136.きみのぬくもり
自身の血の臭いが、得体の知れない怪物へ染み付いていく。
『色欲』を野放しにしてはいけないという責任感が、レイバーンに意識を失う事を拒否させる。
(ヴァレリアは……)
彼女もまた、『色欲』と眼を合わせないように視界を断ちながら戦っていたようだった。
ぎこちない動きで攻撃を仕掛けるが、剣は折られ今は膝をついている。
それでも、浅い呼吸音が彼女の生命の灯火が尽きていない事を証明する。
状況は最悪だった。
獣魔王の神爪を持っている右腕は完全に折れてしまっている。
右腕だけではない。身体の凡ゆる部分が軋み、裂かれた傷が空気に触れて激痛を与える。
全身を襲う痛みが、傷の正確な位置を教えてはくれない。
きっと閉じた瞼の向こうでは、『色欲』は不気味な笑みを浮かべているのだろうと想像する。
レイバーンが迫り来る『死』を間近に感じた時、その匂いを嗅ぎ取った。
自分が愛してやまない妖精族の女王の匂いを。
夢かと思った。神も最後に粋な計らいをすると。
錯覚でもいい。それなら、彼女の匂いを記憶している自分を誉めるだけだと。
「――レイバーン!!」
だが、違った。リタの声が、鼓膜を揺らす。
彼女は間違いなく、ここに居る。自分の名を、呼んでいる。
嬉しくて堪らない反面、レイバーンは彼女を止めなくてはならない。
『色欲』と目が合えば、彼女も精神が汚染されてしまう。
心優しい、美しい彼女が何者かに穢される姿など、見たくもない。
「リタ、来るな! この者の眼を見てはいけない!
操られてしまう! 離れるのだ!」
「……えっ!?」
遠巻きにレイバーンの言っている言葉。その全てを理解した訳ではない。
それでもリタは足を止めた。レイバーンは真実を語っているという確信があった。
だが、それでも痛めつけられている彼を諦める理由にはならない。
彼や『色欲』との距離は、まだ開いている。不気味に輝く瞳が放つ眼光は、リタやアメリアには届いていない。
一方的に攻撃するならこの位置が最適解だと、リタは決断する。
「妖精王の神弓。お願い、力を貸して……!」
リタの願いに応えて、妖精王の神弓は一際強い光を放つ。
愛と豊穣を司る神が、レイバーンを想う心に寄り添うように応えた。
暖かくて、眩い光。真の神が放つそれに、造られた神が興味を示す。
その意思を受け取ったのは、分体である『色欲』。リタに顔を向けると、口元が裂けるほどに邪悪な笑みを浮かべる。
遠目で判る、その異質さ。身体中で怪しく光る、金色の瞳は斑点のようだった。
無数に見えるそれを、全て正確に撃ち抜く事が出来るだろか。
(ううん。違う、やらなきゃ)
出来るかどうかではなく、やらなくてはいけない。
神経を集中させる。誰が何処に居るかではなく、もっとその先へ、深いところまで、魔力の感じるべく。
一際大きくて、凶々しい魔力を放つ邪神の分体。
その身体の中でも、魔力の強弱は存在する。強い魔力を放っているのは、金色に輝いている斑点そのもの。
視覚的な補助は要らない。魔力が魔力へ吸い付くように、神弓へ願いを込める。
不気味な魔力の発信源。その全てを破壊すべく、リタは妖精王の神弓から光の矢を放つ。
神の加護を受けた矢が、閃光のように『色欲』の体表に浮かぶ金色の瞳に刺さる。
吸い付くように的確に、『色欲』の瞳へと矢は刺さっていく。
眼は潰されて、閉じられ、金色の斑点はその数を確実に減らしていく。
離れた位置から正確に、一方的に射抜かれる事に不快感を覚える『色欲』。
あの女は危険だと、標的を変える。
「――先程まで一方的に弄んでおいて、つれないではないか。
まだまだ余は、お主と遊び足りておらぬぞ」
レイバーンの左手が『色欲』の右腕を掴み、リタの元へ向かう事を許さない。
遊び終わった玩具への怒りを口元で表現をしても、それに気付く者はいない。
苛立ちから足蹴にしようとしたが、足が上がる事は無かった。
「いやあ、レイバーン殿は良い事を言う……!
