95.オリヴィア、最低の一日
打ち付ける雨の音だけが響き、否が応でも集中力が削がれていく。
水の魔術が得意だが、絶対にこんな天候を起こす事はしないだろう。
オリヴィアは、礫のように窓に当たっている雨粒を見てそう思った。
ミスリアの王宮、別棟の廊下でオリヴィアはぼんやりと窓の外を眺めていた。
侍女達も、冷え切った空気に身を震わせながら懸命に仕事をしている。
「お疲れ様です」
にこやかに挨拶をすると、侍女達は笑顔で返してくれる。
貴族達との権力争いが絡んだ上辺だけの言い合いは、心底嫌っている。
一方で、尊敬する姉や、もう一人の姉のような存在である主君。
彼女達の振舞は尊敬している。だから、自分もその精神は見習うようにしている。
オリヴィアにとって貴族達は、割とどうでもいい。むしろ、この振舞で矛先が自分へ向けば良いとさえ思っている。
姉が居れば、フォスター家自体の評判が落ちる事は無いだろう。
だったら、これもある意味で黄道十二近衛兵としての仕事を全うしていると言っても差し支えない。
自分の理解者は、既にいる。
強くて優しい二人の姉。フォスター家に仕えてくれる使用人達。
好きな人に好きでいてもらえれば、オリヴィアはそれで良かった。
侍女達に愛想を振るう程度の余裕は残っているものの、にこやかな笑顔とは裏腹にオリヴィアの気は立っていた。
理由は、第一王子とずっと共に国外出ていた黄道十二近衛兵。
獅子座を司るビルフレスト・エステレラと、牡羊座を司り第一王子の従伯父でもあるカルロバ・ミスリア。
護衛兼指導役として、その中から二人がミスリアへと戻ってくる。
その事が、オリヴィアは面白くなかった。
黄道十二近衛兵の仕事は主に二種類。
ひとつは国王の腹心であり、王宮を守護すると言った盾としての役割。
こちらはまだいい。一応王位継承権は第一位であるアルマを護る為に、選りすぐりの騎士を派遣するという考えは間違っていない。
留学先で何が起きるか解らない。信頼のおける部下を置くべきだ。
実際、フローラが同じ事をするというのなら、是が非でも自分が付いて行くべきだと主張をしていただろう。
問題はもうひとつの役割。正確に言うと、暗黙の了解。
同時に妙な気を起こさぬよう互いの派閥を監視するという役目。
ビルフレストはエステレラ家。第一王子の指導役を任されていた。
そういった面から、彼が選ばれるのは妥当だろう。
問題はもう一人の人物。カルロパ・ミスリアだ。
彼は国王の従兄であり、同時に側室を国王へ紹介した人物でもある。
要するに、ゴリゴリの第一王子派。お零れに預かろうというのが見え見えだ。
暗黙の了解は何処へ行ったのやらと、オリヴィアはため息を吐いた。
漸く産まれた待望の嫡男に、余計な精神的負荷を与えたくないという国王の意図は解らないでもない。
もしくは単に父親として、我が子の身を案じただけなのかもしれない。
その皺寄せが、臣下へ向かっている事には気付いていない。国民に対しては、良い国王だとは思うのだが。
ビルフレストも、カルロパも、オリヴィアは黄道十二近衛兵として直接顔を合わせた事は無い。
彼らが第一王子の留学について行ったのは五年前。自分の地位には姉であるアメリアが就いていた。
幼い頃にビルフレストと会ったという事は覚えている。しかし、その記憶は覚えているだけ。
良いものでも悪いものでもない。ただ、会ったという事実のみ。
幼い第一王子とも、勿論面識はある。
なんでも思い通りになると思っている、駄々をこねる子供という記憶。
その度にビルフレストや侍女、乳母が奔走していたのを覚えている。
自分が第三王女派という事を差し引いても、到底第一王子とウマが合うとは思えない。
思い返すと、オリヴィアは苛立ちが増してきた。
一緒に仕事をした事のない同僚二人と、我儘王子を歓迎しようにもモチベーションが上がらない。
同じく、共に黄道十二近衛兵として仕事をした事のないラヴィーヌはまだいいだろう。
彼女はエステレラの分家だ。ビルフレストやカルロパと頻繁に会う機会があっただろう。
ラヴィーヌが率先して「本日は忙しいでしょうから、明日改めて黄道十二近衛兵の皆さんで歓迎しましょう」と言ってしまった。
彼を死ぬ人間から、反対意見は出ない。面識の薄い新参者も、同様に新参者であるラヴィーヌが言ったせいで断り辛い空気が出来ている。
だからこそ、余計に腹が立つ。
非番だというのに、どうしてこんなに仕事の事で頭を悩ませなくてはいけないのかと歯軋りをする。
オリヴィアは逆に、エステレラ家を糾弾したいぐらいだというのに。
ウェルカ領での出来事で、後始末に奔走したのはフォスター家だ。
勿論、物資等はエステレラ家からも出た。しかし、実際に動き回ったのはアメリアを筆頭とするフォスター家だ。
あんな広範囲で、邪悪な研究をしておいて「知らない」で片付けようとするのは神経を疑う。
マーカスをいくら尋問しても、重要な事は吐かない。
