124.総てを魅了する
左腕を失ったビルフレストが帰還した時、ラヴィーヌは自身の気が狂いそうになるのを必死に堪えた。
彼が傷を負った姿など、彼女の人生に於いてただの一度も見た事が無い。
ましてや完璧な存在である彼が、その高貴な身体の一部を失う事が許されるはずもなかった。
自分が傍に居れば。魔術の使えないサーニャではなく、自分なら。
怒りに身を任せ、サーニャに喰って掛かったラヴィーヌだが、ただの現実逃避に過ぎない。
彼が咎めないのであれば、自分にも咎める正当性が無くなってしまう。
何故、同行者に自分を指名してくれなかったのか。その理由を彼女なりに分析はしている。
彼にとって自分が特別な存在であるからこそ、色欲の能力を昇華させる事を優先させてくれたと認識する。
その寵愛に応えなくてはいけないという使命感が、ラヴィーヌの原動力となった。
実際は一定数の貴族の弱みを握っており、口論となっても躱す事が出来る。
その上、自分の意図をかなり高い精度で理解しているサーニャ。
一方、人が死ぬ瞬間に狼狽えてしまっていたラヴィーヌ。
少数精鋭で向かうからこそ懸念点は取り払いたい、故にビルフレストは同行者にサーニャを指名した。
その事実をラヴィーヌが知る事は無かった。知る必要さえ、無かった。
彼女とてただ時間を浪費するだけでなく、能力を昇華させる事に繋げたのだから。
ビルフレストの期待を裏切りたくない、その一心を原動力として。
邪神の分体との接続で、脳がぐるぐるとかき回される。自分の中が、何かで満たされていくのを感じる。
血液が、魔力が、全身を駆け巡る事さえ感じられる。生まれ変わっている最中だと、実感した。
自分が魅了によって手駒へ変えた、ライラスとドーンの事を思い出す。
肥大化した筋肉も、力強かった。自分の為に、限界を簡単に超えてくれた。
血飛沫を上げるドーンに、自分はどうして怯えてしまったのだろうか。
彼は花を咲かせたのだ。自分の為に出来る事を、命を賭して証明して見せたのだ。
徐々に歪な形へと変貌していく感性。色を知らぬ彼女は、魅了する事でその命を自分の為に燃やさせた。
眼は虚ろとなり、脳の制御が壊れる者達を見るのも心が湧き踊るものではあった。
しかし、邪神と。色欲の分体と溶け合った今は違う。
理屈ではなく、感覚で理解が出来た。命を自分の為に燃やさせるのではないのだ。
魅了した者に身も心も全て差し出させる。それこそが色欲の元来の能力であり、真の魅了なのだと。
そうする事で、自分への負担が軽減されるであろう事にも気が付いた。
ライラスとドーンというたった二人で、脳が焼き切れそうになる弱い自分はもう居ない。
今なら何人でも、自分の虜にする事が出来る。その確認が、ラヴィーヌにはあった。
……*
そして、彼女の目の前には忌々しい人間が居る。
シン・キーランド。愛する者が左腕を失う事となった発端。
神器の継承者と不老不死の魔女も同時に発見したが、ラヴィーヌの標的はシンだった。
ビルフレストの腕を焼き切ったのは、フェリーだという話は聞いている。
その直前、彼に一撃を加えたのは妖精族の女王だという事も聞いている。
しかし、それらを差し置いてビルフレストが最も警戒をしたのはシンだった。
颯爽と現れ、自分のペースへと持ち込んだ。侵入して、引き下がれない状況下といえ自分の行動を誘導して見せた。
そう語るビルフレストの顔に屈辱の色が混じっていた事をラヴィーヌは見逃さなかった。
だからこそラヴィーヌは、この男を篭絡しなくてはならない。
色欲の能力で魅了し、手籠めにし、その全てを自分に差し出させるのだ。
まずはビルフレストの分として、左腕を自ら斬り落とさせるのが良いだろうか。
血飛沫を上げながらも、自分に好かれたいが為に腕を差し出す光景を想像するだけで笑みが零れる。
四肢を捥いで、永遠に痛めつける玩具として扱うのも良い。
ビルフレストを傷付けたのだから、この男にはその程度の罰でも生温い。
操り人形にして、永遠に恥を晒させるのも一興だ。
そういえばサーニャが、アメリアは彼に恋心を抱いていると言っていた。
恋焦がれる人間が、他の女にその身を差し出す姿を見せつけるのもいい。
想像するだけで、身体がゾクゾクと震えていくのを感じる。
