91.総てを喰らう腕
寒気がする。鳥肌が立つ。自律神経がイカれたようだった。
眼前にいる奇妙な物体。生き物と呼んでいいのすら解らないそれを相手に、ピースは身震いをした。
「お、おお……! 神だ、神が降臨なさった……!」
黒ずくめの集団が、その存在を見て感嘆の声を上げる。
周囲に群がり、輪の中心で重心がずれているのか左右にふらふらと揺れる邪神。
ピースと同じようにその身を震わせているが、意味合いは真逆だった。
「ふ、ふふ……。やりましたわ。私たちが、最初ですわ……!
これで、私たち……いえ、私は……!」
魔造巨兵を操る女も、また同じように腕を組みながら身を震わせる。
マーブル柄のように黒と白の混じり合った模様。
雪だるまのような体型に四肢を取り付けたようにしか見えない雑な右腕と両足。
それなのに、左腕だけが雄々しく漆黒に染まっている。
こんな禍々しいものをどうして、素直に受け入れる事が出来るのか。
崇める事が出来るのか。『神』と呼ぶことが出来るのか。
その異様な光景に独り、取り残されたように思えた。
だが、こうも思う。この黒と白が入り混じった体型は自分の妨害が成功した証なのではないかと。
魔法陣の中心に、未だ残っている石像を見てそう思った。
黒い左腕だけが抉れたかのように消え、人の形を象った石像は所々が欠けたまま残っている。
そして、自分を魔造巨兵で抑えつけているローブの女。
この女が発した言葉も、引っ掛かるものがあった。
「最初って、どういう事ですか?」
答えてはくれないだろうと思いつつも、ピースは問う。
まるで、こんなモノが複数あるような言い方をする。
「あなたが知る必要はありませんわ。どうせ、ここで死んでしまうあなたには」
「……さいですか」
当然というか、思った通りの返答だった。
しかしこの女は気分が高揚しているのか、気付いていない。
彼女がこの組織の長ではなく、更に目の前の現象が彼女にとってプラスに働くであろう事を暗に示している。
ウェルカでの事件と、『核』から生み出された怪物。
ここまで似た現象が発生しているのだから、偶然で片付けられるとは思えない。
確かな筋とやらによる、近いうちに起きるミスリアの疲弊も、この件が関わっているとみて間違いないだろう。
この話をミスリアへ、アメリアへ伝えなくてはいけない。
合流する約束をしている、マレットを逃がさなくてはならない。
そして自分はまだ、死にたくない。
なまじ、宝くじが当たったかのように続きを得た人生だった。
いい所だと、白い世界で言われた。実際に、そうだと思う。
同時に命のやり取りがいくつも発生する危険な世界だとも思った。
だから、いつの日か突然死ぬかもしれない。ぼんやりと、そう考えていた。
ただ、それは今日であって欲しくない。毎日、そう思っていた。
今日は、その日に最も近づいていると思う。
でも、それを受け入れられない。受け入れると、自分の恩人にも被害が及ぶ。
「風の精よ。荒れ狂う怒りの化身となりて大気を震わせ、大地を轟かせ、総てを巻き込み給え――」
ピースは魔力を込め、詠唱を呟き始める。
魔術の教本で見た、自分が知る限りで最も高火力を誇る風の魔術。
実際に使用した事は無い。大抵は魔導刃で事が足りてしまうからだ。
だから、きちんと詠唱をしないとイメージは確定されない。
でも、詠唱だけは教本の物を覚えていた。何度も、何度も読み返していた。
覚える事自体は、出来ているはずだった。
仮に間違っていても、いい。アメリアは言っていた。言葉がそのままイメージに直結するという事を。
多少間違えても、イメージを確定させるために言葉を紡ぐべきだと口から吐き続ける。
「渦巻け。喰らいつくせ。呑み込め。破壊せよ。
我が魔力を糧に、その怒りを現世に解き放て!
