86.浴室シンキング
小鳥の囀りが、朝を知らせる。
窓を開けると、新鮮な冷たい空気が部屋へと侵入してくる。
出来るならば布団へ踵を返して、温もりながら再度の眠りにつきたい。
しかし、そういう訳にもいかないと彼はグッと誘惑に耐えた。
ピースの朝は早い。
居候としてマレットの屋敷に住まわせて貰っているピースは、せめてもの礼として家事を受け持っている。
正確に言えば、マレットが一切やらないのでやらざるを得ないという事情もあるのだが。
誘惑に負けないという決心を示すために布団を畳む事から、彼の一日は始まる。
寝ぼけ眼を擦りながら、階段をギシギシと鳴らしながら降りていく。
道中には、マレットの作った発明品が転がっている事がある。
硬いものを蹴れば自分が痛い。脆いものを踏めば壊れてしまう。小さい物ならば、行方不明になる事もある。
どのパターンでも、マレットから大目玉を喰らうのが見えている。
注意力が散漫になっている朝。それらを避けるよう意識をする最中で彼は覚醒を果たしていく。
「あー。まーた寝てるよ」
一番広い部屋が彼女の研究室。換気の為だとか言って、彼女はいつも扉を全開にしている。
いつも視界に映るのは、机に突っ伏している彼女。
タンクトップの裾が持ち上がり、腰から肌が露わになっている。
マレットは熱中すると、いつもこうだった。
邪魔だからと白衣を脱ぎ、髪を纏め、一心不乱に何かと向き合う。
ある時は設計図と、ある時は原理を計算し、またある時は何かを組み立てる。
その集中を邪魔しないように、ピースは眺めているだけ。
不意に元の世界にいた時の事をアイデアに組み込みたいからか、席を外せば直ちに怒られる。
何か面白い話をしろと、無茶ぶりをされる事もある。
大体、テレビやゲームの話をしてやると喜んで聞いてくれたので可愛いものではあるのだが。
ただ、ピースもまた楽しみではあった。
フィクションの話だと言っても、彼女はそれに可能性を見出そうとしている。
実際に魔法がある世界なのだ、いくつかは似たような何かが再現出来るかもしれない。
その希望が、彼女なのだ。
「マレット、朝だぞー」
彼女の元に近寄ると、マレットの胸は机に挟まれて潰れてしまっている。
いつ見ても迫力満点なのだが、息苦しくはないのだろうかと考えてしまう。
「ん……」
「起きろってば」
声を掛けても、マレットは目を覚まさない。
これもいつもの事だと、ピースは肩を揺さぶって彼女を起こす。
纏められた栗色の髪が、尻尾のように揺れる。
左右に振られた身体も、双丘を支点として揺さぶられている。
いけないと思いつつも、どうしても目線が奪われる。
そこばかり見ていては、またからかわれてしまう。
解ってはいるのだが、本能が勝手に目線を釘付けにする。
「……なんだ、もう朝か」
寝ぼけ眼を擦りながら、頭を起こす。
ぼーっと、ピースの顔を見たマレットは全てを悟り、にやりと笑った。
「お前、また見てただろ。ほんと好きだよなあ」
ケタケタと笑うマレットに、ピースは返す言葉を持たなかった。
この女は、解った上で自分をからかっているのだ。
……*
「あー、目が覚める」
気の抜けた声が、浴室中に響いた。
ぬるま湯の湯舟に浸かったマレットは、身体を伸ばしながらゆっくりと覚醒をしていく。
ピースが風呂を沸かしてくれているので、朝風呂に入るのがすっかりルーティンとなっていた。
「おーい、ピース! お前も入るかー?」
「乗ったら乗ったで、また笑いもんにするだろ!」
からかうマレットに対して、庭で落ち葉をかき集めているピースが大声で返した。
せめてもの仕返しと言わんばかりに、庭掃除で集めた落ち葉や木の枝をこれでもかと窯の中に放り込む。
そのまま詠唱を破棄して生み出した微力な風を窯の中に生み出し、酸素を送る事で燃焼を加速させる。
ピースは魔術の修行の一環で、詠唱を破棄するための反復練習を行っていた。
アメリアの言う通り、使えば使うほどに頭の中ですっとイメージが出来上がる。
攻撃用の魔術はまだイメージが沸かないが、そよ風ぐらいは生み出せるようになっていた。
「なんだよ。いつもアタシが寝てる時はジロジロ見てるクセにさ」
「ジロジロは見てないわ! 第一、ちゃんと部屋で寝てないのが悪いだろ!」
ピースは反射的に否定をしたが、その声は上擦っていた。
美人で、グラマラスで、無防備なら見てしまっても仕方ない。
自分は悪くないと、訊かれても居ないのに自己弁護をしていた。
「なんだよ。毎日お前のは見てるからサービスしてやろうと思ったのに」
「ぜってぇ、ウソだ」
「ははは、よく解ってんじゃん!」
ピースはマレットに対して、遠慮がなくなりつつあった。
彼女が不要だと言ったのもあるが、その接し方に思ったよりもすんなりと慣れた。
元々の年齢が同じだったからか、元の世界の話を食い入るように聞いてくれたからか。
単に波長が合うからか。理由はどれだか解らない。
だけど、すぐに敬語は使わなくなっていた。
シンやフェリー、アメリアに今会ったとしても、敬語を使うだろう。
そういう意味では、マレットの存在はピースにとって貴重だった。
