117.光の矢が貫くもの
涙が止まり、気持ちの落ち着いたフェリー。
両手の様子も元通りとなり、完全復活を果たしていた。
ついさっきまでシンの手が乗っていた頭を、自分でも撫でてみる。
掌に乗るのは、自分の髪の感触のみ。シンが撫でてくれたような暖かさは、自分では得る事が出来なかった。
自分にとって、彼が特別な存在だと改めて実感する。
「フェリーは、オリヴィアと一緒に玉座の間へ戻れ」
「えっ?」
呆けるフェリーを我に返したのは、シンの声だった。
彼が出した指示は、この場を離れろ。仲間と合流しろ。というものだった。
言葉の中に「オリヴィアと」と含まれていた事から、シン自身はこの場に留まるつもりだという事を暗に示している。
「シンは? どうするの?」
オリヴィアやフローラに力を貸すと大見得を切ってみせた。
今までもなんとかなってきた。今回もそうなるものだと思っていた。
けれど、明確に向けられた悪意。それは敵意よりもおぞましいものだとフェリーは知らなかった。
護りたい、救いたいという彼女の正義感をも容易く塗り潰す。
あの男は強い。今まで戦った誰よりも。
魔犬と戦った時も、妖精族の里で戦った時も、身の危険はあった。
シンに殺して貰っている時も、今より激しい痛みに耐えた。
そうであるにも関わらず、感じた事の無い恐怖が背筋を凍らせた。
心を真っ黒に塗り潰そうとする闇。明確にフェリー・ハートニアへ向けられた悪意の塊が、彼女に恐怖心を植え付ける。
不老不死である自分が畏れを抱く人間に、ただの人間であるシンが立ち向かおうとしている。
どうしようもない不安の表れとして、気が付けば彼の袖をつまんでいた。
「あいつを放っておけば、龍族達と挟み撃ちにされる。
俺が足止めをしておく」
「でも、あいつ危ないよ!」
シンはフェリーの手を優しく解くと、ビルフレストと再び相見える意思を示した。
決して『倒す』と言い切らなかったのは、一方的にフェリーが傷つけられた事から相当な手練れだと察したからだった。
同時に、シンが決して引き下がれない理由もそこから生まれていた。
あの男は傷つけた。フェリーを、自分の幼馴染を、大切な女性を。
許せなかった。そのまま飛びかかってもおかしくは無かった。
辛うじて退却の選択を選ぶ事が出来たのは、怯えるフェリーの表情が彼に冷静さを取り戻させたからだった。
ビルフレストとサーニャによる挟撃を警戒しているのは事実だ。
ただ、それ以上に意地がシンを動かそうとしていた。
「大丈夫だ、無理はしない」
フェリーを安心させようと言ったシンの言葉が嘘である事は、彼女に見抜かれていた。
いざとなれば彼は平気で自分の命を担保にする。誰かの為に、自分が傷付く事を厭わない。
「なら、あたしもいく……。ふたりのほうが、うまくいくよ」
下唇をきゅっと噛み、フェリーはシンの顔を見上げる。
決してビルフレストに対する恐怖心が拭えた訳ではない。彼女を動かす理由は、シンの存在。
彼が居ればきっと大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
「でもな……」
「ゼッタイ、あたしもいく!」
怯えているフェリーの姿を見ているだけあって、シンは逡巡する。
本音を言えば、フェリーが居てくれた方が助かる。だが、あれだけ畏れを感じた相手に相対させていいものだろうか。
素直に退かせた方が良いのではないか。
そう思う一方で、シンは知っている。
彼女の眼差しは、意思を曲げない時のそれだと。
フェリーを説得する時間は無い。こうしている間にも、ビルフレストは近付いてくる。
「あの……。ちょっといいですか?」