そんな妄想が、今の自分なら現実のものと出来るのだ。ラヴィーヌは、楽しみで仕方が無かった。
(この女が、ラヴィーヌ・エステレラ)
一方のシンは、オリヴィアから齎された情報を基に状況を整理していた。
彼女曰く「魅了のような、よく解らないけど他人を操る可能性があります」という曖昧な話だったが、その言葉を軸に対策を整える。
左右で色の違う。態々、隠れていたものを見せつけた金色の瞳が異質だという事は、魔力をほぼ持たないシンにも理解が出来る。
どことなく、無機質なのだ。後から付け足されたような違和感が、そこにはある。
目を合わせてはいけないと視線を逸らそうとしたシンだが、ラヴィーヌの方が一手速かった。
「そんなに、目を逸らそうとしなくてもいいではないですか」
互いの瞳を通して、ラヴィーヌの魔力がシンへと入り込んでいった。
……*
遮断された闇のカーテン。その向こう側で、フェリーは必死に声を張っていた。
「シン? 聞こえる? ねえ、シンってば!」
何度呼び掛けても、彼からの反応は無い。
聞こえていないのか、返答できない状況なのか。それすらも判らず、フェリーは焦燥感を募らせた。
アメリアもまた、フェリーと同じ気持ちだった。
突如現れた、闇のカーテン。恐らく、闇の魔術なのだろうが自分が知っている魔術ではない。
どういうイメージが練り込まれたのかも、見当がつかない。
分析をすれば或いはと考えるが、相対するリシュアンとライラスがすんなり許してくれるとは思えない。
「フェリーさん、今は……」
不安そうに顔を歪めるフェリーへ言うには、心苦しくなる言葉。
本当は自分も、シンの救出へ向かいたい。狙いすまされた分断が、不安を掻き立てる。
それでも、使命感がアメリアを己の為すべき方向へと向けさせた。
「……ん。わかった」
フェリーもまた、理解はしている。
自分がシンを気にして呆けているだけで、アメリアの危険が増す事を。シンはそれを良しとしないであろう事も。
アメリアだって、不安を押し殺している。揺れる神剣の切っ先が、何よりの証拠だった。
「まずはこの人たち……。だよね」
魔導刃から放たれる茜色の刃と、蒼龍王の神剣の蒼光りする刀身が闇に覆われた景色を灯す。
正義を体現しているとでも言いたげなその輝きに、リシュアンは苛立ちを覚えた。
「……腹が立つ」
自分達が清廉だと信じて疑わない瞳が。
その裏で、手を汚す人間がいる事にすら気付いていないというのに。
気付けば気付いたで、糾弾をするその姿が。
「貴女たちを見ていると、腹が立つ!
自分が正しいと信じて疑わない、その瞳が!」
リシュアンの杖から、連続して繰り出される無数の風刃。
敵を斬り刻まんとする風の刃を、フェリーが魔導刃で切り払う。
裂かれた風が炎を取り込み、まるで燃え尽きるかのように消えていく。
「……あたしは、自分がそんなに正しいだなんて思ってない」
正しい人間なら、大好きな男性の家族を奪ったりはしない。
優しい人間に、自分を殺してくれだなんて懇願しない。
拒絶されても尚、隣に居座ろうとはしない。優しさに、図々しく甘え続けたりはしない。
「だけど、やっぱりあなたたちが間違ってるってのは、わかる!」
それでも、せめてそんな優しい人間に恥じない人間でいたい。
フェリーの原動力は単純で、それでいて決して変わる事のない気持ちだった。
「確かに、私は何も見えていませんでした。いくら後悔しても、しきれません。
ですが、やはりアルマ様や貴方たちは間違っているのです!」
続けてアメリアも、蒼龍王の神剣でリシュアンの風刃を切り裂く。
断たれた風は、瞬く間に解かれる。アメリアが、細かく魔術を練り込んで動きを阻害しているのが解った。
リシュアンは思い知らされるようだった。
実力が違う。才能だけではない、積み上げてきた研鑽が、自分とは比べ物にならないと。
しかし、引き下がる訳には行かないのだ。第一王子派につくものは、誰もが背水の陣だった。
ただ時間を重ねるだけでは、絶対に変わらないもの。
それを変える為に、その身を荒れ狂う暴風へと曝け出している。
実力差を埋める為に求められるのは、その覚悟だった。
「おおおおおおっ!」
状況を打破すべく、限界突破すべく自分の全てを使って魔術をイメージする。
得意な風の魔術に関する詠唱は、全て破棄をした。
その上で、氷の魔術である凍撃の槍に独自の詠唱を付与する。
