅龍王の神剣が受け止める。
反射的に起こった事ではあるが、魔力を帯びた神剣は消失同様に悪魔の左手を食い止める。
「……小癪な真似を」
僅かに苛立ちを見せるビルフレストだが、直ぐに考えを切り替える。
紅龍王の神剣を以てしても、イルシオンが自らの左腕を斬る事は叶わない。
ならばと、そのまま神剣の刀身を掴み、イルシオンの身体ごと投げ捨てる。
「き……ッさまァ!」
土煙を浴び、態勢を立て直そうとするイルシオンの動きが止まる。
ビルフレストが投げた先。そこに転がる二本の腕。クレシアの腕が、彼の精神を乱した。
全てはビルフレストの計算の上だった。イルシオンは、クレシアを殺された事により我を見失っている。
再びその証拠を眼前に突き付ける事により、彼に更なる動揺を呼び寄せる。
実際、その策は想像以上の効果を齎した。彼女の死を受け入れられていないイルシオンは、僅かではあるがビルフレストから意識が離れる。
その隙を逃さず、ビルフレストがイルシオンの頭目掛けて左手を振り下ろす。
ひとつ、確かめたい事でもあった。吸収で神器の継承者を取り込んだ場合、自分が神器を扱う事が出来るのかという。
「……ちくしょう」
頭上に近付く腕を見て、イルシオンが呟く。
反応が遅れたイルシオンは、迫りくる腕を躱す術が無い。
成す術が無いと、迫りくる左手をその眼に焼き付ける。
刹那、突風がイルシオンの身体を吹き飛ばす。クレシアの得意な、風の魔術。
誰かがそれを意図して唱えた訳ではない。風の発生源は、イルシオンの持つ鞘だった。
正確に言うと、その鞘に取り付けられた装飾品から発せられている。
クレシアが、彼に贈った装飾品。
普段よりも遥かに魔力を通した紅龍王の神剣。それを帯びた鞘が、装飾品に込められた魔術付与を発動させる。
どんな魔術付与が込められていたのか、イルシオンは知らない。
ただ、自分はまたクレシアに助けられた。それだけは感じ取った。
代償としてなのか、神剣の持つ魔力の負荷に耐え切れず、装飾品は砕ける。
役目を終えたのかのように、壊れた装飾品が地面へと転がる。
「待て……」
また壊れた。クレシアとの思い出が、クレシアが生きていた証が。
イルシオンを捉えられなかったビルフレストの左手は、そのまま地面へ突き付けられる。
その先にあるのは、クレシアの腕。吸収が、彼女の腕すらも喰らい尽くす。
「やめろォォォォ!」
イルシオンの叫びが、彼に届く事は無かった。
また失われた。クレシア自身が。どれだけ涙を流そうとも、覆らない現実がそこにはある。
「何を狼狽える必要がある。既にクレシア・エトワールは死んでいる。
今更腕が消えた所で、何かが変わる訳でもないだろう」
「ふざ……ける、な……」
ゆらりと立ち上がるイルシオンは、感情を制御出来ていない。
明確な殺意だけが研ぎ澄まされていく。
「――貴方って人は! 恥を知りなさい!」
このまま暴走をさせてはならないと、待ったをかける声が響く。
その声から間髪入れる事なく、剣閃がビルフレストを襲う。ビルフレストは咄嗟に左手で受け止めるが、魔力を伴った神剣は一歩も退くことは無い。
視線の先には、青髪の女騎士が立っていた。
「……アメリア姉」
イルシオンはその名を、ぽつりと呟いた。
……*
闇のカーテンこそ消えたが、凍結弾による氷の壁が阻んでいる反対側で戦闘を繰り広げるシンとフェリー。
サーニャは予め用意していたのか、魔法陣から魔物を召喚する。
魔物は主にフェリーを狙い、彼女のフラストレーションを溜める事に従事していた。
「もう! うっとーしい!」
魔導刃で現れた魔物を焼き斬るフェリー。
最初の現れた、冥府の番犬程強力な魔物は居ないが確実にシンとの連携を阻害されている。
「フェリー、イリシャ達から離れないように気を付けてくれ」
「うん、わかった」
シンはその意図を、第三王女から離す事を目的にしたものだと考えた。
結局のところ、第一王子派にとって重要なのはフローラであって自分達ではない。
オリヴィア単独での護衛を避けるべきだと判断をした。
(ああ、もう。本当にこの人は面倒くさい)
サーニャはシンの攻撃をナイフで捌きつつ、舌打ちをする。
こちらのやりたい事はお見通しと言わんばかりの対応が、腹立たしかった。
その上、自分は確実に第三王女から距離を取る様に立ち回られている。
「ねえ、シン・キーランドさん」
極めつけは何と言っても、この朴念仁っぷりだ。王宮でも思ったが、話術でどうこう出来る相手でもない。
剣の腕では、彼の方が勝る。召喚された魔物と戦う不老不死の魔女を気に掛けているから、自分に留めを差し切れないのは不幸中の幸いだった。
何なら、ラヴィーヌですら彼を操る事が出来ずに逃げ出してきていた。邪神の能力すら効かないとは、全く以て意味の解らない存在だ。
ただひとつ。サーニャに優位性があるとすれば、常闇の迷宮が解除されたという事。
上手く事が進んでいるのならば、彼はすぐ傍にいる。
「いいんですか? こんなに離れて。
フローラ様の命、貰っちゃいますよ? アルマ様が」
「……なんだと?」
シンの眉間に、皺が刻まれる。
サーニャは企みが成功したと確信したが、直後に至近距離で銃口を向けられる。
「そこをどいてもらう」
「もう! 人の話を聞いたと思ったら、せっかちにも程がありますよ!」
咄嗟にナイフの腹で銃を叩き、起動を逸らす。打ち込まれた銃弾が、地面に小さな穴を開けた。
シンはそのまま銃とナイフの接触面に加わる力を利用し、サーニャとの位置を入れ替える。
彼女への開会を怠る事なく、第三王女の状態が確認できる位置を確保するために。
視線の先には、人影がひとつ増えている。
それは先の言葉が苦し紛れの嘘ではない事を意味していた。