128.揺るがぬ意志
シンと視線が交差する。
思ったよりも真っ直ぐな瞳で、敵対していなければビルフレスト程ではないにしろ、好意を持ったかもしれない。
ラヴィーヌは、ほんの少しだけ残念に感じた。
自身の金色の瞳に込められた魔力が、彼の精神へ侵食を始める。
たったこれだけで、彼は自分の傀儡と化す。
何をさせようか、何をしようかと、ラヴィーヌは妄想が溢れるのを止められない。
どれだけ苦しくても、彼が苦痛を覚える事もない。それすらも愛情の証明だと捉える。
作られた偽りの感情だと気付く事なく、ただ自分に尽くす玩具が出来上がる。
最高の能力だと思う反面、扱いに気を付けなくてはならない。
自分のビルフレストへの愛は本物なのだから、こんなモノに頼ってはいけない。
正しく役に立って、彼から本物の愛を享受する。その為に授かった能力なのだから。
「さあ。シン・キーランドさん。私はここにいますわ。
こちらにいらして。自分自身を傷付けてください。私のために。
大丈夫、貴方の愛は全て受け止めてあげますわ」
恍惚の笑みを浮かべながら、艶めかしく胸元へ手を添える。
今までの実験とは違う。ライラスやドーン、紅龍の時とは全然違うのだ。
愛する者を傷付けた、憎き仇。それが今、自分の意のままに操れる。
こんなに素敵な事を行える人間は、世界中で自分だけだという優越感。
サーニャや第一王女とは違う。自分だけが、真の意味であの方の役に立てる。万感の思いだった。
シンは言われるがままに、その身を数歩進めた。
ゆっくりと上がっていく右手には、銃が握られている。
マギア特有の武器。第一王子はビルフレストに持たされているが、ラヴィーヌがその威力を目の当たりにした事は無い。
ビルフレストと同じ左腕を、あれで傷付けるとどうなるのだろうか。
一発で、腕は落ちるのだろうか。何発も撃たなくてはならないのだろうか。
どちらにしろ問題はない。彼は、自分の為になら何でもする操り人形なのだから。
「銃で、自らの左腕を撃ち抜いてください。
身体から落ちるまで何度も、何度も。どんな痛みでも、貴方なら耐えられます。
私、献身的な貴方の姿が見たいのですわ」
いよいよだ。この場に自分と彼しかいない事だけが、残念で仕方が無かった。
アメリアには、落ちた左腕でも贈ってあげればいいだろうか。
どんな顔をするか、どんな悲鳴を上げるのか。それを楽しむのも一興だと、ラヴィーヌの顔が再び恍惚に歪む。
そう、ラヴィーヌは勝利を確信していた。
次の言葉を、聞くまでは。
「……何を、ごちゃごちゃ言っているんだ」
「――っ!?」
ラヴィーヌが瞠目するよりも速く、シンは引鉄を絞る。
銃弾の向かう先は、ラヴィーヌの持つ金色の右眼。
咄嗟にラヴィーヌが放ったのは、稲妻の槍。本来は雷の矢を放つ魔術だが、驚きのあまりイメージがきちんと練られていない。
それでも、魔術としての体裁を保っていたのは幾度なく使用した魔術であるからだった。
稲妻の槍は銃弾の軌道を僅かに逸らし、彼女の髪を掠めた。
「どういうことですの……!?」
同様が隠せないラヴィーヌを畳みかけるように、二発目の銃弾は放たれる。
先刻よりはイメージの固まった稲妻の槍が、銃弾を撃ち落とす。
(何故ですの? 目が合った。手応えはありましたわ。
私の魔力は、間違いなく彼の中に侵食をした。
それなのに、何故……!?)
