133.託した意地
邪神の分体。その一柱である『色欲』。
ラヴィーヌの魅了を完全なものにするべく、顕現を優先された存在。
純度の高い妬み、怒り、苦しみが呪詛という名の祈りとして神を模した像へ注がれて行く。
名前はない。本来ならば存在していない神なのだから。
形は決まっていない。祈りを捧げる者の、イメージが反映されている。
依代として用意された邪神像。その形が、最低限顕現に必要な共通認識として刷り込まれたにすぎない。
人工的に創り出された神。そのプロセスは、魔術の開発に近い部分があった。
大切なのはイメージと、顕現を行う為の魔力。そして、強い願い。
その三点を増幅させる物として造られたのが『核』であり、派生して邪神像となった。
マーカスの造り出した邪神の『核』。
そこから生み出された怪物は、女性ばかりを喰らっていた。
顕現において意図された事では無かったが、女であるラヴィーヌが適合した『色欲』の身体は、想定より早くその姿を整えていく。
漆黒に塗り潰されたような身体は、巨大ではあるが女性的なシルエットをしている。
金色の紋様が描く曲線美は、禍々しくも美しくも感じ取れた。
同じ『色欲』を冠してはいるものの、その能力はラヴィーヌと仔細が違う。
力の源は同じでも、込められた祈りや目的が違うからだった。
ビルフレストを心酔し、愛し、彼の役に立つ。その想いを糧に適合を果たしたラヴィーヌ。
彼女の魅了は、自分の身に起きて欲しい事を発現させた。
言葉にも、行動にも中々映す事は出来ない。やがて彼女は、いっそビルフレストが自分へ愛を向けてくれないだろうかと考えた。
その想いが、他人を魅了する能力の根源。
サーニャが「抱いてあげればいいのでは?」と提案した際に、ビルフレストが断ったのにはこの背景をうっすらと感じ取っていた事に起因する。
彼の為に数多の人間を虜に、傀儡にしようとも決して心の距離が縮まる事はない。
かと言って、ビルフレストには本心から振り向いて欲しい。彼に魅了を使用する選択肢は、ラヴィーヌには無かった。
一方で『色欲』の分体は顕現に至るまでに、様々な人間の呪詛が込められている。
その結果、魅了とは違った形でその身に能力を宿す事となった。
顕現した『色欲』の持つ能力は、精神汚染。
精神を掻き乱し、見るべきものを見誤らせ、自らの傀儡とする。
大筋では魅了に似ているが、『色欲』自体に操ったものを命令する意図はない。
邪神の分体の為になる行動をグロリアが反映した結果が、自分の首を掻き切るというものだった。
……*
血飛沫を上げながら自分の『生』が終焉に近付いている事を、グロリアは感じ取った。
掠れて行く視界の中、姉が何かを叫んでいるのだけは辛うじて理解が出来た。
「グロリアァァァァァァ――ッ!!」
悲痛な叫び声。発せられた言葉は、自分の名前。
何故、そうなるのだろうか。薄れゆく意識の中で、グロリアは戸惑っていた。
――ヴァレリア姉さんは、何をそんなに叫んでいるのかしら。
――わたくしは役に立てたのです。神の、ビルフレスト様の。そして、アルマ様の。
――姉さんも、すぐに理解するはず。これが、一番正しい選択なのですから。
汚染された精神は、自分が成すべき事を狂わせる。
体内に入り込んだ魔力が、グロリアの魔力と結びつき、増殖し、蝕む。
身体を支えていられなくなり、崩れ落ちていくグロリア。
命の灯火が消え入りそうなその瞬間。
生命を維持するものは残っていない。魔力さえも、体内から尽きる一瞬。
増殖していった悪意の籠った魔力。それも同時に薄れて行く。
それによりグロリアが、自分の意志を取り戻す。
だが、既に身体は『死』へ一直線に向かっている。
仮に治癒魔術が使える者がいようとも、その事実が覆る事はない。生死の境目はとうに越えてしまっていた。
彼女は、強い女性だった。精神を汚染され、『色欲』の玩具と成り果てても、最期にその気高き精神を取り戻した。
殆ど動かない身体を、手を、指を伸ばす。
自らの血が付着した指が、『色欲』に触れる。
自身が汚されたと憤慨した『色欲』は、グロリアを蹴り飛ばした。
糸の切れた人形のようにゴロゴロと転がって行くグロリアは、二度とその身を動かす事は無かった。
(わたし……は、ここまで……です。
ねえさ……クレ……、あと……おねがい……)
死に際の刹那。己を取り戻した彼女の口元は、笑みを浮かべていた。
……*
「イル、降ろして」
クレシアは自分を抱えながら走るイルシオンに、降ろして欲しいと懇願する。
首を傾げながらも、イルシオンは言われるがままに彼女を降ろした。
「どうかしたのか?」
「ううん。なんとなく、自分の力で歩かなきゃって」
「ふむ……?」
イルシオンは解らないといった仕草を見せる。クレシア自身、どうしてそんな頼みをしたのか判っていない。
何かを感じ取った訳ではない。探知は、闇のカーテンの向こう側まで届く事は無かった。
だからという訳ではないが、イルシオンの体力を無闇に奪ってはいけないと思ったのだ。
紅龍王の神剣を持つ、英雄を志す少年。彼を護るのが、自分の役目なのだとクレシアは改めて気を引き締める。
その先にどんな運命が待ち受けていたとしても。
……*
「ああああぁぁぁぁぁぁ! グロリアに何をしたんだ!?