颶風砕衝!」
懸命に覚えた言葉から出した颶風砕衝は石の床を、そしてピースの身体を抑えつける魔造巨兵を巻き込み肥大化していく。
砕かれた石の破片が渦巻く風に巻き込まれ、更に被害を拡大させていく。
その中心にいるピース自身にも、砕けた破片が当たり所々に傷を負う。
「まだ、そんな抵抗をっ!」
ローブの女が奥歯を噛み、敵意の籠った視線をピースへ向ける。
だが、自慢の魔造巨兵がその身を削っていく様を見て焦りを覚えたのか、反撃を試みようとはしない。
もう一体の腕の欠けた魔造巨兵を自分の元へと呼び戻し、部屋で誇大化していく竜巻に備えるつもりでいた。
身体の自由を取り戻したピースが、身を起こす。
魔導刃は蹴り飛ばされ、部屋の反対側に転がっている。
自分の持っている手札は、生み出した颶風砕衝のみ。
それも初めて使ったせいか、制御が上手くできる自信はない。
この場での優先順位は何なのかと考えた時に、浮かんだのは生還だった。
颶風砕衝は自分の魔力を喰って生まれ、そして魔造巨兵の魔石を取り込んで自らの餌としている。
どんどん誇大化していく竜巻を見て、部屋を覆う事が出来れば逃げられるのではないだろうか。
淡い希望が、ピースの脳裏に過る。
その希望を呆気なく砕いたのは、生み出されたばかりの邪神だった。
突然、部屋に生み出された竜巻。周囲を巻き込んで、この部屋を破壊しようとしている。
魔力障壁に触れて、亀裂をどんどん生み出していく。破られるのは時間の問題だった。
壁の向こう側におり、身の安全が半ば保証されていた黒いローブの人間達。
仕事を終えた彼らは、今度は迫りくる脅威に怯んでいた。
しかし、同時に期待も抱いていた。自分達の創造した『神』が、守護してくれる。
そう信じて疑わなかった。『神』が、矮小な存在の都合を考えるとは、微塵も考えては居なかった。
「――え?」
邪神が真っ黒な腕を肥大化させる。そして、それをそのまま横に薙ぎ払う。
次の瞬間、邪神を囲むように立っていた人間の腰から上が消えた。
残った下半身。その断面図から血が滲む。
自立するという命令が脳から与えられなくなったそれは、床にコロンと倒れていく。
「……ひっ」
「じゃ、邪神様!? どうして……。あっ!」
予想外の出来事に、怯むローブの一団。
しかし、そんな事もお構いなく邪神の左手は残った者達へと振るわれる。
ある者は身体の前部分が。ある者は半身が。邪神の手に触れた部分が消えていく。
掌を閉じたり、開いたりする邪神。その様はまるで、咀嚼をしているようにも見えた。
ピースはさながら、生前に見たパニック映画の登場人物になったような気分を味わっている。
さっきまで邪神を求めて、歓喜の輪を作っていた人間達。それが次々と消えていく。
魔造巨兵を操っていた女も「こんなはずでは……」と狼狽えている。
餌を食べ尽くしたからか、だらんと首を左右に振りながら魔力障壁へとゆっくりとした足取りで邪神は近付く。
同じタイミングでピースの颶風砕衝が、魔力障壁を喰らい尽くす。
ツルツルの表面をした頭。表情など見えないにも関わらず、邪神が不快感を露わにしたように思えた。
刹那、颶風砕衝が襲い掛かる。
周囲の空気や魔石を取り込んで肥大化したそれは、邪神すらも呑み込もうとする。
ピースからすると、そうであって欲しかった。
ふらふらと不安定に歩きながら、邪神は黒光りする左手を翳した。
部屋に生み出された竜巻を食べるかの如く、掌の先から風が消えていく。
欠けた部分を補填するように、風が穴を埋めていく。