恐る恐る手を上げたのは、小さくなったオリヴィアだった。
……*
玉座の間では、降りて来た龍族との戦闘が繰り広げられている。
本来の姿となったフィアンマが上空で黄龍を足止めをする。
しかし、彼一体で対処しきれる数には限界がある。
突破された黄龍の自由をクレシアが奪い、神器を持つネストル、イルシオンが斬り伏せる。
指を失ったネストルだが、それでも臣下に弱った姿を見せる訳には行かないと奮起する。
一方、地上ではヴァレリアとグロリアがサーニャとの戦闘を繰り広げる。
サーニャは積極的に攻める事はせず、二人の意識を自分へ集中させているようにも見えた。
アメリアは間者の可能性を考慮して、隅に固まる大臣を警戒する。
更に、空を飛ぶ黄龍に対して水の魔術で援護を試みていた。
とりわけ、天空から吐き出される暴風の息吹が強烈だった。
アメリアが水の城壁で防ぐ事により、強硬策による突破を辛うじて防いでいた。
レイバーンはイリシャやフローラといった非戦闘員の護衛に全力を注ぐ。
その中にはリタや、詠唱を破棄した流水の幻影に神経を張り巡らされているオリヴィアも含まれている。
彼の尽力もあり、非戦闘員の安全は保たれていた。
だからこそ、リタはオリヴィアに提案をする。
「オリヴィアちゃん。下の階にいる人、かなり危ないんだよね?」
「……はい。はっきり言って、ビルフレストはかなりやばいです」
イルシオンを追い込み、フェリーすら成す術もなく敗れる。
シンが加勢したとはいえ、あの男を抑えきれるかどうか。
「あのね……」
リタは、自分の考えをオリヴィアへ話す。その先に居る、シンとフェリーへ届く様に。
感覚が研ぎ澄まされている今、自分が出来る事を語り始めた。
……*
「――と、リタさんが言っています」
オリヴィアを通して、リタの提案を聞いたシンは考える。
妖精族の女王がこの場に居る事は、まだ知られていない。
仮に想定されていたとしても、彼女が齎す優位性にまでは気付かれていない。
ただ、同時にチャンスが一度しかない事も突き付けられる。
リタの優位性を知られれば、恐らく次の機会は与えられないだろう。
しかし、リタの提案以上の手がシンには思い浮かばない。
ビルフレストに一泡吹かせるには、またとない一手だった。
「分かった。ただ――」
シンはリタの提案に乗る事とする。
確実に仕留めるべく、ひとつだけ要望を付け加えて。
ビルフレストが扉を開いたのは、武器庫の扉だった。
点々とするフェリーの血痕。道中気を遣って動いていたようだが、武器庫より奥に血の痕は見当たらない。
扉に手を掛けるが、そのまま引く事は躊躇われた。
理由は、あからさますぎる事。撤退を即断した男が、こんなに判りやすい痕跡を残すだろうか。
開いた瞬間、シンによる銃撃が待ち構えている可能性は十分にある。
かと言って、この部屋を無視しても良いのか。
通り過ぎた瞬間、背中に向かって鉛玉が飛んで来る可能性が否定できない。
シン・キーランドはそれぐらいはやってのけるだろう。卑怯とかそういう概念は、恐らく二の次だ。
ビルフレストは思考の袋小路に入った事を実感する。
強制的に迫られる二択。無理矢理自分のペースへ引き込もうとする様は、どことなくサーニャを思い浮かばせる。
どっちの選択肢が杞憂に終わるのか。それとも両方外れなのか。
少なくとも、ビルフレストに正解は用意されていない。
ならばと、強引に突破できる可能性が高い方を彼は選んだ。
武器庫の扉が開かれる。突っ張るような扉の感覚が、自分の懸念が正しかったと伝えてくる。
扉を挟んで釣られていた糸が切れ、天井から降り注ぐ矢の雨。簡易的な罠が、彼を出迎えた。