貴様、貴様は絶対に許さない!!」
喉が裂けそうなほどに悲痛な叫びが轟く。
妹が、ビルフレストの為だなんて妄言を吐くはずがない。自らの生命を、簡単に棄てるはずがない。
何かされたに違いない。操られたに違いない。
ヴァレリアの怒りが、込み上がって行く。
大剣を拾い上げ、怒りと憎しみを込めて『色欲』へと突撃するヴァレリア。
『色欲』は、金色の紋様に似た口元を緩ませる。歪みながら、醜い笑みを浮かべる。
薄気味悪くて、それでいて邪悪な存在だと確信するには十分だった。
「落ち着くのだ、ヴァレリア!」
我を忘れて怒り狂うヴァレリアを止めたのは、レイバーンだった。
彼は話に聞いていた、魅了。それに極めて近い状況だったと推測を立てていた。
無闇に近付いてはいけない、目を合わせてはいけないと、冷静になる事をヴァレリアへ促す。
「ふざけるな! 落ち着けるわけがないだろう!!」
しかし、それはあくまでレイバーンとグロリアの間に構築された関係性が浅いからこそ言えた言葉でもある。
時に協力しあい、時に仲違いをし、永い時間を共に過ごしたかけがえの無い存在。
妹の尊厳を踏み躙られ、命を棄てさせられた。ヴァレリアが我慢出来る理由など、存在するはずがなかった。
「アアアアァァァァァァッ!!」
それでも、無策で立ち向かおうという愚挙を行う事は無かった。
大地を思い切り叩きつけ、自身の魔力を走らせる。
浮かび上がった地面は、爆ぜるように宙へ浮いた。
互いの視線を土の塊で曖昧にする。目と目が合う事は無かった。
ヴァレリアは猪のように、最短距離で突き進む。
土の塊が自分の身を打ちつける事など、どうでも良かった。怒りが、彼女の痛覚を麻痺させる。
「覚悟しろッ! バケモノめ――」
間合いに入り込んだヴァレリアが、大剣を振りかぶる。
力も、魔力も、魂も全て込めた一撃。この一振りで、目の前に居る奇妙な存在を両断する。
強い想いの込められた一撃。
だが、『色欲』は笑っていた。
余裕を見せる為の笑みではない。ただ、滑稽だと嘲笑する為の、醜い笑み。
金色の紋様を纏った漆黒の身体。そのあちこちから、無数の眼が現れる。
ギョロギョロと四方八方を見渡し、その光景の気持ち悪さにヴァレリアは吐き気すら催す。
そして、その眼光のひとつが彼女を捉えようとしていた。
「しまっ――」
振り下ろしている身体は止まらない。
視線を逸らしても、別の眼玉が見つめている。
自分も妹と同じように、精神を侵されるのだろうか。
積み上げてきた研鑽も、矜持も、蝕まれて終わりを告げるのだろうか。
(――嫌だ。嫌だ。絶対に、嫌だ。
アタシはヴァレリア・エトワールとして人生を全うするんだ)
駄々を捏ねる子供のように、精神汚染を拒絶しようとするヴァレリア。
その願いを叶えたのは、魔獣族の王だった。
「許せ、ヴァレリア――」
『色欲』と視線を交わすより速く、ヴァレリアの身体が吹っ飛ばされる。
飛ばされた先すらも気に掛ける余裕がなく、ただ距離を引き離す為の一撃。
ゴロゴロと転がるヴァレリアの身体に擦り付けられるは、土だけではなく魔犬や番犬の血も含まれていた。
「――レイバーン殿!」
無防備で受けた、レイバーンの一撃。
加減する余裕もなく、身体を打ち付けられたヴァレリアは激痛に顔を歪める。
それでも、彼を恨むような事は決してない。
自分が無作為に飛び込んだからこそ、命を落とすところだったのだ。
むしろこの程度で済むのならいくら感謝をしてもしたりない。
だが、それはあくまでヴァレリアの視点での話。
逆に『色欲』の懐へ飛び込んだレイバーンは、無数の視線を一挙に受ける事となる。
自分の責任で、最悪の事態を招こうとしている。
己が許せなくなる程の憎悪に見舞われたヴァレリアだが、レイバーンの様子は変わらない。
それどころか、積極的に獣魔王の神爪の一撃を『色欲』へ繰り出そうとしている。
