100.集いし『星』
クレシアがオリヴィアの元へ現れる少し前に時は遡る。
大雨の中、ミスリア国内を馬で疾走する二人の影。
エトワール家の三女。クレシア・エトワール。
それと、ミスリアが保有する神器の継承者であるイルシオン・ステラリード。
本来であれば、どこか近くの村で雨が止むまで滞在でもしていただろう。
そうしなかった理由は、ただひとつ。イルシオンの勘に過ぎなかった。
勘というには聊か乱暴すぎただろうか。
一応、彼なりの根拠は存在している。
切っ掛けは、些細な事だった。エステレラの本家で、朝食を取っていた時の事。
イルシオンは唐突に、そう言った。
「クレシア。一旦、王都に行ってみるか」
「王都? いいけど……」
頷きこそすれど、クレシアはあまり気乗りがしなかった。
王都に行くという事は、王宮に顔を出すという事。
黄道十二近衛兵として仕える長女と、会うという事。
嫌いではないのだが、いつまでの子ども扱いしてくるのでイルシオンの前では少し気恥ずかしいという思いがあった。
そして、もう一人。同じく黄道十二近衛兵の、オリヴィア・フォスター。
彼女とはウマが合わない。姉のアメリアは自分が一方的にライバル視しているだけだと自覚しているが、オリヴィアとは本質的に合わない。
「あまり良さそうな顔はしていないよな」
「断るつもりはないけれど、一応理由を訊いてもいい?」
そう言うと、イルシオンはすんなりと理由を教えてくれた。
アメリアと逢った時に、同じタイミングで現れた侍女。
彼女は息を切らせながら、自分達の前に現れた。そして、颯爽と去っていった。
「と、いうわけだ」
「ごめん。もうちょっと解りやすく教えて」
イルシオンは眉を顰めるが、判らない物は判らないとクレシアが反論をする。
コホンと咳払いをして、彼は続きを話してくれた。
「アメリア姉の元へ急ぐのは判るが、帰るのまで急ぐ必要はないだろう。
フォスター家は、そんなに人使いが荒い家では無いぞ」
「詳しいね、イル」
幼馴染で、頻繁にフォスター家に行っているだけの話なのだが、面白くはない。
じっと自分の顔を見つめるクレシアの意図が理解できず、イルシオンは首を傾げた。
根拠としては薄い気もするが、特に目的地も無い。
クレシアは、イルシオンの提案に頷いた。
……*
(イルの勘も、捨てたものじゃないね)
クレシアが天井をじっと見つめる。
王宮にたどり着いた彼は、まず自分に周囲の状況を確認させた。
風の魔術を応用した、空気の振動の感知。
静まり返った王宮で、ふたつの大きな音を拾った。
国王と第一王子の剣戟。もうひとつは、オリヴィアとラヴィーヌの会話。
前者の音は、玉座の間で繰り広げられている。それが異常事態であるにも関わらず、他の雑音は周囲に存在しない。
いや、一人だけ呼吸音が聞こえた。誰だか判らないが、玉座の間の外に居るとクレシアは告げる。
「オレが玉座の間に行く。クレシアは、もう片方を頼む」
クレシアは心底嫌そうな顔をした。
玉座の間で戦闘があるのであれば、自分も加勢するべきではないかと主張する。
しかし、国王と第一王子が戦闘を繰り広げられている。
一方では、黄道十二近衛兵同士が戦闘を繰り広げられている。
正常な国の状態では、起きえない事が二ヶ所で発生している。
考えられる可能性とすれば、クーデター。
捨て置く訳に行かない事は、流石のクレシアも理解している。
だから、嫌な顔こそすれど頷いた。
まさかイルシオンと別れた直後に、別の場所からオリヴィアの声を拾うとは思っていなかった。
フローラの声や、侍女の声も同時に拾ったので優先してみれば大正解だった。
しかし、同時に大勢の足音も聴こえて来る。
王宮を破壊する事には抵抗があったが、背に腹は代えられない。王女の命を優先するべきだ。
そう思ったクレシアは颶風砕衝で派手に壁を破壊し、今に至る。
……*
玉座の間で繰り広げられる戦闘。その音のみを、ビルフレストは壁の向こうで感じ取っていた。
魔術付与を施し、魔石を携え、極限まで強化したミスリル製の剣。
傑作であるはずのその剣ですら、黄龍王の神剣には遠く及ばない。
刃は欠け、許容量を超えた魔石はひとつ、またひとつと砕けていく。
年老いて衰えたとはいえ、国王の力も健在だった。