その先からも竜巻はどんどん喰われてしまい、颶風砕衝はついに消えてしまった。
「嘘だろ!?」
俄かには受け入れ難かった。自分の使える最大の魔術が、まさか食べられるなんて思ってもみなかった。
颶風砕衝は相性が悪すぎる。邪神を相手取るのに必要なのは、一点を貫く攻撃力だと感じた。
頭だけでなく、身体も左右に揺らしながらよちよち歩きで近付く邪神。
たどたどしく、不気味に近寄る邪神から距離を取りつつ、魔導刃の転がった方向へとピースは走る。
懸念していたのは魔造巨兵を操る女だった。
あの女は邪神の誕生を望んでいた。だが、現れた邪神が起こす行動に狼狽えていた。
仲間も皆、あの邪神によって食い散らかされた肉塊に換えられている。
それでも尚、彼女は邪神を信奉するのか。
それとも、望んだ姿ではないと拒絶をするのか。
前者ならば、彼女は自分の妨害をするだろう。
目の前の邪神だけでも相手取れるのか解らないというのに、二対一。いや、三対一となると分が悪いどころではない。
「ごっ、魔造巨兵! いきなさい!」
ローブの女が手を翳し、隻腕の魔造巨兵は彼女の傍を離れる。
魔造巨兵が向かった先は、邪神だった。
「あんなのは、話と違います。 私が求めた邪神様とは、絶対に……!」
絶縁状を叩きつけるかの如く、魔造巨兵は突進していく。
だが、振りかぶった拳から肘に掛けてが一瞬にして失われる。
邪神の左腕が、あっという間に喰らい尽くしてしまった。
「あ……。ああ……」
唖然とし、膝から女が崩れ落ちる。
その間にも魔造巨兵の身体が抉られていく。
やがて全ての魔石を呑み込んだ邪神は、ローブの女へと寄っていった。
小刻みに身体を震わせ、手に負えない化物を呼んでしまったと後悔をする。
だが、後の祭りだった。迫りくる邪神は、彼女に『死』という罰を与えようとしていた。
「っ! 逃げろ!」
「え……?」
叫ぶピースの声が、彼女の鼓膜を揺さぶる。
その方向へ首を向けるが、腰から下がまるで動こうとしなかった。
皮肉にも彼女自身が『神』へ捧げられる供物へと、成り果てようとしていた。
「ああっ! もう!」
魔導刃を拾ったピースが、風の刃を邪神へ向かって放つ。
邪神の右側に向かって放たれたそれは、僅かに頭や肩を削り取る。
だが、興味が移るほどの衝撃では無かった。いや、むしろ邪神は自分の食欲に忠実な印象を受けた。
最も近い位置にある、自分の餌となる物体を求めているだけのようだった。
そして、現在はローブの女がその位置に居る。
「くっそ……!」
邪神の腕が彼女へと振り下ろされる前に、ピースが魔導刃で突風を起こす。
風が彼女のローブを斬り刻みながらも、邪神の手が届かない範囲に吹き飛ばした。
餌を食べそこなった邪神が、空を切った左手をまじまじと眺めるような仕草をする。
「つ……」
「それぐらいは我慢してくれ!」
全身を床に打ち付けた彼女は、苦悶の表情を見せる。
だが、軽やかに彼女を危機から救う術など持ち合わせては居なかった。
そして新たな問題が発生する。今の行動で、邪神と最も近い人間が自分になってしまった。
ひたひたと近付いてくる邪神。思わず逃げてしまいたくなりそうになる。
後ろ向きになる気持ちを奮い立たせ、若草色の刃を邪神へと向ける。
肩口から、袈裟斬りを試みる。肩を僅かな刀傷を作る事は出来たが、振り下ろすには至らない。
次の瞬間には、邪神の禍々しい左腕が自分に迫りくる。
慌てて身を屈め、それを躱す。邪神が喰っているのは、掌で掴んだからなのか、指先にでも触れたらアウトなのか解らない。
