114.主導権を握る者
異変を最も早く察知したのはリタだった。
妖精族の里と比べて明らかに薄くなった魔力濃度。
それ故に感じた、真っ透明な水に一滴の異物が放り込まれるような感覚。
糸を引く様に伸びていく魔力の帯が、近付いてくるのを感じる。
顔を上げ、天井の更にその先に視線を送るリタの姿から、クレシアが探知を使用する。
空気中に纏わせた魔力の粒子が、暴れまわる風に振り回される。
二人からやや遅れて、アメリアも近付いてくる魔力の存在を感知した。
その姿を肉眼で捉えんと、アメリアが部屋を飛び出す。
壁が破壊されたままの玉座の間へ走る彼女を、部屋にいる者達が後を追った。
戦闘が出来る者だけではなく、政治を担当する大臣達もそこには居た。
奇襲を受けるのであれば、彼らの傍に居た方が安全だ。護ってもらおうという狡い考えが、そこにはあった。
「あれは……」
風が吹き込む玉座の間。
国王の心情を現しているかのような痛々しく崩れた壁の向こうに、感じたモノは居た。
上空を漂う金色の龍が一体。その背に乗る、一人の人間。
傍から見れば、それは後光を浴びて神の降臨かと見間違う程に美しい姿だった。
「あらあら、皆さんお揃いで。お出迎え、ご苦労様です」
崩壊した玉座の真に現れる、黄龍。その背に乗っていたサーニャが王宮へ足を踏み入れる。
アメリアやオリヴィアの見慣れた侍女の姿と違った装いは、彼女が本当に敵に回ったという事をアメリアへ突き付ける。
「サーニャ……」
「お早いお戻りでしたね、アメリア様。カッソ砦では大変でしたでしょうに」
「やはり、あれも貴女たちが……!」
不敵に笑うサーニャに、カッソ砦での凄惨な光景を思い出す。
アメリアは爪が食い込む程に拳を握る。
彼女は第三王女や妹のみならず、他国の人間も傷付けた。
この痛みが無ければ、冷静さを保てそうにもなかった。
「それで、サーニャ。貴女一人で何の用ですか?」
アメリアの隣に立つオリヴィア。彼女の存在に、サーニャは顔を顰めた。
見渡せば、第三王女もこの場に立っている。
第一騎士団に逃げた彼女達をすぐに追わせた。ビルフレストが、念入りに隊長まで送り込ませた。
送り込まれた彼らは、戻ってくる事は無かった。代わりに、彼女達がこの場に居る。
理由は考えるまでも無かった。黒髪の青年が、魔獣族の王が、妖精族の女王がこの場に居る。
彼女達は悪運の強い事に、出逢ったのだ。シン・キーランド達と。
唯一、不老不死の少女だけがこの場に見当たらない。気掛かりではあるが、王宮内に居るのは明白だ。
(それにしても……)
サーニャは視線を気取られないようにしながら、リタとレイバーンの姿を確認する。
ビルフレストから話は聞いていたが、魔獣族の王はでかい図体の割に心根は優しそうな男だ。
対する妖精族の女王は、思った通りに可愛らしい。
ギランドレ軍を唆した時に、渦中にいた二人。シン・キーランドとフェリー・ハートニアによって救われた二人。
その二人がきっちり、シンとフェリーを通してミスリアの戦力になっている。
本当に忌々しい存在だった。ピアリーの村からずっと、シンとフェリーは自分達の邪魔ばかりをしている。
今すぐにでも飛びかかりたいところだが、サーニャはぐっと堪える。
自分の任務にシンとフェリーの対処は含まれていないし、片割れは姿を現しては居ない。
それに、かつての主人が怒りの籠った熱視線をくれている。きちんと対応しなければ不誠実というものだ。
「あらあら、オリヴィア様。きっちりと刺したはずなんですが……。
存外、お身体がお丈夫でしたのね。お見それいたしましたわ」
「ええ、丈夫に産んでくださったお父さまとお母さまに感謝していますよ。
貴女のせいで、お気に入りの服が汚れてしまいましたけどね」
「まあ! それは申し訳ございません!
