135.暴食の悪魔
手に力が入らず、アルマは持っていた剣を地面に落とす。
初めて汚した手は想像以上に自分の精神へ負荷を与えていたと、今になって気が付いた。
横たわる父と姉の姿を、ぼんやりと見つめる。
もう動かない。動く事はない。血溜まりの表面が乾き、薄い膜を張る。
アルマは地面に刺さったままの黄龍王の神剣へ手を伸ばす。
どれだけ力を込めても、引き抜く事は出来なかった。
「……やはり、僕が認められたわけではないか」
ぽつりと、アルマが呟く。そこには、口惜しさが入り混じっていた。
黄龍王の神剣はあくまで、父を所有者として認めなくなっただけだ。
自分が認められたかどうかは、別の話となる。
「アルマ様」
闇のカーテン、その一部が姿を消す。向こう側から姿を現れたのは、テネブルだった。
横たわる国王と第一王女へ視線を送ると、彼は口元を結んだ。
「テネブルか。指示通りに動いてくれてありがとう。
連れてきてくれたサーニャにも感謝をしないといけないな」
フリガをネストルに討たせる案は、実際のところ賭けでもあった。
あまりに掛け離れた実力差だった場合、そもそもこの状況を作り出す事は出来ない。
常闇の迷宮の生み出した壁に追い詰められた瞬間が、アルマにとっては最大の危機と好機が混在していた事となる。
神器のなり損ないである漆黒の剣。その接触を正確に感知したテネブルの手柄だった。
「いえ……。フリガ様の振る舞いに不満の募らせる者も少なくはありませんでしたから……」
自分自身もその一人だと、テネブルは続ける。
元々は第二王女の護衛を務めていた自分が、彼女に見初められた事により振り回される日々が始まった。
双方の臣下からは間者だと怪訝な眼を向けられたり、最早何の為に仕えているかも曖昧になった頃。
ラヴィーヌを介して悪魔の囁きが彼をこの場へ誘った。
「それで、君の溜飲は下がったのかい?」
「どうでしょう。恨みがあったというのは少し違いますし……。
ただ、大手を振ってアルマ様にお仕え出来るのは嬉しく思います」
「そうか。僕は臣下に恵まれているな。
それで、テネブルはどう思う? これで戦いが終わると思うかい?」
アルマの問いに、テネブルは首を横へ振る。
「ミスリアの者は止まるかもしれませんが、他の者はどうでしょうか。
邪神の顕現を阻止する為に戦い続ける者もいるかと……」
過ぎた発言をしたと思い、テネブルはハッと我に返る。
だが、アルマは怒ってなどいない。むしろ、満足気に頷いている。
「僕もそう思う。まだ、戦いは終わらない。
きっと、邪神の力を見せつけるまでは終わらないだろう。
逆らう事が無駄だと、思い知らせる必要がある。
テネブル、常闇の迷宮はまだ維持が出来そうかい?」
「正直に申し上げますと、些か維持も厳しくなっております。
形を数回に渡って変化させた他にも、破壊を試みる者が数名見受けられますので……」
アルマは訝しむ。常闇の迷宮を破壊すると言う事は、対極にある光に属する魔術の使い手。
真っ先に思い浮かぶのは妖精族の女王だった。
彼女はそれに加えて、神器も所有している。常闇の迷宮を打ち破る者としては最右翼に立っている。
一方で、複数というのが解せなかった。他に誰が、この魔術を破壊出来るというのか。
自分ですら神剣擬きを用いて、壁の向こう側へ合図をするのがやっとだというのに。
やはり自分の道に立ち塞がる者は残っていると、アルマの本能が警鐘を鳴らす。
やはり、まだ戦いは終わっていない。見せ付けなくてはならない。邪神の力を、恐ろしさを。
「では、僕は島の中央に戻って状況を把握しよう。
君はここに居て、常闇の迷宮の維持に努めてくれ」
「はっ! 仰せのままに」
アルマは発つ前に、もう一度父の亡骸を見る。
首を斬り落とせば、敵の戦意を削ぐ事が出来るかもしれない。
そう考えたにも関わらず、彼は実行に移さなかった。いや、移せなかった。
今の彼は頑なに認めないだろうが、父にも姉にも情は持っていた。
心の奥底に眠る僅かな想いが、父を晒し者にする事を拒んでいた。
アルマは三日月島の中心部へ向かって歩み始める。
自らの望む道を歩む為に、顔を上げながら。
……*
常闇の迷宮の生み出した壁。
それに沿って進んでいくイルシオンとクレシア。
延々と続く薄暗い道で、彼の我慢の限界が訪れようとしていた。
「ああーっ! もう、何なんだ!?