それを検証する方法も、度胸もピースは持ち合わせていない。
距離を置いて攻撃するべきだとは思うが、颶風砕衝ですら悪戯に邪神の餌となるだけだった。
「ねえ! 魔術で援護とか出来ないの!?」
駄目で元々、ローブの女へ助力を求めてみた。
しかし、彼女は身を小刻みに震わせながら首を振った。
「む、無理です。私は、魔石もなしに複雑な魔術なんて……。
しかも、こんなのに通用するものなんて……」
魔造巨兵を魔石頼りで、無理矢理動かしていた彼女に複雑な魔術は扱えない。
ピースは改めて、高名な魔術師は居ないという事実を思い知らされた気分だった。
「くそっ」
ならばと、ピースは出来るだけ大きな風の刃を生み出し、邪神へと放つ。
案の定というべきか、左腕に刃の大半は喰われてしまった。
だが、残った風が邪神の身体に小さな傷をつける。それ自体は、邪神も気にする様子は見せなかった。
状況が変わったのは、それから一拍置いてからだった。
「――!」
突如、邪神のマーブル模様。その中で黒に染まっている部分がより深い黒に染まる。
一体何が起きたのか、理解するより先に邪神が細い脚を高速で回転させてピースへと突進を仕掛けた。
「ええっ!?」
脚が折れて転げたなら、そのまま転がりながら突進をする。
その奇妙な光景にピースは面食らう。
慌てて逃げようとするピースだが、折れた邪神の脚が飛び散り、彼の身体へと打ち付けられる。
それでもこの場に止まる訳にはいかないと魔導刃の風を打ち付け、自分の身体を邪神から離れるように吹っ飛ばした。
「つう……」
悶絶する間も無く、ピースの視界が捉えたのは状況を打破する切っ掛け。その可能性だった。
そこにあるのは、石像。真っ黒な左腕が欠けた、人を象った石像だった。
邪神が顕現した際より、像が欠けているように見えた。
ピースが放った風の刃による影響。邪神を通り過ぎた風が、像に傷をつけていた。
それと同時に、邪神は怒り狂ったような行動を見せた。
だから、石像は弱点では無いのかと思った。
藁にも縋る思いだった。この状況を打破するには、石像に賭けるしかないと。
ピースは風の刃を思い切り、邪神へ向かって放つ。
黒い腕に喰われる事は構わない。隙が出来ればいいと思って、それを放った。
案の定、左腕に風の刃は喰われる。しかし、食べ終わった刃の延長線上にピースは居なかった。
少年は走っていた。石像に向かって。風の刃をぶつけて、壊すべく。
邪神もまた、目の前に居たはずの餌が居ない事に気付いた。
自分の石像を破壊しようとしている子供を目の当たりにし、身体を回転させた。
高速に身体を回転させることによって千切れたもう一本の脚。
それがピースの身体を打ち付ける。
「ぐ……あっ!」
頭から胸にかけて衝撃が走る。脳が揺さぶられ、肺からは空気を奪う。
走れなくなったピースは、その場に蹲る。
直後に感じたのは、『死』への恐怖だった。
転がりながら、邪神は自分へと近付いている。
身体はまだ動かない。もう駄目だと、ここまでだと、ピースは悟った。
「――!?」
だが、総てを喰らう左腕はまだ振り下ろされない。
恐る恐る、ピースは邪殺気のする方向を見ると、そこには地面へ縫い付けられるようにして動けなくなっている邪神の姿があった。
「――よう、無事か?」
そこには、銃を持った白衣の女性。蝋燭の淡い光でも、胸元にはっきりと影を作っている。
栗色の髪を後ろで纏め、尻尾のように震わせる。よく知っている女性が、そこに居た。
「マレット!?」
南部で会う約束をしていた女性。ベル・マレットの姿がそこにはあった。