「――氷精よ。風を身に纏い、槍となりて凍てつかせろ!」
放たれた凍撃の槍は、細かく、そして針のように鋭い。
詠唱を破棄して生み出された風の魔術に乗る事でその速度は増し、無数の針がフェリーとアメリアへ襲い掛かった。
……*
三日月島上空で、交戦を続けるフィアンマと黄龍の群れ。
元々、空を司る龍族として空中戦を最も得意とする黄龍に対して、三人の人間を抱えるフィアンマは苦戦を強いられていた。
「あああああ! もう、鬱陶しい!」
背中を狙われてはいけないと、くるくると態勢を変えるフィアンマ。
黄龍の放つ風の息吹を幾度となくその身に受け、傷ついていた。
「……中々、黄龍の一族は姑息だな」
イルシオンがぽつりと呟く。
数々の乗り物を経験してきた中でも、最悪の乗り心地だった。それが自分のせいだと判っているので、尚更だった。
ただのお飾りで、足手まといであるこの状況が耐えがたい屈辱でもある。
「フィアンマ。黄龍王とは、因縁があったりするのか?」
「なんだい急に!? そんなもの、別にないよ!」
必死に風の息吹を耐えている中、訊かれた質問にフィアンマは苛立ちを隠す事なく言った。
怒らせている事は意に介さず、返答だけを聞いてイルシオンの口元が緩む。
「それが聞ければ十分だ。敵の大将は、オレ達が貰い受ける!」
「え? イル!? まさか――」
「そのまさかだッ!」
勘付いたクレシアの返答を待つ事なく、イルシオンは動いた。
彼女を抱きかかえたまま、イルシオンはフィアンマの背から飛び降りる。
「なっ……!?」
「何をしているんだ、お前はっ!?」
フィアンマの背に乗るネストルも、踏み台にされたフィアンマも揃って目を疑う。
イルシオンはそのまま黄龍王へと飛びかかるが、簡単に許してくれる相手ではない。
ヴァンの口から、特大の息吹が放たれる。直撃は避けられない状況だった。
「クレシア!!」
そのまま直撃していれば、二人は地面に叩きつけられて死んでいただろう。
イルシオンのとった行動は、傍から見れば無謀極まりないものだった。
ただ一人、イルシオンだけが突破できると信じていた。相棒である、クレシアを信じていた。
「本当に、イルは無茶苦茶……!」
クレシアがありったけの魔術を放つ。
風防壁で生み出した風の壁が、彼らを包み込む。
続けて、颶風砕衝がヴァンの息吹を相殺する。
ヴァンの息吹の方が威力は高く、颶風砕衝の方が先にかき消される結果となった。
「負けない……!」
しかし、そこまでした以上はクレシアにも意地があった。
イルシオンの期待に応えたい。得意な風の扱いで、ただ息を吹いただけの龍族に遅れを取りたくない。
颶風砕衝は風の息吹によってかき消されこそしたが、クレシアの魔力は残滓として大気中に残っている。
探知の応用で、その魔力を震わせる。風の主導権を、黄龍王であるヴァンから一時的にとはいえ奪い取る事に成功した。
風防壁に包み込まれたイルシオンとクレシアの身体が、風に乗って二人を舞い上がる。
高度を上げたそれは、ついにはヴァンの頭上へと到達した。
太陽の光を背に浴びた二人は、まるで黄龍が降臨する時のように神々しくも感じさせた。
「さすがだ、クレシア!」
「調子に乗るな、人間!」
完全に打ち勝ったはずの、自身の風を流用された事にヴァンは怒りを覚える。
自分の頭上を奪った二人へ向かって風の息吹を吹き、クレシアの操る風も、風防壁をも破壊する。
無防備に落下する二人の人間。それでも、イルシオンの眼は前だけを見ていた。
「調子に乗らなければ、龍族に挑んだりはしないッ!!」
クレシアはイルシオンにしがみつきながら、落下する光景をその眼に焼き付けた。
重力とは反対に逆立つ髪が揺れる。しがみつくイルシオンの大きくなった背に、少しだけ驚く。
彼の両腕には、紅龍王の神剣が握られている。陽の光を浴びて、太陽の化身と見間違う程に輝いている。
切っ先から炎が生み出される。それは、ヴァンの息吹すらも己を燃やす糧とする。
肩に、背にしがみつくクレシアにはイルシオンの表情は判らない。
だが、知る必要はない。彼は必ず、自分のよく知っている顔をしている。その確信があった。
自身と希望に満ち溢れた、真っ直ぐな瞳。
それを体現するかのように、紅龍王の神剣がヴァンへと振り下ろされた。