マレットにとってもまた、ピースの存在は貴重だった。
異世界から現れたという、自称自分と同い年の少年。
彼の話す言葉に嘘偽りはないと、マレットは本気で信じている。
自分にはない発想のものがポンポンと出てくる。
それだけでマレットは楽しくてしょうがなかった。
彼が語った中で多くは、作り物の話だと言っていた。
こっちの世界にも、眉唾物の神話や御伽噺はいくらでもある。珍しい話ではない。
しかし、かつて憧れたりもしたそうだ。実際、夢のある話だと思う。
出来るものなら、再現したいとさえ思う。
そして、そんなそこにも伝承のない作り話がピースの出自を結果的に証明している。
湯舟の中に浸かり、促進された血行が脳を働かせる。
お湯を掬い、顔を洗う。一擦りする度に、頭の中が冴えていくのを感じた。
ぽたぽたと顎を伝って落ちる雫が、また湯舟へと還っていく。
マレットには、ずっと考えている事がある。
それはピースが今の姿である事について。
とても36歳の姿ではない。そして、ピースはこうも言っていた。
自分の若い頃とは似ても似つかない姿だと。
髪の色も、瞳の色も、顔つきも、骨格すら違うと。
「なあ、ピース。お前、ホントに前とは全然違う見た目なんだよな?」
「ああ、そうだよ。前にも言ったけどさ、転生したなら見た目が変わってもおかしくないだろ?」
「それは、そうなんだけどさ。なーんか引っかかるんだよな」
彼の言い分も理解は出来る。一度死んで、今の姿に転生をした。
だが、腑に落ちない。転生したというなら、何故赤子からではないのか。
それが新たな人生をやり直すという事では無いのかと。
「ピース。転生する時の事、もう一度教えてくれ」
「ええ? またかあ?」
ピースは頭をポリポリと掻いた。
正直、何が何だか分かっていなかったし、あの時の記憶は日に日に曖昧となっている。
白い世界と白い人、自分も白かった。
今思うと、ただの夢だったかもしれないとすら思っている。
「ええと、なんか白い世界でぼやけてて。
何人かの白い人と挨拶をして――」
「それだ」
「……どれ?」
マレットはずっと考えていた。
ピースは、成長したのか、若返ったのか、止まっているのかを。
止まっている線は、日々の身体計測で除外している。
フェリーとは違い、ピースの身体は間違いなく成長している。普通の子供と同じように。
若返ったという線も、元の見た目と乖離している事から可能性は薄い。
なら、ピースの身体は今の年齢まで成長をした。そう見るべきだと考える。
そう仮定を立てた時、新たな疑問が浮かび上がっていた。
だったら、それだけのエネルギーはどこから与えられたのだろうか。
そもそも、転生なんて奇跡にそんな事を求めるのはナンセンスなのかもしれない。
フェリー辺りなら、きっと簡単に受け入れられるだろう。
シンなら少し疑って、答えが出ないから眉間に皺を寄せるだろう。
実際、この世界に奇跡なんていくらでもある。
だから、それを受け入れる事も自然な事だ。
だけど、マレットは疑いたかった。いや、その理由を少しでも解明したかった。
そうする事で、自分も更に前へ進めるような気がしているから。
ピースの話から、仮説を立てた。
転生をしたのは、ピースだけではないとしたら。
いや、こっちの世界に居るのはピース一人なのだろう。
ピースの代わりに、向こうで転生をした人間が居るとすれば。
魂を、それに準ずるものを交換したとすれば。
彼の中には、数人分のエネルギーが宿っている事になる。
交換した際に数人分の魔力と、そして残ったエネルギーが彼を強制的に今の年齢にまで成長をさせた。
向こうの世界では、魔術はおろか魔力すらないという。
それなのに、ピースに宿っている魔力は相当なものだ。複数の命が、再構築された彼の中で溶けあった結果なのではないだろうか。
「……なんてな」
マレットは湯舟に口を沈め、ぶくぶくと泡を出す。
我ながらピースの証言だけで、よくここまで妄想できたものだと感心をする。
検証のしようもないので、机上の空論に過ぎない。
「なあ、どれの事言ってんだよ?」
ただ、そうだったら面白いな。程度には考えている。
「気にすんな……って!」
「ちょっ……!」
マレットは窓を開け、庭にいるピースへ目いっぱいのお湯を掛ける。
「いきなり何すんだ! 後、不用意に窓とか開けんなって!」
「ガン見してる癖に、よく言うわ」
「そうなるから、注意してんだよ!」
動揺しているピースの顔を見て、マレットはケタケタと笑っていた。
「だったら、お前が見なけりゃいいじゃん」
「いや、それはその……。本能と言いますか……」
まごまごとするピースを見て、またもマレットは顔を緩ませる。
「いやあ、ピース君は本当にからかいがいがあるなあ」
「てめ……」
窓から入る風が、身体を冷やすのでマレットは窓を閉める。
残念そうな声を漏らすピースの声が、彼女の琴線に触れた。
再び湯舟で温まりながらケタケタと笑う声が、浴室に反響する。
それを聞いていたピースが、「絶対勝てねぇ」と呟きながら頭を抱えていた。