幕間.侍女と王子
そっと首筋に手を当てると、包帯越しでも頸動脈が脈打つのを感じ取れる。
あぁ、良かった。ワタシはまだ生きている。
今までに感じたことがないほどに、『死』が接近していた。巻かれた包帯は、その証。
ふと白くて美しい肌を、自らの手で真っ赤に染めた人のことを考える。
ワタシが仕えていたフォスター家のご令嬢。オリヴィア・フォスター。
ナイフが腹に突き刺さる瞬間まで、彼女はワタシのことを微塵も疑ってはいなかった。
信じられないと言った表情を見せてくれた時は、優越感とほんの少しの申し訳なさがワタシの中に混在していた。
個人的な話で言えば、特に怨みがあるわけではない。
しかし、彼女は生まれながらに魔術大国ミスリアの貴族。エリート中のエリート。
生まれながらにワタシの『上』に存在しており、その序列が入れ替わる日はどれだけ待っても訪れない。
彼女やその姉は無自覚にその事実をワタシへ突き付ける。
何があっても失うことのない立場を、これ見よがしに見せつけてくる。
いっそ悪意を持って接していて欲しかったものだ。そうすれば、遠慮なく脳髄にでも刃を突き立てることが出来ただろうに。
第一王子派に勧誘されて、間諜を任されている間。
醜い豚に全てを曝け出して、我が身を幾多の貴族へ委ねた。
貴族様はそれがお好みのようだった。
生まれだけで何も成し遂げていないその手で、ワタシに己の欲望を刻み込んでいく。
大層な矜持と征服欲だけが独り歩きしている。反吐が出そうだった。
身の毛がよだつほどの不快感が身体に纏わりついて、それを上書きしようとビルフレストを求めた。
彼はすぐにワタシの意を汲んでくれた。そこに情愛は無くても、ワタシを正気に保つぐらいの効果はあった。
その度に思う。今ある立場が逆転した時に、あの貴族どもはどうなるのだろうかと。
何も成しえていない彼らでは、再度逆転することは不可能だろう。
その日を一日でも早く迎えることが、ワタシの愉しみだ。
そのためには、成さねばならないことがある。
カルロパが脱獄させたマーカスと、その用心棒や犯罪者たち。
ついでにシュテルン家からニルトンも合流をしてきた。第一王子派の研究者が揃っている。
計画が狂ったのは間違いなくマーカスが原因なので、はっきり言ってワタシの心象は最悪だ。
しかし、その一方で邪神の『核』を精製するにあたって残した功績は計り知れない。
マーカスの父であるダールは窮地へ陥った際に自分の保身だけを求めた結果、ビルフレストにより処刑された。
彼には死んだという事実だけ伝えられている。これで尻に火が点けばいいのだが。
彼の投獄後にビルフレストが生み出した邪神像も、要所ではマーカスの造り出した『核』を砕いて利用している。
ひとつでは抑えきれない力を、分散して受け持たせるという着想から得たものだった。
皮肉にも、ウェルカで計画を邪魔した存在。シン・キーランドが持つ魔術を放つ銃がヒントとなった。
魔術も、神についてもワタシは詳しくない。魔力は人並みにあるようだが、神に至っては大した信仰心も持ち合わせていない。
当然だ。産まれてからの立場で『下』の立場に配置されて、どれだけ足掻いても溺れていくような感覚に囚われる。
ひとつもいいことが起きていないのに、どうして神を信じることが出来るというのだろうか。
どうやらそれが功を奏てしまったらしい。
負の感情を取り入れるという邪神には、ワタシという存在は格好の餌だった。
しかし、今は邪神のことは置いておこう。
重要なのは、ワタシたちの首魁。アルマ王子だ。
ビルフレストは挫折を識ることも大切だと言っていた。
まあ、確かに欲しいものは何でも手に入って、気に入らないものは片っ端から消えていく。
そんなに甘やかしたのはビルフレスト自身なのだが、今度は挫折をお届けというわけだ。
意図は解らないでもない。挫折を知らなければ、いざという時に脆さを発揮するかもしれない。
教育係の教育が次のフェーズへ移行したのだろう。
とはいえ、散々甘やかしてきたお坊ちゃんに急転直下の塩対応は頂けない。