「問題ない! 眼は閉じておる!」
その言葉通り、レイバーンは決して瞳を合わせぬように瞼を閉じていた。
臭いも音もなく顕れた、邪神の分体。通常であれば、恐らくレイバーンは『色欲』を捕捉できていない。
命綱は、グロリアによって張られていた。
死に際に彼女が触れた、『色欲』の身体。
指先に付着していた僅かな血痕。それが今のレイバーンにとっての道標となっている。
無論、吹き出していたグロリアの血液の方がレイバーンの鼻を強く刺激している。
故に彼が神経を尖らせているのは、その揺らぎ。
唯一動いている鉄の臭い。その先に、『色欲』は居ると結論を出した。
その上で神器を振るい感触を。雄叫びを上げ、反響を。
あらゆる手段を用いて、邪神の分体の輪郭を脳内で作り上げて行く。
「お主が何の為に生まれてきたから知らぬが、この世から去ってもらうぞ!」
眼を閉じたまま突き立てる獣魔王の神爪の一撃。
無数に開いた邪神の眼へ、突き立てられる。
正しく祈りが捧げられていないとはいえ、正真正銘神が創りし武器。
同じ闇の力を秘めていても、本質は違う。
魔術としての闇なのか、精神的な闇なのか。
その差がそのまま、『色欲』に神器の力を受け入れさせなかった。
「――――ッ!!!」
声にならない悲鳴を上げる『色欲』。それは同時に、神の怒りを買った事となる。
魔獣族の王たるレイバーンは、自らの膂力に自信を持っている。
その彼にすら抵抗を許さず、『色欲』は腕一本でレイバーンの身体を持ち上げた。
「ぐ……ぬ……!」
一体何が起きているのか。確かめたい気持ちはあるが、眼を開く事は出来ない。
獣魔王の神爪を突き立てても、『色欲』は微動だにしない。
そのまま、力任せにレイバーンを大岩へ叩きつける。
背中に激痛を走らせようが、レイバーンは決して眼を開かない。
開いてしまえば、全てが水の泡となる。
頼りになるのは、自分の嗅覚。
動き回るヴァレリアの血の臭いを辿れば、必ず『色欲』へ行き着く。
鼻へ全神経を尖らせるレイバーンの血の気が引いたのは、直後の事だった。
グロリアの血の臭いは、動いていない。自分の前に、存在している。
不気味な笑みを浮かべるが、それを視認する者はいない。
ただ、自分の眼前に邪神の分体が居る。その状況はまずい。
身体を起こそうとするレイバーンを、その足で大岩に打ちつける。
獣魔王の神爪を突き出そうとしても、ただ腕を伸ばしただけでは容易に避けられる。
それどころか、『色欲』は神器の装着された右腕を掴む。
ミシミシと骨が軋む。加えられては行けない方向へ、荷重が掛かる。
抵抗を試みても、巨体は全く胃に介さない。
やがてボキッと大きな音と同時に、レイバーンの悲鳴がこだました。
「お……のれ……」
まだ精神の折れないレイバーンに、『色欲』は益々口元を歪める。
加虐趣味を持たされた訳では無いにも関わらず、非常に気分が良さそうだった。
レイバーンの頭を鷲掴みにし、何度も大岩に打ちつける。
鮮血が舞う。割れた頭から漏れ出る血が、『色欲』の身体を赤く染める。
「レイバーン殿……!」
遠くから何も出来ないヴァレリアは、痛めつけられるレイバーンを眼に焼き付けさせられる。
近付けば、精神汚染が自分の精神を壊す。
遠目から魔力を込めた一撃では、レイバーンを巻き込みかねない。
なす術が無く、情けなくその場に留まっているヴァレリア。
彼女の性分から、それは本来あり得ない。劣勢の味方を指を咥えて見ていられるような、臆病な人間ではない。
「やめろ……。ヴァレリア……」
レイバーンの制止に耳を貸す事なく、ヴァレリアは立ち上がる。
近付けば眼を瞑って剣を突き立てるという、芸のない攻撃。
当然のように軽くあしらわれ、ヴァレリアの実は再び土と砂利で汚されて行く。
勝利の雄叫びだと言わんばかりに奇声を上げる『色欲』。
顕れた邪神の分体。その壁は、途方もない高さで二人の前に立ちはだかっている。