ワタシがまだお仕えしていれば、お直しすることも出来たのですが」
安い挑発だと理解しつつも、オリヴィアは怒りを隠せない。
自分の事はいい。普段の態度から、敵を作る事には慣れている。
ただそれが、自分と関係のない所で、自分の信頼していた相手だっただけだ。
胸が痛もうが、前を向く事は出来る。
オリヴィアが本当に許せないのは、主君を危機に晒した事。
それは迂闊だった自分への怒りも含まれているが、一連の要因となった第一王子派は赦せない。
今度こそ、必ず護る。その誓いが、オリヴィアに怒りを堪えさせた。
「それで、何の用ですか? 忘れ物でも取りに来たのですか?」
「はい、そうなんです!」
サーニャの意外な肯定に、その場の全員が息を呑む。
彼女の隣には黄龍が居る。それはつまり、その背後に黄龍王が控えているという事を意味する。
オリヴィアの頬を、一筋の冷や汗が伝う。
忘れ物とは何なのか。殺し損ねた自分の命か、撤退する原因となったエトワール三姉妹か。
それとも、第一王子派の本懐である国王達なのか。
だが、サーニャの言う『忘れ物』とはその中のどれにも当て嵌まらなかった。
「先日、撤退する際に回収し忘れた方たちが居まして!
この場にお揃いのようで、ワタシとしては探す手間が省けたので助かりました!」
「……は?」
玉座の間に漂う空気が重くなったのは、決して気のせいでは無かった。
アメリアにとっては、懸念していた事がぴたりと当て嵌まる内容でもある。
まだこの場に居るのだ、第一王子派の人間が。
しかし、わざわざサーニャがそれを口にする理由が解らない。そのまま潜伏させれば、間者としての働きも期待できるはずだ。
思考を巡らせるアメリアをよそに、集まった者達は互いの顔を見合わせる。
この場に居るのは戦闘員だけではない。国王についた大臣達も居合わせている。
むしろ、そっちが本命だろうとアメリアは考える。戦闘能力を持つ者ならば、先日のように暗殺を試みた方が楽なのだから。
互いが互いの顔を指差し、罵り合う貴族達。その無様な姿を見て、サーニャは肩を震わせる。
なんて滑稽なのだろう。なんて醜いのだろう。愉悦に浸る一方で、こんな人達に自分の人生を弄ばれていたという怒りが湧き上がる。
「誰だ?」「お前か!」「違う!」
もしこの場で、サーニャに応じる者が現れれば即座に吊るしあげられるであろう。
誰もが理解をしている。だからこそ、互いが犯人捜しをしてしまう。
後ろめたい者は、誰なのかを探してしまう。
「ワタシとしては、早く連れ帰りたいんですけど。
ほら、一夜を共にした際に約束したではありませんか。
早く出てきてくださいよ」
首を傾げるサーニャだが、彼女の言葉により更に現場は混乱を極める。
サーニャが敢え名を出さないのが、場を乱す為のものだという事は判る。
一方で追及され、言いよどむ者が現れた。後ろめたい者が、数名居るのだ。
このままでは事態に収拾がつかない。サーニャの企みも解らない。
どうするべきかと、視線をぐるぐると回すアメリア。
ヴァレリアやグロリア。いや、ネストルやフィロメナですら同様だった。
いつ背中を刺されるか分からない。その警戒心だけが、周囲に伝播していく。
「どうすれば良いのだ……?」
慌てふためく状況に、無関係であるレイバーンは戸惑っていた。
同様に混乱するリタやイリシャに被害が及ばぬよう、自分の元へと身を寄せさせる。
初めて訪れた人間の世界は思っていたものと違っていた。
それが緊急事態故のものだとは理解している。しかし、淡い夢が砕かれたような気分だった。
「……すまない」
リタとレイバーンに、ほんのりと湧く機微を感じ取った男が居た。
彼はいつも謝る。自分の責任でなくとも、それが口癖であるかのように。
あまり褒められた事ではないのだが、どこか安心もしてしまう。
その男は、混乱する場に劇薬を投じる事を決めた。
迷いなく、真っ直ぐな瞳で、引鉄を引く。
乾いた音が、一瞬にして猜疑心で囀られる空間を鎮めた。
鉛玉が、風に揺れるサーニャの髪を撃ち抜いていた。
「シン・キーランド……」
サーニャは男の名をぽつりと呟く。
この状況を鎮めるために、シンが動く事を想定していなかった訳ではない。
だが、彼はこの場に於いて最も価値の無い人間でもある。
妖精族の女王でも、魔獣族の王でもない。どこぞの貴族でも無ければ、ミスリアの人間ですらないのだ。
この場を収めるにしても、こんな力業で来るとは思っていなかった。
全員の視線がシンに集まる。それは、珍しい武器を持っているからではない。
何故、撃ったのか。ミスリアの人間でもない彼に、何の権限があるのか。
本当は、この男がグルなのではないか。そういった猜疑心も、決して少なくは無かった。
「シンさん……」
アメリアは知っている。彼が、意味もなくこんな事をする人間ではないと。
現に、銃弾は威嚇に留められている。考えがあっての事に違いないのだが、アメリアにはシンの真意が読めない。
オリヴィアもまた、彼の真意が掴めずにいた。
ただ、自分と一瞬目が合った事に気付く。本当に僅かな時間だが、勘違いではない。
明確に、意思のある視線を彼は自分へ送ったのだ。
オリヴィアはシンの立場になって考える。
何故、彼は自分へ視線を送ったのか。姉でもなく、リタやレイバーンでもなく、自分に。
彼の知っている人物で望みを叶える事を出来るのが、自分だけだから。
そう仮説を立てた時に、オリヴィアは自分のするべき事を理解した。
パラパラと舞う自分の髪を視界に捉えながら、サーニャはこの状況を整理していた。
痺れを切らしたという風ではない。それなら、威嚇射撃後に黙っている理由が見当たらない。
真っ直ぐに自分へと向けられている視線は、敵意や殺意の類を感じない。
ほんのりと怒りが向けられているような気はするものの、先刻のオリヴィアほどではない。
「あらあら、シン・キーランドさん。挨拶が遅くなったのでご立腹だったでしょうか?