主の矜持を優先し、更には彼自身が真の王と成る為の儀式と称した一対一。
とはいえ、敗れてしまっては元も子も無い。
加勢をするべきかと、ビルフレストは剣を抜いた。
しかし、その刃は彼自身の思惑とは違う形で使用される。
玉座の間を破壊し、国王を斬り伏せる為の剣。
人を斬る為の刃は肉を裂いて赤く染めるのではなく、受け止めた刀身の色を反射し赤く輝いていた。
「――っ!」
その剣閃は城壁をバターのように容易く斬り裂き、壁の向こうから現れた。
雨で全身をずぶ濡れにしているにも関わらず、剣から発せられる熱がみるみるそれを蒸発させていく。
蒸気の向こう側で、ビルフレストは燃え盛る炎のような紅い髪を確認した。
「……イルシオン・ステラリード」
予想外の闖入者に、ビルフレストは眉を顰めた。
アメリア・フォスターが南部へ向かったという報告と同時に、この男を発見した。サーニャからは、そう報告を受けている。
それ故、アメリア同様に姿を現す事は無いと思っていた。元より、イルシオンは滅多に王都へ現れる事が無い。
不確定要素としても、一番可能性が低い人物。それがまさか、現れるとは思ってもみなかった。
「ビルフレスト・エステレラ! そこで何をしているッ!」
「貴殿に話す必要は無い」
玉座の間。その内外で、剣戟による火花が散る。
……*
「オリヴィア、外に私の乗ってきた馬がある。それでこの場を離れて」
「な……!」
暴風の中心で籠城を決め込む中、クレシアは言った。
青ざめながらも反論を試みるオリヴィアの顔を見て、彼女はため息を吐いた。
「勘違いしないで。貴女のためじゃない、フローラ様のため。
護衛としての役目を果たしなさい。
それに、あの侍女はフォスター家に仕えていたのでしょう。
手心無しで戦えると、言い切れる? 貴女をカバーしながら戦うのは、限界があるの。
貴女のためにそこまでする義理もないし」
刺された腹の事は、敢えて言わなかった。
自分に負傷の気遣いをされて喜ぶ性格ではないとよく知っているからだった。
腑に落ちないと言った顔をしながらもオリヴィアはフローラに視線をやる。
いつ泣いたのだろうか。うっすらと涙筋が頬に描かれていた。
今も眉を下げて、自分の赤く染まる腹部をじっと見ている。
痛む腹を抑え、クレシアの言葉によって僅かに冷えた頭を回転させる。
彼女の立場からすれば、自分がこの場に居て迷惑なのは本心だろう。
それはそれで悔しいものがあるが、つまらない意地を張る場面ではない事も理解している。
元より、自分の油断が招いた危機なのだ。
彼女はその尻拭いをしてくれようとしている。
「……分かりました。ただ、無理はしないでください。
サーニャと第一騎士団はともかく、ラヴィーヌに」
「ラヴィーヌに?」
「彼女、右眼に妙なものを仕込んでいます。ライラスやドーンさんが、操られたりしていました」
断片的にかいつまんだ情報だけで仔細は判らないが、クレシアはその忠告を素直に受け取る。
眼を見てはいけないだけなのであれば、いくらかやりようはある。
「一度、この風を止める。いくらか敵が減っていてくれれば助かるのだけれど。
二人は、すぐに城の外に出て。可能な限りは援護するから」
「クレシア……。ありがとうございます」
「フローラ様。頭を上げてください。
外も安全とは限りません、お気をつけて」
頭を下げるフローラに対して、クレシアは慌てて手を振った。
「クレシア、この借りはきちんと返しますから……」
「受け取るつもりはないけどね」
フローラの時とは違い、オリヴィアに対してはクレシアがスパッと拒絶をする。
オリヴィアが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……行くよ」
直後、颶風砕衝が止み全員の視界が一瞬拓ける。
クレシアが風の魔術でオリヴィアとフローラの間に壁を張り、脱出を援護した。
この場に取り残されたのは、クレシアとサーニャ。そして、颶風砕衝に耐えた数名の第一騎士団。
「……やってくれましたね」
「何かやってるのは、そっちでしょうに」
眉を吊り上げ、クレシアを睨みつけるサーニャ。
その鬼の形相に対して、挑発するようにクレシアは言った。
(オリヴィア。必ずフローラ様を逃がしなさい)