歩いても歩いてもこの壁が邪魔をする!」
苛立ちから、紅龍王の神剣で壁の破壊を試みてもびくともしない。
クレシアの探知でも、周囲の音は遮断されている。
イルシオンのフラストレーションは溜まる一方だった。
「イル、暴れたら無駄に体力を消耗するよ。
まあ、この道もいつまで続いているのか判らないし、脱出したい気持ちは解るけど……」
フリガのご機嫌取りやアルマとネストルの戦闘。そして、ラヴィーヌを逃す為に常闇の迷宮はその形を変えた。
その煽りを彼らも受けており、今では引き返そうにも元の位置に戻れるかすら怪しくなっていた。
一方で、黄龍王が追ってこないであろう事には安堵していた。
前に進めば何かあるかもしれないと、己を奮い立たせるにも限度がある。
終わりが見えないという事実は、確実に二人の精神を削り取っていた。
特に気配の察知が顕著となる。周囲の音や魔力が遮断されている影響で、逆に言えば敵が潜んでいない事が容易に解る。
故に、気配もなく現れた存在への反応が一歩遅れる。
突如、自分達を覆う闇のカーテン。その陰が、濃くなった気がした。
イルシオンは本能的に、クレシアを抱えて前へと跳ぶ。
「イル!?」
目を見開くクレシア。何かがイルシオンの髪を掠める。
次の瞬間、自分達の立っていた位置。その地面が大きく抉れている事を視認した。
「なに、あれ……」
大地を喰らった者。その姿を確認したクレシアが、ポツリと呟いた。
悪意を煮詰めた、ヒトの形を模した異形の存在。身体の所々が白く、溶け合うようにコントラストを生み出している。
それでいて左腕だけが、一切の光を拒絶するような漆黒で覆われていた。
かつてロベリアの廃教会にて顕現した邪神。『暴食』を司る分体が、洗練された形で三日月島に姿を現す。
あの時よりもより人間に近い形状をしている。だが、最初に現世と接続した際に介入した思念。
この場に居る誰も知らない事ではあるが、ピースの苦し紛れにより紛れたイメージの阻害。それを完全に消し去る事は出来ていなかった。
『色欲』より容易に顕現させる事は出来たが、完成度は劣っている。
それでも尚、生まれた悪意の塊である『暴食』はクレシアを戦慄させた。
自分達より一回り大きい程度の体躯とは思えない威圧感に、二人は気圧される。
どうしてこんな気配を、直前まで気付かなかったのかと思う程に。
「クレシア、何が居た!?」
彼女を抱えて前方へ跳んだイルシオンが、妙な気配の正体を求める。彼はまだ、『暴食』を視界に捉えてはいない。
どう形容すれば良いのか判らず、クレシアは言い淀む。
それだけで、イルシオンは自分の直感が正しかった事を察した。
クレシアもまた言葉こそ悩んではいたが、『暴食』の解析を放棄した訳では無い。
抉り取られた大地。そこにあったはずのものが忽然と消えている。
掴んだと思われる左手は、膨張と収縮を繰り返す。
それらから、クレシアは『暴食』の能力についてほぼ満点の解答を導き出していた。
着地したイルシオンが、クレシアを下ろして『暴食』と向き合う。
その異様さに驚きの顔を見せたが、すぐに紅龍王の神剣を構える。
「なんだ、あいつ……」
「イル。あいつの左腕に気をつけて。
きっと、何もかも喰らい尽くす」
その表現が正しいのかは迷ったが、クレシアは敢えてそう伝えた。
『暴食』が持つ、左腕の能力は消失。
彼の左手に喰われたものは、消えてしまう。ヒトであろうと、モノであろうと。
「それ、どうすれば良いんだっ!?」
「そこまでは分からないよ!」
戸惑う二人をよそに、『暴食』は駆ける。