アタシも、アンタには借りを返さないといけないんでね……!」
『色欲』の両足を抑えているのは、ヴァレリアだった。
グロリアの双剣。その片割れは彼女の血で真っ赤に染まっている。
それでも構わず引き抜き、『色欲』の両足を地面へと縫い付ける。
絶対にここから逃がさない。希望を途絶えさせたりはしない。
強い意思が、『色欲』に動く事を許さない。
『色欲』は残った左手を掲げ、指先に力を籠める。
まずはこの獣人。次に、足下を這いずる人間。
自分に比例を働く少女の元へ行くには、この二人の息の根を止める必要があると判断した。
『色欲』の行動より一手早く、アメリアが呟く。
「――水の牢獄」
その掲げた左手を巻き込む形で、『色欲』の頭部が水の輪に囚われる。
蒼龍王の神剣を触媒に放った、水の牢獄。
そのまま絞め殺す勢いで、水の輪は『色欲』の自由を奪う。
「リタさん、今のうちです」
完全に、自分の出せる力を振り絞った得意魔術。
それでも尚、『色欲』は抵抗を試みる。
輪の直径は段々と広がり、レイバーンの身体は浮き始める。
両足に至っては、刃がへし折られようとしていた。
あまり長時間拘束はできない。自由になれば、勝ち目は失われる。
このまま、身体中の瞳を潰し終えるまで持ち堪えれるとは思えない。
ならばと、リタは妖精王の神弓へありったけの祈りと魔力を込める。
「妖精王の神弓、お願い――!!」
彼女の全てが凝縮された矢が、頭部に向かって放たれる。
刹那、『色欲』が自分の顔を拘束していた水の牢獄を強引に食い破る。
顔に密着していたのが、仇となっていた。
「――っ! まだです!」
左腕を自由にしてなるものかと、アメリアが残った水を利用して再び水の牢獄を唱える。
水の輪が左腕ごと身体へ巻き付き、再び『色欲』の左腕から自由を奪う。
ならばと、『色欲』は首を回して妖精王の神弓の直撃を避けようと試みるが、頭上から強い衝撃を受ける。
「お主は、そのままで良いのだ」
レイバーンは折れた右腕を強引に動かして、獣魔王の神爪を『色欲』に叩きつける。
一瞬だけ与えた硬直。だが、それで良かった。その一瞬だけが、必要だった。
妖精王の神弓の矢は、『色欲』の頭部に突き刺さる。
灼熱のような痛みが、邪神の分体を焼き尽くそうとしていた。
……*
三日月島の中央。まだ残っている常闇の迷宮の壁。
『色欲』と戦闘を繰り広げている裏側では、イルシオンとクレシアが『暴食』と相対していた。
「でぇぇぇぇい!」
紅龍王の神剣の切先に魔力を込め、『暴食』へ切り掛かる。
消失を持つ漆黒の左手がそれを受け止め、魔力同士の衝突により弾き飛ばされる。何度も繰り返された行為だった。
「くそ、全く傷が付かんぞ……」
「イル、大丈夫?」
「ああ、オレはこの通りだ!」
「いや、体力じゃなくて……」
クレシアが懸念しているのは、イルシオンの魔力だった。
『暴食』の左手と接触を、爆発を起こす規模が確実に小さくなっている。
それはイルシオンの魔力が尽きかけている事を意味しており、そうなれば消失を防ぐ手立てはない。
彼に限った話ではない。クレシアも相当の魔力を消費しており、あの左手を何度防げるかは判らない。
対する『暴食』は表情が一切読み取れない。
あの能面は、何を思っているのか。自分達のように、消耗しているのか。それすらも判らない。
もし、一切の疲労が無いのであれば。自分達のしている事は全くの無駄骨となる。
魔力が尽きかけている不安からか、二人はジリ貧であるこの状況に畏れを抱いていた。
地図も無く、知らない土地を歩いているような不安。
焦燥感はやがて、判断を遅らせる。
「しまった!」
攻撃に転じた瞬間の事だった。
『暴食』の右手に紅龍王の神剣が弾かれる。
「イル!」
咄嗟にクレシアが風の魔術を放つ。詠唱を破棄したそれは、今までよりも大分弱まった風を生み出した。
焦りが心身の疲労を顕著にした。二人が同時に、固唾を呑み込む。
「イルシオン!!」
イルシオンが『死』を覚悟した瞬間、上空から声が聞こえる。
鉤爪のような足が、『暴食』の頭を掴む。
そのまま力任せに地面へと叩きつけ、邪神の分体を踏み潰す。
「フィアンマ!」
空から現れたのは紅龍の王だった。上空を飛びながら感じた強い魔力。
邪悪な意思を感じた中で、彼は紅龍王の神剣の魔力をも感じ取っていた。
「お前たち、黄龍王はどうしたんだ?」
「倒せはしなかったが、足留めはしたぞ。
それで島の中心部を進んでいたら、黒いのが現れたんだ」
神器を持っているとはいえ、人間二人で黄龍王を抑えたというのは俄かに信じ難い話だった。