人間が魔物に変貌する等という、恐ろしい現象が起きているのだ。
上級大臣はすぐに、娘を派遣する事を国王へ提案した。
国王と王妃はそれに頷き、アメリアは国内を走り回る事となった。
むしろ王妃がアメリアを強く推薦した。
彼女にとって、真に頼れる人間はフォスター家にしか存在していなかった。
ミスリア王国の、フォスター家の最大戦力は長い間、王都に存在していない。
「……研究しよ」
オリヴィアは親指の爪を噛む。
雨のせいか、姉が居ないからか、落ち着かない。
悪い条件が重なり過ぎている。
第三王女派の手札が少ないこの状況で、第一王子が戻ってきた。
ただの偶然だろうか。この胸騒ぎは、邪推によるものだろうか。
それを確かめようと、オリヴィアは第一王子へ挨拶をしようと思い立った。
新任で、大した面識もないのだから問題ないだろう。
何なら、点数稼ぎぐらいに受け止めてもらえると非情にやりやすくなるのだが。
そろりと足音も立てずに、オリヴィアは場内の廊下を歩いていく。
その動きを追跡するかのように、コツコツと聞こえる足音があった。
(……誰?)
オリヴィアは不思議かつ、不審に思った。
この城で尾行する必要が、どうしてあるのだろうか。
一体どんな狼藉者が自分を尾けているのだろうか。
気付く素振りを見せないように注意を払いながら、その者を暴くべく動いた。
不快な音を振り払うように、廊下の角を曲がる。
息を潜め、足音の主が追い掛けてくるのを待つ。
角に差し掛かろうとした所で、オリヴィアが顔を出した。
「うおっ! 驚いたぞ、オリヴィア嬢」
足音の正体は、筋肉質な男だった。
角刈りの頭と同じように、角張った口を広げる。
薄暗い廊下でも、その歯は真っ白だという事が判る。
「……ライラスさん。なんなんですか、人の事を尾けたりして」
「そんな顔しなくてもいいだろう」
脱力した身体とは裏腹に、オリヴィアは顔を思い切り顰めた。今日一番のため息が口から漏れる。
第一王子派の、蒼龍王の神剣を欲しがるシュテルン家の、自分が不仲な者とよく行動をする、姉に恋慕を抱く、ライラス・シュテルン。
オリヴィアの精神的負荷がみるみる溜まっていく。
害は薄くとも、今会うと面倒な人間という意味ではトップクラスだった。
「その、なんだ。アメリア嬢は元気にしているだろうか……?」
この男は脳ミソまで筋肉で出来ているのか? とオリヴィアは思ってしまった。
アメリアが息災で無ければ、一大事だ。姉は今、決して向いていないであろう内部監査を必死に頑張っている。
その過程でアメリアの身に何かあれば、その場所が真っ先に疑われる。そんな状況だ。
第一、そんな報せが届けばまず自分やフローラが狼狽えてしまうだろう事は想像に難くなかった。
ただ、シュテルン家も当然調査対象だ。王都からの距離的に、かなり早い段階でニルトンを訪れているだろう。
流石にそれを知らない訳ではあるまいと、オリヴィアは訝しむ。
余程のアホか、何も知らされていないか、はたまた両方か。能天気な筋肉質な男の顔からは、却って読み取れない。
「それをライラスさんに言う必要は無いでしょう?」
「いや、しかしだな……」
何がしかしなのか。ライラスが姉に恋をしているのは、ライラスの事情だ。
オリヴィアにも、アメリアにも関係が無かった。
「アメリア嬢とは、よく任務を共にした。自分が心配をするのは当然の事だろう?」
「当然かどうかは解りませんが、気持ちだけ胸に秘めておいてください。では」
決して形にする必要はない。
それはそれで、姉が困るだろうからと配慮しての事だった。
「オリヴィア嬢!」
「わたしは非番なんです。仕事の話はあまりしないでください」
そう言ってオリヴィアは、踵を返した。
少し回り道になってしまうが、まだ第一王子の元へ向かう事を諦めてはいない。
このタイミングで帰ってきた彼らの真意を、知りたいのだ。
「オリヴィア嬢! 待ってくれ!」
「あー、もう! しつこいですよ!」
しかし、今日のライラスはしつこかった。
速足で廊下を進んでいくオリヴィアを、同じ速度で追いかけてくる。
彼を引き連れたまま、第一王子の元へは向かいたくなかった。
歩く速度を速めて、ライラスを振り切ろうとする。
だが、彼も今日は諦めが悪い。オリヴィアが上げた分だけ、速度を上げて頑なについてくる。
「ライラスさん、仕事中じゃないんですか!?」
「仕事はきちんとしているだろう! この城を護っている!」
「どこがですか!」
オリヴィアは足早に歩きながら、天を仰いだ。
いつもは姉に嫌われないよう、そこそこで引き下がるというのに今日は本当にしつこい。
ライラスを撒く為とはいえ、結果的に第一王子の部屋からはどんどん遠ざかる。
その事実が、オリヴィアを苛立たせた。
やがて辿り着いたのは、角部屋。
再び逃げるには、ライラスを突破しなくてはならない。
「……もう、何なんですか! 本当に!