風の魔術で周囲の音を拾うと、ラヴィーヌが近付いてくるのが判った。
あまり余裕では居られない事を、クレシアは悟った。
……*
馬を走らせ、フローラを連れたオリヴィアは北へ向かう。
市街地に逃げ込んで市民を巻き込む訳にはいかないと、森の中へその身を隠す。
ならばと、人気の少ない方角へ進む事を選んだ。
「オリヴィア! 傷は大丈夫なの!?」
「大丈夫です。治癒魔術を使いましたので。
そんな事より、振り落とされないようにしてくださいね」
顔の見えない今、オリヴィアの本心は言葉から読み取るしか無い。
彼女の放った「そんな事」という言葉を、そのまま受け取らなくてはならない。
忠誠を誓った彼女が、嘘をつく筈がない。今も尚、戦ってくれている彼女の忠誠心を否定してはならない。
不安を塗りつぶすように、フローラは自分に言い聞かせた。
傷口に触らないように注意を払いながら、フローラは振り落とされない様にオリヴィアへしがみつく。
オリヴィアの顔が僅かに歪むが、決して声には出さない。出してしまえば、このやせ我慢の意味が無くなる。
治癒魔術を掛けたというのは、フローラを安心させるためについた嘘である。厳密に言えば、掛ける意味を持たないというべきか。
元来、治癒魔術は他人に使用する物である。
己の元とは違う魔力を他人に流し込む事により相手の魔力を共振し、自身の持つ治癒力を活性化させる。
故に、自分自身へ治癒魔術を掛けても効果を得る事は出来ない。
魔力の少ない人間への効果が薄いのも、刺激される魔力が少ない事に起因する。
今は傷口の周囲を魔術による氷で急速に冷やし、なんとか出血を抑えている。
腹部の感覚は失われ、今度は凍傷になるのではないかという心配が生まれる。
それを差し引いても、強く打ち付ける雨によって体温は急速に奪われている。
唇が震えるのは、雨が打ち付けるからだ。
指先に力が入らないのは、寒さでかじかんでいるからだ。
視界が霞むのは、大きな雨粒のせいだ。
ありとあらゆる罵詈雑言を荒天にぶつける事で、オリヴィアは何とか意識を保つ。
手綱を自分の手に巻き付け、間違っても手放さないようにする。
冷たい空気が肺を凍らせても、決して呼吸を止めたりはしない。
今の自分に出来る事は意地を見せるだけだと、オリヴィアは自分に言い聞かせる。
「――いたぞ!」
不意に雨音とフローラの声だけが聞こえる世界に、雑音が混じる。
どうやら、第一王子派が追手を放って来たらしい。
何が何でも、確実にフローラを仕留めるという強い意志を感じる。
全くもって、空気の読めない連中だとオリヴィアは毒づいた。
大雨の中、王女と馬上で密着している。それはまるでどんな困難にも立ち向かう覚悟をした駆け落ちのようではないか。
王宮の中では決して味わる事の出来ない経験を、今噛みしめているのだ。素直に二人の世界に浸らせて欲しいものだ。
「オリヴィア、追手が……」
「ええ、分かっています」
文句を言うのは程ほどにして、追手の事にきちんと向き合わなくてはならない。
こちらは二人乗り。相手は、二頭それぞれに騎士が乗っている。
そして、自分は満身創痍で馬の制御も覚束ない。追い付かれるのは時間の問題だった。
逃げ切れる可能性があれば、どんな方法だろうか。
まだ距離に余裕がある今、それを行動に移さなくてはならない。
(……イチか、バチか)
思いついた手段は、きっと王女には過酷な環境だと思った。
同時に市街地を避けた今、自分がフローラを護り切るにはそれしか無理だと思った。
情けなくとも、生き延びる為の賭けを。
「……フローラさま。ちょっと、我慢してもらってもいいですか?」
「当然でしょう。貴女の提案なのだから」
必死に護ってくれているオリヴィアの提案を断るはずもない。
フローラは、彼女の背中に額を預けた。覚悟は既に、出来ている。
……*
オリヴィアは、フローラを連れて山道を歩く。
彼女の提案は、王都を更に北へ突っ切る事により近付いていたドナ山脈。その中へ身を隠す事だった。
視線を切った隙に馬を降り、森の中へ馬を逃がす。ここまで運んでくれた馬も、無事に逃げ延びて欲しいものだ。
ぬかるんだ足場が移動速度を大幅に奪う。それでも、あのまま森の中を馬で走るよりは逃げ切れる可能性が高いと踏んだ。