初めまして、サーニャ・カーマインと申します。以後、お見知りおきを」
「興味が無い」
スカートの裾を摘まむような仕草を見せるが、シンはバッサリと切り捨てる。
そんな事で油断をしてくれるような人間ではないと、サーニャも過去の情報から知ってはいたが、思った以上に朴念仁だなと毒づいた。
「ええ、そうでしょうね。でも、いいんですか?
お客様であり、王位継承に無関係である貴方が、無責任に戦いの火蓋を切ろうとしたのですよ?
それをこの場にいる貴族の方が、お許しになられるとでも?」
サーニャの言葉に反応した貴族が同調を試みようとするが、シンの返答は貴族よりも先に放たれる。
表情を変える事なく、淡々とシンは言った。
「だったら、それがアンタのお仲間なんだろうな」
その一言に、貴族達は揃って口を噤む。
目論見を外したサーニャから、舌打ちが漏れる。
自分の言葉を狂言だと思っている訳ではなさそうだ。だが、彼がこの場を鎮めて何になるというのか。
サーニャの目的は、時間稼ぎだった。
シンにより沈黙が保たれているこの状況も、決して悪化している訳ではない。
むしろ、硬直状態により目的の達成がより強固になった可能性さえある。
「それに、アンタの前提は間違っている。
この場で一番、意味を持たない人間が俺だ。だからこそ、俺が一番自由に動ける」
シンの言葉に、全員が息を呑んだ。
確かに、彼がこの場で暴れる事に大きな意味を生み出す事は難しい。
ただ、空気の読めない青年が暴れた。そう言って話を纏める事が出来る。
捨て鉢でも何でもない、自分の立場を理解した上での行動だった。
「俺が言いたいのは、アンタがわざわざ仲間の存在を口にする必要が無いという事だ。
黙っていた方が間者としての働きが期待できるだろう」
アメリアも同意見だった。ここで、サーニャが間者の存在を仄めかす理由が判らなかった。
「ワタシが皆さんの動揺を誘うためかもしれませんよね?」
「いいや、それもない。アンタは暗殺を試みた。しかし、その後に撤退したと聞いている。
アンタは自分の命を投げ捨てるような人間ではない。そんなアンタが、単独でこの場に現れた。
つまり、生きて帰る算段がある。それが何なのか、考えていた」
(……面倒な人ですね)
奇妙な感覚にサーニャは囚われていた。
シンがベラベラ話すという事は、自分の目的である時間稼ぎも成功している。
それなのに、気持ちが悪い。これは自分のペースではない。
主導権を奪われてる。この、何者でもない男に。
「考えられるのは、陽動。奇襲を行うための。
龍族に乗って派手に登場したのも、不特定多数の人間を巻き込んだのも、意識を逸らすことが目的だ」
サーニャの眉が、ピクリと動いた。本当に厄介な人間だと感心をした。
恐らく、自分にこの男の心を乱す事は出来ない。相性が悪すぎる。
しかし、幸運でもあった。自分の働き次第では、この男をこの場へ留める事が出来るのだから。
「それに、俺の名前を知っているんだ。どうせ、フェリーのことも知っているんだろ」
当然、不老不死の少女の存在をサーニャは把握をしている。それが知られている事も問題ではない。
彼と彼女に連絡手段が無ければ、連携を取る事が出来ない。
シンさえこの場へ釘付けにしておけば……。
予定外の状況に、ペースを乱された事によりサーニャの意識がシンへ集中する。
それこそが、シンの狙いだった。
不意にリタが、広がった天空へ妖精王の神弓を構える。
彼女の行動の意味を一番理解しているのは、シンに気を取られ反応の鈍ったサーニャだった。
「しまっ……!」
光の矢が、天に放たれる。雲が霧散し、青空が広がる。
遥か上級に居るのは、無数の龍族がこの場に集まっていく光景だった。