まあ、矜持だけが肥大化して行動も精神も伴わないお姫様が悪いのだけれど。
たまに現れたと思えば、ビルフレストを独占する。その結果、他の者に負担を与えようが知ったこっちゃない。
テランが居た時は良かった。あの男はよく働いていた。それ以外やることがないのかというぐらいに。
フリガは迷惑なパトロンだ。第一王女派の戦力を得る事以外に、何の価値もない。
正直、彼女が居なくても貴族達はどこかの勢力に寝返るだろう。尤も、それが第一王子派とは限らないからビルフレストもキープしているのだろうが。
そういう事情もあるので、ビルフレストの代理でアルマ様のメンタルケアを買って出た。
アルマ様とは会話をする機会が無かったのでちょうどいい。
主に一切の挨拶をしていなかったのは、侍女として恥ずべきことでもある。
ここはしっかり、顔を覚えてもらうに越したことはない。
「アルマ様、お初にお目にかかります。
ワタシ、サーニャ・カーマインと申します。
以後、お見知りおきを」
スカートの裾を摘み、一礼をする。
右手を血で真っ赤に染めた主が、荒い鼻息を落ち着けさせてこちらを見た。
「……君が、サーニャ・カーマインか」
ありゃ。どうやら、我が主はしがない侍女の存在を知っていたようだ。
大方、怖いお姉さまにでもあることないこと教え込まれているのだろう。
「ビルフレストから聞いている。君と、テラン・エステレラはよく働いてくれていると。
……テランは戦火で命を落としてしまったようだが」
ワタシはまた驚いた。情報源はビルフレストだった。
彼がそういうことを話すタイプだとは思ってもみなかった。
「それは照れますね」
「誇るべきだろう。君は身を粉にして、尽くしてくれた。
ずっとミスリアを離れていた僕は、君の活躍を見ることが出来ていない。
だから、誇ってくれないとどれ程に凄いことか解らない」
「といっても、殆どは汚れ仕事ですからねえ。誇れるようなことはなにも――」
卑下するワタシの頬を、アルマ様が撫でる。
貴族共とは違う。刻みつけるような乱暴さはそこになく、手を離してしまえばすぐに消えてしまいそうな儚さで。
「そう思いながらも成し遂げたのなら、尚更誇りに思ってくれ。君は美しいよ」
「……ありがとうございます」
妙なことになってしまった。
慰めに来たはずなのに、ワタシが慰められている。
でも、不思議と嫌な気分にならない。ワタシがどんな人間か知って、それでも肯定してくれる。
嬉しかった。初めての気分だった。
「アルマ様が荒れていましたので、慰めようと思ったんですけど。
なんだか、立場が逆になってしまいましたね」
アルマ様は目を丸くしていた。
どうやら、ワタシが本当に挨拶をしに来ただけだと思っていたらしい。
「そうなのか? だったら僕のことも慰めてはくれないか。
正直言って、今は最悪の気分だ。君に向ける言葉も、大分選んだ」
「ええ。いいですよ」
なんだかおかしくて、ワタシは失礼を承知で笑ってしまった。
目の前にいる少年は、実の父を手に掛けるという大罪を犯そうとした。事実、深手を負わせた。
それなのに、こうして話している彼は裏表のない子供のようだ。
ワタシは許可を得て、アルマ様の隣に腰掛ける。そこで色んな話をした。
神剣を折る前に精神がへし折られそうになったという。代わりに国王へ怪我を負わせたのだから、トータルではこちらの勝ちですと背中を押した。
第三王女暗殺の失敗について謝ると、また慰めてもらった。臣下のメンタルケアも上に立つ者の役目だとビルフレストに教わったらしい。
クーデターを起こす目的は、アルマ様とワタシでは違う。ワタシは、自分が『上』に立ちたいだけだということを改めて自分の口で言った。
「いいじゃないか。僕には僕の目的がある。
君には君の目的があってもおかしくない。むしろ、何の見返りも求めず仕えてもらうだけのは忍びない。
よく働いてくれているのだから、君を含め皆の望むものは出来る限り与えたいと思っている」
本当に第一王女と同じ遺伝子かと疑うほどに、アルマ様の器は大きいと感じた。
「アルマ様は、陛下がお嫌いですか?」