対抗策が思い浮かばないまま、二人は迎撃を強いられた。
「クレシア、下がるんだ」
イルシオンは咄嗟にクレシアを後ろへ下がらせる。
既にクレシアは自分の要求に応える為に、かなり魔力を消費している。
いくら彼女が平気だと言っても、額面通りに受け取るほど愚かではなかった。
(どうする? 一体どうすれば――)
相棒にこれ以上の無茶はさせられない。そう考えているのは、クレシアも同じだった。
イルシオンもまた、己の魔力。その多くを紅龍王の神剣へ捧げている。
体力だってそうだ。黄龍王との戦いは、確実に彼の神経を削り取っていた。
猶予は殆ど存在しない。それでも、クレシアは決断を迫られる。
詠唱を唱える時間は無い。必然的に、詠唱の破棄を求められる。
出した結論は、低級魔術の連発だった。
「風刃!」
刃となった空気の塊を、気味の悪いヒトへひたすら放つ。
避けないのか、避ける必要がないのか。『暴食』は無数の刃を浴びる。
顔を、胴を、脚を傷付けようとも動じない。
唯一、左手を翳すとそこに触れた風刃だけが消失した。
予想が当たった反面、歯痒くもなる。
低級魔術でいくら傷付けようとも、目の前の化物は止まらない。
なんでも削り取る悪魔の左腕が、迫ってくる。
「そんな攻撃が当たるか!」
乱暴に、雑に突き出された左手をイルシオンは突き出された腕の死角へ回り込む。
それだけ厄介なら肩口から斬り落とそうと、神剣へ魔力を注ぐ。
しかし『暴食』もまた、イルシオンがその方向へ逃げる事を読んでいた。
「イル!」
身体を軸に、横薙ぎに払われる左手。
踏み込んでしまったイルシオンは、躱す事が出来ない。
「こ、のお!」
ならばと、魔力の注いだ紅龍王の神剣。それを咄嗟に差し出した。
神剣と悪魔の左手が触れ、バチバチと火花が散る。
反発し合うかのように、互いの身体が吹っ飛ばされた。
「イル! もう、無茶しないでよ……」
「悪い。だが、どうやら何でも喰えるわけでもないようだな」
弾かれた時の感触を、イルシオンは思い出す。
紅龍王の神剣特有のものではなく、魔力同士がぶつかった時のような反応。
一部の魔力は食い破られたかもしれないが、互いを弾くほどの威力は残っていた。
神器以外でも対抗が出来る可能性が、今の攻防から推察出来る。
事実、過去にピースは不完全とはいえこの消失を受け止めている。
純度の高い魔力の塊である魔導刀でも、同様の現象は起こす事が出来ていた。
抵抗は出来る。見えた活路を、どう扱うか。
自分もクレシアも、万全の体調には程遠い。呼吸を落ち着かせながら、イルシオンは邪神の分体を睨み付けた。
……*
常闇の迷宮の生み出した壁。
それをリタの妖精王の神弓による攻撃で破壊しながら進む。
最短距離で島の中心部を目指すと同時に、相手の企みに乗らないようという意味合いが込められていた。
実際のところ、初めこそ破壊した壁を修復する動きが見られていた。
しかし、ある時を境にそれは止む事となる。
それがどういう意味を持つのか、歩いているシン達はまだ知らない。
尤も、合流の可能性が高まった事は一向に取って悪い流れでは無い。そう感じとっていた。
様相が一変したのは、立ち塞がるある壁をリタが破壊した事から始まる。
「ぅ……」
あまりの気持ち悪さに、思わずリタが声を漏らす。
穴から溢れる魔力の残滓が自身の身体を重くする。
こんな禍々しいものが一枚の壁を隔てた先にあるとは思わなかった。
「リタ、大丈夫?」
咽せるリタの肩に、イリシャがそっと手を添える。
程なくしてアメリアとオリヴィアも、その異様な魔力を感知したのか口元を手で覆った。