子供だましだと剣で払うと、彼の視界を妨げるものは消え去った。
刹那、矢の雨の奥から小さな弾丸が眼前に現れる。矢の雨に隠れて死角となった向こう側から、放たれた銃弾。
外套の奥にある鎧がそれを弾くが、それは囮だった。
もう一発。彼の意識が下へ向くのを狙って放たれた銃弾。
今度は明確に、頭を撃ち抜く。殺意が籠ったものだった。
「無駄だ」
しかし、ビルフレストは最小限の動きでそれすらも躱す。
彼もまた、シンの取るべき策には当たりをつけていた。それが嵌った形となる。
銃弾の飛んだ方角から、彼の居場所を割り出そうとする。
探すまでもなく、その男は見つかった。窓の向こう。武器庫の外にて、一人で立ち尽くしている。
右手には自分を攻撃した銃。左手には、魔術付与の施されたミスリル製の剣。
ここから先。退くつもりはないと、彼ははっきりとその意思を示していた。
フェリーやオリヴィアの姿は見当たらない。逃がしたのか、はたまた隠れているのか。
尤も、現状に於いてオリヴィアはビルフレストの脅威ではない。小さくなった分身は、援護の魔術を使う様子も無かった。
シン・キーランドも正面から真面にぶつかって、敗ける相手ではない。過去の戦闘を観察した際に、率直に感じた事だった。
不老不死の魔女による不意の一撃だけが、この戦況を変えうる。剣術としては児戯もいい所だが、その攻撃力は侮れない。
先刻、仕留めそこなったフェリーの事を思い浮かべる。
彼女は恐怖に染まった表情を見せていた。
精神的にどちらが優位に立っているか。それを判らせれば、与するのは容易い。
その過程として、シンとの戦闘。彼の存在と同時に魔女の精神を折る。その必要性をビルフレストも感じていた。
剣に魔力を込め、横薙ぎに剣を振るう。武器庫の壁は瞬く間に瓦礫の山と代わり、互いの全身が確認できるようになる。
「シン・キーランド。行くぞ」
ビルフレストは瓦礫が崩れ切ると同時に、床を蹴っていた。
シンが構えていた銃を放つが、何の策も無く当たる相手ではない。
一瞬で縮まる距離。迫りくる命の危険を肌で感じながら、シンは奥歯を噛みしめる。
(――かかった!)
第一関門は突破した。
シンにとって最悪なのは、自分達を無視される事だった。
背後から不意打ちをした程度で、どうにかなる相手ではない。
オリヴィアの様子から、それは察知していた。
だから、ここが一番の賭けでもあった。
この男が、どれだけ自分達の存在を注視しているか。彼の腹の内でしか判らない事。
しかし、ビルフレストは自分達の対処を選択した。
ここから先は、自分の反応に懸かっている。
シンは全神経を防御に張り巡らせる。
ミスリルの剣で、相手の刃を受け流す。魔術付与によって現れた羽衣で、致命傷を防ぐ。
それでもビルフレストの太刀筋は鋭く、刃が交わる度にシンを傷付ける。
頬を、腕を、足を裂く。滲み出る血が、更に神経を研ぎ澄まさせた。
圧倒的優位を保つビルフレストだが、同時に違和感を覚えていた。
たまに反撃こそ見せるが、シンに攻撃の気が殆ど感じられない。ジリ貧だと判っていながらも、敢えてそれを選択しているようにしか見えない。
その行動は、未だ姿を見せないフェリーの存在を警戒させる。
彼女の存在があるからこそ、防御に専念できる。状況の打破を、一任しているように感じられる。
ならばと、自身の意識を周囲へと動かす。フェリーがいつ、どこで動いても対処できるように。
だが、そうなると途端にシンが攻勢に出る。あくまで、自分に集中しろと言わんばかりに。
(成程、面倒だな)
フェリーが前衛で、シンが銃で援護する程度なら対処は容易かった。
その考えは見透かされているようだった。