信じられないと、ラヴィーヌの脳裏に様々な仮定が巡る。
(魅了の限界人数を越えた? いえ、そんなはずはありません。検証済みですわ)
ラヴィーヌが得た色欲の能力には、本来ならこのレベルの戦闘では起きえない弱点が存在していた。
彼女の金色の瞳から放たれる魅了は、互いの瞳を介して魔力で侵食を試みる。
対象者の精神を、邪神の力が籠められた魔力で共振していき、やがて精神を狂わせる。
それはさながら治癒魔術の逆とも呼べるものであり、対象者の魔力に依存をするという点。
とはいえ、多少の。それこそ左程強くない魔物を狩る程度の冒険者でさえ、最低限の魔力を有している。
魔術を使用するだけが魔力の使い道ではない。身体能力の向上にも、魔力は一役買っている。
ミスリアの人間でなくとも、冒険者を名乗るような者ならばひとたび目を合わせるだけで、ラヴィーヌの支配下に置かれるぐらいには魔力を有しているはずだった。
だが、シン・キーランドという男は違った。
彼はほぼ魔力を有さない。高名な魔術師であるアメリアの治癒魔術すら、大怪我だったとはいえ完治に二ヶ月を要するほどに。
他者の魔力によって刺激される自分の魔力が、驚く程僅かしか体内に存在していないのである。
魅了による影響が極端に薄い。更に、シンには命を懸けて為すべき本懐がある。
それはシンという人間を構成する以上、欠かせないもの。本人でさえ、抗えないもの。
ほんの少し蝕んだ程度では、シン・キーランドの精神を捻じ曲げる事など出来るはずも無かった。
このような能力が発現した背景には、第一王子派が邪神を生み出す事情が絡む事となる。
彼らの目的はミスリア国王の座である。その為に想定された仮想敵は、当然ながらミスリアの人間。国王たるネストルや、黄道十二近衛兵級の人間だった。
高い魔力と高度な魔術を操る人間を突破する。悪意を持って創られた邪神は、その意思が反映される形で現れた。
これはラヴィーヌの持つ『色欲』に限った話ではなく、他の分体が発現させる他の能力にまで当て嵌まる可能性がある。
呪詛の、祈りの、願いの方向性を、今更変える訳には行かない。
もしそうすれば、ピースが邪神の顕現を妨害したように不完全な何かが生まれる事となる。
故に魔力を持たない者が弱点となってしまった。そもそも、第一王子が留学を始めた頃。
つまり、計画開始時にこの男の存在は勘定に入っていなかった。
シン・キーランドは何も持たないからこそ、今ここで彼女の天敵と成り得た。
雀の涙ほどの魔力と、揺らがぬ強い意志を持つ稀有な人間として。
(どうして、どうして、どうして……っ!?)
ラヴィーヌはその事実にまだ気付いてはいない。
彼女の感覚からして、魔力を殆ど持たない者が戦場に出る事自体がおかしい。
能力発現時、更に完成時の検証でさえ戦闘要員となり得る人間を選択した。
つまり、魔力を持つ者である。屈強な人間が屈服する。まさかその逆の人間に通用しないなど、思っても見なかった。
明確にシンに近い立ち位置の人間で魅了を試してはいない。
いや、そんな人間は第一王子派に存在していなかった。
魔力量の発想にすら至っていないラヴィーヌは、ただただ困惑するのみだった。
一方でシンもまた、自身が邪神の齎す能力。その天敵になり得る存在だという事は、現状で自覚する事はない。
確かに彼女と目が合った。致命的な失策を犯したと思っていた。
だが、シンはこうして自分の意思で彼女の前に立っている。
ラヴィーヌとの決定的な違いは、シンがこの程度で歩みを止める人間では無い事だった。
一足飛びに距離を詰めるシン。大きく大地を蹴る音は、混乱したラヴィーヌにとっては恐怖の対象でしかなかった。
ここから彼女は、いくつもの失策を重ねてしまう事となる。
「ふっ、閃光!」
強烈な光が、シンの視界を白く覆う。
視界を奪い、生まれる一瞬の隙。シンの身体目掛けて放とうとするは、稲妻の槍。
しかし、シンの動作は彼女が魔術を放つよりも速かった。
視界が奪われた瞬間。そこに居たであろうラヴィーヌへ向かって銃を放つ。
移動しながら、咄嗟に放った事もあり銃弾は彼女の肩を掠めるに留まった。
身体に張り付いた服が糸を引く様に裂け、露わとなった白い皮膚は赤く染まる。
「ど、どうして!?」
動揺を隠しきれないまま、ラヴィーヌは稲妻の槍を放つ。
稲妻が生まれる際の空気の震えで、シンは自分が攻撃魔術で狙われている事を察知する。
左手には逆手に持ったミスリルの剣。水の羽衣が、薄く広範囲をカバーするようにシンの前方へ延びていく。
広げた影響でいくつかの雷の矢は羽衣を突き破り、シンの身体へと命中する。痺れるような痛みが顔を歪ませても、決してその足は止めない。
ラヴィーヌが混乱しているという確信が、シンにはあったからだ。
目が合っただけで勝利を確信したかのような振舞いを見せた彼女が、今度は逆に自分の視界を奪う。
つまり最初の目論見が外れた事を意味しており、それどころか自ら魅了を放棄したという事の証明。
彼女は今、計画通りに事が進んではいない。
閃光でぼやける視界だが、銃弾を撃った際に漏れる声。
そして、放たれた稲妻の槍の射角で凡その位置は判る。
誤差を極限まで減らす為に、シンはラヴィーヌとの距離を確実に詰めていく。
(この男は……、おかしいですわ)
シンの取る行動は、ラヴィーヌに更なる恐怖を与える。
邪神の能力。その一部である魅了が通用しない。
閃光で視界を奪っても、稲妻の槍で迎撃を試みても、その足は止まらない。
――あの男は、危険だ。
脳裏に過るのは、敬愛する者の言葉。
他の誰でもない、ビルフレストの言葉だからこそラヴィーヌの中で大きな意味を持つ。
自身が魅了を仕掛ける時のように、彼女の中でその言葉が肥大化していき、平静さを奪ってしまう程に。
ラヴィーヌはどっと身体が重くなるのを感じた。
浅い呼吸と、額に流れる冷や汗が、彼女を思考の迷宮へと誘う。
(この男は、魔術を模した弾丸を放つ事が出来る。まずいですわ……!)