「なんですか、これ……」
「もしかして、邪神が……?」
「はい、大正解です!」
崩れた壁の向こうでパチパチと手を鳴らす一人の女性。
にこやかに拍手をしながら出迎えたのは、サーニャだった。
「サーニャ……!」
「はーい、サーニャですよー。皆さんここまで辿り着くなんて。
いやあ、恐れ入りました」
奥歯を噛み締め、怒りの混じった声でその名を呼ぶアメリア。
サーニャは飄々とした態度で、その感情を受け流す。
挑発していると分かっていても、剣を握る手に力が入る。
だが、この場面で気に掛けるべきはサーニャでは無かった。
リタが感じた、悪意を煮詰めた魔力。それに混じって、消え入りそうな魔力を彼女は感知する。自分のよく知っている魔力だった。
彼の魔力を、リタが間違えるはずがない。
「……レイバーン」
青ざめた顔で、その名を呟く。
事の重大さを全員が理解するには、それだけで十分だった。
「ありゃ、バレ――」
サーニャが言い終わるよりも速く、シンの右手から銃声が鳴り響く。
若干の焦りが入り混じったそれは、サーニャに躱されてしまう。
「もう、せっかちですねえ」
身を逸らしたサーニャの身体。その向こう側にあるのは、黒と金の混じった異形の女。『色欲』。
レイバーンと同じぐらいの体格を持つ『色欲』が足蹴にしている者こそ、魔獣族の王だった。
右腕はあらぬ方向へ曲がっており、遠目からでも無数の傷が彼の生命を脅かしている事が判る。
その側では大量の血を流しているグロリア。首には彼女の双剣、その片割れが刺さっている。
そして、折れた大剣を握りしめながら膝をつくヴァレリア。彼女も血と泥に塗れており、どれが彼女本人のものかさえ判らない。
「レイバーン!」
次の瞬間、リタは走り出していた。
罠かもしれない。そんな事が脳裏を過ぎる余裕すらない。
ただ、愛する者が命の灯火を失おうとしている。その光景が耐え難かった。
「オリヴィアは、フローラ様とイリシャさんを!
絶対に、お二人から離れてはいけません!」
「は、はいっ!」
一目散に走り出すリタを追い掛けたのは、アメリアだった。
横たわるグロリアは、恐らくもう生きてはいない。
その上で、神器を持つレイバーンと黄道十二近衛兵でも屈指の武闘派であるヴァレリアが成す術もなく倒れている。
この状況で、リタ一人を向かわせるのは危険だと判断した。
「そうはさせませんって」
しかし、サーニャもリタが狼狽する事は分かりきっていた。
かつてレイバーンが自らの命を差し出した時に、大粒の涙を流して拒否を示したのだ。
この状況で、冷静でいられるはずがないと。
サーニャが予め描いていた召喚用の魔法陣を起動する。
現れたのは、冥府の番犬。召喚するなり、彼女はリタの喉笛を食いちぎる様に指示を出す。
刹那、冥府の番犬とリタ。正確に言えば他の全てからリタとアメリアを遮るように氷の壁が生み出される。
シンが咄嗟に放った凍結弾が造り出したものだった。
氷の壁は冥府の番犬の脚を巻き込む。
動きを奪った一瞬の隙を突いて、フェリーが魔導刃で番犬の身を焼き尽くした。
「リタ、行け。こっちは任せろ」
「う、うん! ありがとう!」
我を失っていた事に気付くリタだが、シンの声に後押しされて前を見る。
氷の壁の反対側では、サーニャが下唇を噛んでいた。
「ほんっとうに……。貴方の事は、好きになれそうにありませんね」
「俺は元々そう思っている」
シンがそう答えると、サーニャは眉を引き攣らせる。
三日月島にいる人間が全て、中心部に集結しつつある。
決着の刻は、刻一刻と近付いていた。