だが、彼らがここに居るという事は事実なのだろうと、フィアンマは感心した。
「大したもんだな。……で、黒いのはなんなんだ?」
「オレ達が訊きたいぐらいだ!」
「……きっと、邪神だと思う」
躊躇いながら、クレシアが答えた。
英雄を志す彼からすれば、絶対に仕留めたいであろう存在。
その名を発してしまえば、彼が認定してしまえば。きっと、この満身創痍の状況でも無茶をする。そう思って、口にしなかった単語。
イルシオンの危険を省みて、クレシアはあえてその名を口にはしなかった。
「邪神!? コイツがか!?」
「完全なものではないかも知れないけど、たぶん……」
しかし、フィアンマが現れた事により状況は変わった。
紅龍の王である彼が加勢してくれればあるいはという思いが、クレシアの気持ちを前に向けさせる。
「なら、絶対にここで倒す必要があるな。
クレシア、フィアンマ。手伝ってくれ」
「うん」
「なんでお前がリーダー面しているのかはともかく、分かったよ」
『暴食』が起き上がる瞬間を狙い、フィアンマが炎の息吹を吹き付ける。
並の生物では堪えきれない熱を、『暴食』の左手が喰らい尽くす。
「なんだ、あの左手は!?」
炎を裂いて現れた『暴食』。突き出された左手を、イルシオンの紅龍王の神剣が受け止める。
「気をつけろ! コイツの左手はあらゆるモノを喰らい尽くす!」
互いの身体を押し合うイルシオンと『暴食』。
その隙を狙ってクレシアは、風刃で『暴食』の四肢に傷をつけていく。
残り少ない魔力で無茶は出来ないと、丁寧にイメージを固めて放つそれは、『暴食』の体勢を崩す。
「うおおおおお!」
クレシアの風により僅かに浮いた『暴食』の身体へ向かって、フィアンマが己の尾を力の限り叩きつける。
鞭のようにしならせた、紅龍王の力強い一撃は『暴食』の身体を捉える。
常闇の迷宮の壁へ向かって吹き飛ばされる『暴食』。無造作に開かれた左手が、壁へと触れる。
消失によって、食い破られる常闇の迷宮。
それが最後の引き鉄だったかのように、張り巡らされた壁は姿を消していく。術者の魔力が尽きた証だった。
「逃がすものか!」
ゴロゴロと転がっていく『暴食』。
今が好機だと、イルシオンは残った魔力。その全てを紅龍王の神剣へ注ぎ込む。
確実に仕留める。前のめりな想いが、広がったはずの視界。
それを彼から奪い取ってしまった。
「イル! 危ない!」
背中から聞こえる声は、クレシアのものだった。
言葉の意味を頭で認識するよりも早く、イルシオンの身体が押される。
不意の事に体勢を崩し、前へと倒れ込むイルシオン。
それが、彼女との最後の接触だった。
「何をするんだ、クレ――」
振り向いた先に、自分を押したはずの彼女は居なかった。
白くて細い、美しい腕が二本。肘から先だけ、宙に浮いている。
それすらも重力に負け、ポトリとその場に落ちる。
「クレ……シア……?」
イルシオンは頭が真っ白になる。
おかしい。クレシアはさっき、自分に注意を促した。危険だと、背中を押してくれたじゃないか。
どうして何処にも居ないのか。この腕は、一体誰の物なのか。
歯を鳴らしながら、現実逃避をするイルシオン。
落ちた腕。その左手、薬指にはめられた指輪が震える彼の瞳に映る。
先日、廃坑でゴブリン退治をした後。クレシアの家に泊まった際に貰った指輪。それと同じ意匠で作られた物だった。
「あ、ぁ……」
指輪はクレシアが彫ったもの。同じ物を、誰かが作る事など出来るはずがない。自分が見間違うはずがない。
認めたく無い現実が、目の前にある。この腕は、クレシアのものだ。
「どうして、クレシア……。ウソ、だよな……?
どこかに、いるんだよな……?
なぁ……。なぁ、返事をしてくれ! クレシア!!」
イルシオンが手を伸ばす。
彼女の手に触れると、まだ僅かに温もりが残っていた。
その事実が、イルシオンの胸を締め付ける。
「ああ、居るとも」
不意に鼓膜を揺らした方角へ、イルシオンは顔を向ける。
甲冑を鳴らしながら近付いてくる足音は、威圧感を放っていた。
「クレシア・エトワールは、ここに居る」
イルシオンの眼前に現れたのは、ビルフレストだった。
彼は漆黒の左腕を掲げる。それは呼吸をしているかのように膨張と収縮を繰り返していた。
「本来なら貴殿を先に始末するつもりだったのだがな。
彼女に感謝をするといい」
「ビル……フレストォ……!
貴様か……貴様の、仕業かァ!!」
平然と言い放つビルフレストにイルシオンが抱いた感情。
それは怒りでも哀しみでも無く、純然たる憎悪、殺意だった。