対策を練る為に与えられた魔導弾の情報でさえ、恐怖心を煽る。
どれだけ種類があるのか、魔力を使わないという事は連発が出来るのか。
そう言った、最悪の状況ばかりが頭の中で想定されていく。
実際の所、シンが持つ魔導弾はたったの四発しか残ってはいない。
出し惜しみを拒む性格とはいえ、無計画に放っていい残弾数でもない。
少なくとも、視界がはっきりとしない今は撃つ事を躊躇う場面だった。
そんな事を知る由もないラヴィーヌは、シンが得体の知れない者だと感じ始めている。
自分の常識の外側に居る。次の瞬間には、握られた剣が自分の喉元を掻っ切るかもしれない。
「雷神よ。大気に漂う精霊よ――」
怯える彼女が次に取ろうとした手段は、魔術による拘束だった。
オリヴィアですら脱出に手間を要させた雷光の檻で、彼の動きを抑える。
ただし、動揺しきった今ではイメージがはっきりと脳内に組み込む事が出来ていない。
稲妻の槍で牽制をしつつ、雷の檻を形成するのが最適解だと思ったのだが。
「そうは行かない」
銃声が、ラヴィーヌの詠唱を遮断する。
視界が回復しきっていないシンは、聴覚を頼りにラヴィーヌの位置を補足している。
皮肉にも暗闇で他人を殺めた経験が、ここでも活かされている形だった。
その上で、彼女自身が稲妻の槍の発動と雷光の檻の詠唱で位置を教えてくれるのだ。
詠唱を終えるより、シンが銃を放つ方が圧倒的に速い。
雷光の檻はおろか、詠唱を必要とする魔術は実質的に封じられた事になる。
更に、度重なる予想外の状況にラヴィーヌの精神は乱れ切っている。詠唱を破棄するにしても、イメージが定まらない。
(い、一度……塔へ戻って、状況を説明しなくては……!)
劣勢に陥ったラヴィーヌが出した結論は、一時撤退だった。
魅了が、邪神の齎す祝福が、通用しない相手。その存在を報せなくてはならない。
逃げる理由に正当性を見つけた彼女は、シンに背を向けて常闇の迷宮の中を駆ける。
「逃がすか!」
それでも尚、シンの銃弾は驚くほど正確に彼女を狙い撃つ。
常闇の迷宮による影響で、闇のカーテンを越えた先の音は遮断されている。
つまり、聞こえる音はラヴィーヌが発しているものに間違いない。
シンは自身の立てた仮定から、音のする方へ向かって銃を撃つ。そこに一切の躊躇は無かった。
(あ、あの人! おかしいですわ!)
咄嗟の防御魔術で致命傷こそ防ぐが、ラヴィーヌはただただ怯えている。
今でこそ劣勢の彼女だが、シンと正面から向き合ってラヴィーヌが勝利する方法はいくらでも存在していた。
自身の得意とする雷の魔術で牽制をしつつ、彼を袋小路に追い詰める。
その先で雷光の檻を使用し閉じ込め、嫐る。
仮に魅了の能力を使用するとしても、閉じ込めた後でも良かったのだ。
もし彼が眼を合わせる事を拒否したなら、逃げ場のない檻に魔術を放てばいい。
愛する者を傷付けられた怒りが、彼女の判断を誤らせた。
その結果、短絡的かつ安易な方向へ彼女を歩ませる。
戦闘経験の浅さと律しきれない己の感情が、決して揺れる事のないシンの精神に屈した形となった。
そして、色欲の能力によって操られた者達が、彼女の手駒として戦場へ出ている。
ラヴィーヌの動揺は、三日月島の戦況を大きく変化させる事となる。