自身の血痕も、この雨とグチャグチャの地面なら見つけられる事はないだろういう期待もあっての事だった。
転ばぬようにフローラの手を取り、一歩ずつ山の奥へと進んでいく。
握力はもう殆ど残っていない。それでも離れないのは、フローラが彼女の手を強く握っているからだった。
「さすがに……。山道はしんどい……ですね」
「ええ。でも、たまには悪くないわ」
「フローラさま、意外と元気……ですよね」
「ええ。アメリアやオリヴィアに負けていられないもの」
精一杯の強がりで互いを励まし合いながら二人は、ドナ山脈を登っていく。
フローラが肩で息をし始めた頃、見つけた洞穴で一旦休む事をオリヴィアは提案をした。
「ふう……」
腰を下ろすと、思わずフローラがため息をつく。
やはり歩き慣れていない山道は過酷だったのだと、オリヴィアは自身の提案を反省する。
「はは、疲れちゃいましたね」
そう言って、オリヴィアも腰を下ろす。
刹那、彼女の頭が隣に居るフローラの頭に乗る。
気力で保っていたものが、尽きてしまった。限界が、訪れてしまった。
「オリ、ヴィア……?」
フローラが彼女の名を呼ぶが、返事は無い。
既に意識は朦朧としている。浅い呼吸と冷え切った身体。
重力任せにのしかかる頭の重さが、事態の深刻さを伝えていた。
「オリヴィア! オリヴィア、しっかりして!」
涙ぐんだ声が、オリヴィアの鼓膜を揺らす。
返事をしなくては。大丈夫だと伝えなくては。
頭で理解していても、身体が動かない。
(あー……。まずい、かも)
唇が震える。声は出ない。
呼吸をしているだけで、精一杯だった。
「――いたか?」「まだ、見つかっていない」
「近くにいるはずだ!」「探せ!」
草木を掻き分ける音に混じって、男達の怒号が聞こえる。力なく、オリヴィアは唇を噛む。
追手を振り切れては居なかった。彼らも、自分達を捜索してドナ山脈へ入り込んでいる。
(だめだ。フローラさま、まもら……ないと)
声を聞いたオリヴィアが、身体を起こそうとする。
しかし、思いとは裏腹に起こした身体はそのまま泥だらけの地面へと崩れ落ちる。
「いたぞ!」
追手の騎士が、一際大きな声を上げた。
剣を抜いた騎士が二人。王女と護衛へ近付いていく。
霞んでぼやけた眼では、敵の姿をはっきりと捉えられない。
フローラを護らなくてはならない。
解っているのに、身体が自分のものではなくなったかのようだった。
ボロボロの姿で、なお自分を護ろうとするオリヴィア。
その姿を見て、もう耐えられないとフローラはその身を起こす。
「フ……ラ、さま?」
最早声すら上手く発する事が出来ないオリヴィアと騎士の間に、王女は割って入る。
精一杯の勇気と覚悟を振り絞って、フローラはその言葉を口にした。
「私の命が欲しいなら、持っていきなさい。
その代わり、オリヴィアは見逃して」
「な、……を」
主君を見上げるオリヴィア。
同様にフローラも彼女の顔を一度だけ振り返ると、微笑んだ。
もう大丈夫だと、言わんばかりに。
「分かりました。約束は、守りましょう」
騎士が、フローラの願いを聞き入れた。
嘘をつかないで。ビルフレストに唆されるような奴らが、守る訳がない。
やめて。その人は、大切な人なの。
自分の命なら持って行っていい。だけど、その人の命だけは渡せない。
オリヴィアが呪詛のように念を送ろうとも、それが相手に届く事は無い。
鋼鉄の剣が、高々に振り上げられる。
フローラは痛みに耐える為、瞼を閉じた。
オリヴィアは主君が斬られる光景から目を逸らす為、瞼を閉じた。
闇の世界が齎す沈黙は、永遠にも感じられた。
「……?」
しかし、どれだけ時間が経とうともフローラが痛みを感じる事は無かった。
オリヴィアは人間が崩れ落ちる音を聞いて、自分を責めながら眼を開いた。
不思議に思ったフローラも、オリヴィアと同じタイミングで眼を開く。
「大丈夫か?」
横たわるは、鎧を着た二人の騎士。
立っているのは、一人の青年。
黒髪の片手に剣を持った男。その剣には、見覚えがある。
青銀色の刀身。姉が、ある男へ贈ったもの。
逢った事は無いが、自分はこの男性を知っている。
サーニャが描いた人相書き通りの、顔立ちだった。
「シン……、キー……ラン、ド……」
朦朧とする意識の中、オリヴィアは彼の名を呟いた。