逆に、自分の考えが見透かされているあろう行動が自分への挑発のように感じ取られる。
魔力も、権力も、特別なものを持っていない青年。
そんな人間が、自分と剣を交えている。それだけで、称賛に値する。
だからこそ、理解させる必要がある。この男が、これから先の戦いでは場違いであるという事に。
「……ッ!」
シンの防衛本能が、一歩引くように命令をする。
確実にビルフレストの意識が変わった。今までのように捌き切れないと、感覚で理解する。
彼の意識が、完全に自分に向いた瞬間。待ち望んでいた瞬間だった。
「リタさん! 今です!」
同じくそれを感じ取ったオリヴィアが、玉座の間で声を上げた。
「妖精王の神弓。お願い」
玉座の間で、リタが天に構える弓。妖精王の神弓が、美しい光を灯した。
放たれた無数の矢は放物線を描き、雨のように落下していく。
空に居る黄龍を狙ったものでも、ましてや玉座の間に降り立った敵を狙ったものでもない。
自分が感知した、ゆるぎない強い魔力の持ち主。ビルフレストに向かって、放たれる光の矢。
一切、視界に彼の姿は映し出されてはいない。それでも、そこに居る。リタには、その確信があった。
ビルフレストが雨のように降り注ぐ光の矢を察知したのは、落下を開始した直後だった。
明らかに自分を狙い撃ちにしている。フェリーとは違う援護に、流石のビルフレストも僅かに身を強張らせた。
(このままでは、シン・キーランドも巻き込むはずだ……)
緊張が解けるまでの一瞬で、彼は考える。
妖精族の女王が居る可能性は、懸念していた。
彼女が居るという事は、魔獣族の王も居るだろう。厄介な敵が、更に増えた形となる。
神器による狙撃があるからこそ、シンは開けた場所での戦闘を選択したのだと納得をした。
その一方で、疑念が浮かぶ。
妖精族の女王は、かつてこの男と不老不死の魔女に救われている。
自分諸共撃ち抜く事は、彼女の本意ではないはずだ。なら、シンはどうするのかと。
その回答は、すぐに得られる事となる。
強まった殺気により、防衛本能が全開になるシンはそれに身を任せ、一歩退こうとする。
リタによる狙撃から、回避する算段なのだとビルフレストは察した。
逆に言えば、この男を同時に撃ち抜けば。
かつて、彼女の想い人を討たせる事は失敗した。それを、近い形で再現できれば。
妖精族の女王の精神を乱せるのではないかと。
そして、それは同時に不老不死の魔女の精神を折る事にも繋がる。
「貴様を、逃がすわけには行かない」
「――っ!」
緊張による硬直が解け、ビルフレストは腕を伸ばす。
下がろうとするシンの腕を掴み、強引に自分の手元へと引き寄せた。
雨のように降り注ぐ光の矢を、その身を浴びせる為に。
自分には強い魔力がある。何なら、シンを盾にするという手段もある。
どちらにしても、深い傷を負うのはこの男なのだと。
「……見誤ったな」
懐に寄せられたシンは、そう呟いた。
苦し紛れの嘘ではない事は、不敵に笑う口元が証明していた。
「……なに?」
刹那、妖精王の神弓による光の矢がビルフレストの身体を貫く。
天に向かって放たれた矢の雨ではない。床や壁を抜いて一直線に放たれた光の矢が、彼の脇腹を捉えていた。
「――がっ!?」
上空に放たれた矢は囮。本命は、最短距離を走る光の矢だった。
気付いた時には遅かった。自分の行動は、シンに読まれていた。
不意の一撃を受けた事により、更にビルフレストの反応が遅れる。
「てええぇぇぇぇぇいっ!!」
絶好の好機。それを逃すはずがない。
魔導刃を起動したフェリーが、ビルフレストへ向かって走り出していた。
茜色の刃が彼の左腕へ、深々と突き立てられた。