つい口に出してしまったことを、ワタシは後悔した。
この質問は、ひょっとすると怒られるかもしれない。アルマ様というより、ビルフレストに。
彼の心に釘を刺し、肝心な場面で迷いを生じさせかねない質問。
しかし、彼は少なくとも言葉の上でははっきりと言い切った。
「嫌いというより、許せない。あの男は、僕の欲しい物を総て手に入れることが出来たはずだ。
それなのに、ただそこに立っているだけだ。毅然と、背中を伸ばして立っているだけで、誰もが神のように崇めた。
どれほどの力を持っているか解らないのに平伏する者達にも、辟易した」
「それは、剣を交えてもですか?」
実際に、ネストル陛下の実力は相当なものだった。深手は負わせても、ワタシたちは黄龍に助けられた。
あの根回しはビルフレストが行っていたものだ。彼は敗ける可能性も想定していたのだろう。
用心深いというよりは、敗けることも織り込み済みだったのだろう。
「余計に腹が立った。邪魔をするなと言いたかった。
その気持ちは、今でも変わらない。僕がミスリアの王に立ち、この国を変える。
民も、そして神さえも従えて見せる。邪神の顕現は、その一歩だ」
彼は苦虫を噛み潰したような顔をする。改めて口にすることで、屈辱感が込み上げてきたようだった。
アルマ様が歩む道は、きっと歪んでいるのだろう。ビルフレストの教育が、それを真っ直ぐに見せている。
全てを滅ぼさんとする神。悪意を具現化した存在。邪神。
そんなものは、この世に存在していない。正確に言えば、望まれたことが無かった。
ワタシたちは、その禁を破ろうとしている。新たに神を創り出すことも、望まれないものを生み出すことも。
混乱したミスリアに、数多の国が侵略を試みる。
北には山脈を隔てて魔物の巣窟。極めつけは、破壊の化身である邪神。
絶体絶命の中、それらの恐怖から皆を解放する。
総ての敵を打ち滅ぼすことで、未来永劫語り継がれる英雄が誕生する。ワタシはその仲間として、称えられる予定だ。
壮大な自作自演だ。だけれど、いつだって勝者が歴史を創る。どれほどに汚れた過去も、後世では美化した上で語られる。
過去の英雄だって、自作自演をしていない保証はどこにもない。
過去の英雄だって、その瞳は薄汚いものだったかもしれない。
ただ、それはネストル・ガラッシア・ミスリアが統治する以上は、起きえない世界。
だから、まずはミスリアを壊す。それがビルフレストの決めた方針だった。
アルマ・マルテ・ミスリアの英雄譚は、今が前日譚の時なのだ。
尤も、その方針のせいで今は使えない手札もある。
国民の支持を得るためには市街地に被害を出すわけにはいかないし、ウェルカのように国民を魔物に変えるわけにはいかない。
魔族を召喚することだって、アルマ様が表立って動いている以上はやるべきではない。
ウェルカでの事件。その黒幕がアルマ様だと知られてしまう。
ダールが余計なことをしなければ、第三者が乱入してきたという言い訳でも出来たのだが。
あの男は本当に余計なことをしてくれた。
様々な制約と試行錯誤の中、アルマ様が表に出て来た。
前日譚はもう終わり。本格的に、英雄譚が始まる。
「それで」
「はい?」
「もう、終わりか? これでも結構傷心しているんだけどな。
ビルフレストには、内緒にしてもらいたいけれどね」
ワタシはくすりと笑みを溢した。
「では、傷の手当でもしながら慰めましょうか」
擦り傷だらけで真っ赤に染まった手。こびり付いた小石や砂粒を丁寧に洗い流す。
その上で包帯を巻きながら、優しい言葉を沢山投げかけた。
時折見せる年相応の表情が、本当の姿を見せてくれているようだった。
「……サーニャ?」
「気持ちが落ち着く、おまじないですよ」
手当を終えたワタシは、アルマ様の頭を抱きかかえる。彼は少し戸惑っているようだった。
第一王女が見たなら、また腹を立てるだろう。
だけど、ワタシはこの少年のケアをしに来たのだ。こんなのは姦計の内には入らない。
若干15歳の少年は、きちんと自分の物語を走り切ることが出来るだろうか。
ワタシに、もうひとつ興味が生まれた日だった。