しつこいにも程がありますよ!」
流石のしつこさに、オリヴィアに我慢の限界が訪れた。
声を荒げ、ライラスをじっと睨む。
「いや、その……。だな……」
急にしどろもどろとなるライラスを見て、オリヴィアは訝しむ。
さっきまでのしつこさは何処へ行ったのやらと、毒づきたくなる。
その答えは、拍手と共に現れた。
「ありがとうございます。ライラス様」
物陰から両手を叩きながら現れる黒髪の女性。
薄暗い部屋の中で、彼女の存在は闇に溶け込んでいるようだった。
ラヴィーヌ・エステレラ。蠍座を冠する黄道十二近衛兵の魔術師。
そして、ビルフレストの親戚。当然、第一王子派。
「ライラスさん。どういう事ですか?」
流石に、脳筋のライラスだけではなくラヴィーヌまで現れたのであれば話が変わってくる。
このタイミングで、妙な事を企むのであれば第一王子絡みしか考えられない。
「い、いや。自分は何も……」
「この状況で、しらばっくれるとかあり得ます?」
「あり得ますわ、オリヴィア様。
ライラス様に、細かい指示なんて分家である私如きが出せるはずもないでしょう?」
オリヴィアの疑問に答えたのは、ラヴィーヌだった。
両手の指を合わせながら、相変わらず棘のある言葉を放つ。
「……じゃあ、フォスター本家のわたしが言いますけど。
ラヴィーヌ、そこをどいてもらえませんか?」
「お断りしますわ。オリヴィア様」
ラヴィーヌは、にこやかに笑顔を作って言った。
皮肉交じりのその笑顔が、オリヴィアにとっては煽られているような感覚だった。
「目敏い貴女に、自由に動かれると困るです。
出来れば、ここで大人しくしておいていただけると私も手荒な真似はしなくて済むのですが……」
突如、魔力の発生を感じる。部屋一面が、雷の檻へと覆われる。
この魔術は知っている。雷光の檻。よく、ラヴィーヌが敵を捕獲する際に使用する魔術だった。
中に閉じ込められたのは、オリヴィアとライラスの二人。
その様子を、入り口からラヴィーヌがじっと見ている。
「オリヴィア様。貴女を放置するのは危険ですから、しばらくこの形で見張らせていただきますわね。
お話相手にはなりますから、どうか気を悪くされませんよう」
「もう、十分なってますよ」
オリヴィアはじっとライラスを睨む。
目が合った彼はぶるぶると首を左右に振り、身の潔白を訴える。
「違う! 断じて違う! 自分は、ただ……!」
ここでライラスと押し問答になっては、相手の思うツボだ。
オリヴィアは深いため息を吐きながら言った。
「だったら、雷光の檻を破るのを手伝ってくれますよね?
彼女をしょっ引くには、十分な理由でしょう」
「わ、解った……」
ライラスは逡巡したが、流石にラヴィーヌに非があると認め頷いた。
「あ、わたしはまだライラスさんを信用していませんので。
絶対背後には立たないでください」
「解った……」
頷くライラスのトーンが、僅かに下がった。
ラヴィーヌは、その様子を喜劇でも見るように楽しんでいた。
彼女は今、優位に立っていると思っている。
別に構わない。本性を現した時点で、目的は達した。
オリヴィアとすれば、そのまま彼女を拘束できれば尚良い。
最後に笑うのは、誰なのかを理解させる。
杖を出し、オリヴィアは魔術を使用する為のイメージを練り始めた。
同時刻。
既に第一王子とビルフレストが動いている事を、彼女はまだ知らない。
オリヴィアにとって最低の一日が、幕を開けた。