プロローグ
湖のほとりで向かい合う男女。
静寂な空間に張り詰めた空気が流れる。
刹那、乾いた音が周囲の空気を震わせる。
呼応するように水鳥がそれから逃げ出すように飛び立っていく。
少女の身体は崩れ落ち、零れだした血が地面に吸い込まれていく。
拡がっていく赤い滲みに視線をやりながら、男は深い溜息をついた。
……*
数分前に遡る。
少女の額に押し当てられたそれは無機質で硬く、触れた先の体温を奪っていく。
殺意を理解させるには十分な冷たさだった。
「覚悟はいいな?」
男は眉ひとつ動かさず、少女へ問う。
「早くしてよ、そんなのはいくらでもできてるんだから」
少女は臆することなく、額に当てられた銃口へ体重を乗せる。
覚悟はできている。と視線と行動で、男へと示した。
「弾が勿体無い。一発で終わりだ」
少女の挑発にも男は表情を変える事なく、淡々と言い放つ。
彼女の碧い瞳が瞼で覆われると同時に、男は引金を引いた。
……*
「あー……」
寝起きのような気の入ってない声を上げながら、フェリー・ハートニアは目醒めた。
まだ回りきっていない頭で最初にしたのは、自分の額を指でなぞる事だった。
頭蓋骨の形に沿って、きれいな局面を指の腹で滑らせていく。普段通りの滑らかな手触りだった。
「はい、いつも通り……っと」
先刻できたはずの傷が存在しない事を確認するが、彼女に動揺はない。
身体を起こし、腰までかかる美しい金髪に纏わりついた土埃を払い落とす。
「……んんっ?」
額とは違い、後頭部には違和感を覚える。指で擦るとボロボロと落ちていくので、破片をつまんで正体を確かめてみる事にした。
赤黒く、薄く引き伸ばされた膜のようなものだった。もう一度後頭部に手をやると、額の裏側を中心として髪に纏わりついている。
思い当たる節……というか、それしか考えられない。自分の血痕が乾いたものだった。
慌てて再び顔にも手をやると、ところどころ同じ膜が張られている事に気付いた。
「うへぇ、サイアク……」
貼り付いた血痕をゆっくりと剝がしていく。赤黒い欠片を落とすにつれ、元の美しい金色の面積が増えていく。
あらかた剥がし終えると、今度は背中の感触が気になりだした。
服と背中が張り付いているような感覚だった。
「まさか……」
髪を持ち上げ、湖越しに背中を確認する。視界の隅で捉えたのは、自分の服が髪と同じように赤黒く染まった姿だった。
鋭い目つきで辺りを見回すと、離れた位置から煙が立ち上るのを見つける。
髪をなびかせながら、フェリーは一直線に煙の方向へ駆けだした。
……*
シン・キーランドはしかめ面で焚火を睨みつけていた。
安物の薪を買ったとはいえ、こうも煙がばかり出ると目が痛くて仕方がない。
薪はちゃんとしたものを買おう。そう心に決めながら鍋をかき回していると、怒号にも似た叫び声が段々と近づいてくる。
「シーーーーンーーーー!!」
淑やかさの欠片も感じさせることなく、煙の向こう側から聞こえてくる声。
確認するまでもなく、フェリーによるものだと確信した。
「フェリー。起きたのか」
殺したはずの相手が眼前に現れても動じる様子はない。
むしろ、当たり前といった様子で彼女を見る。
「起きたのか。じゃ、ないわよ!」
一方のフェリーもそんなシンの反応はどうでもよかった。
そんな事よりも、優先したい事が彼女にはあった。
「コレ! 見てよ!」
髪を持ち上げ、赤黒く染まった背中を見せつける。
「血だな」
「血だな。じゃ、ないわよ!」
淡々としているシンにフェリーは苛立ちを積らせる。
「服が汚れないように頭にってお願いしたのに、そのまま寝てたら意味ないじゃない! ちょっとは考えて殺してよ!!」
「あのな、普通の人間は頭を撃った後に起きる事は想定していないんだよ」
建前でそう言ってみるものの、フェリーが起きる事はシンにとっては日常であり自然な事だった。
そもそも「服が汚れないように」とは言われていないのだが、言った言っていないの不毛な争いを避けただけの事だった。
「ウソだ! シンはゼッタイわかってやってる!」
シンは目を逸らす。それを、彼女の碧い瞳が追い掛けた。
「わかってたよね?」
無言の圧力が、シンを襲う。慣れたものなので、改めて何かを思うという事はない。
シンの眼前にいる少女、フェリー・ハートニアは不老不死である。
そして不老不死になった時からずっと、二人で旅を続けている。
少女というのもあくまで見た目の話であって、実年齢は26歳と立派な大人だ。
16歳で不老不死になった彼女はそこで見た目の成長が止まってしまっている。
ゆえに本人も子ども扱いをされると怒るのだが――。
あどけなさこそ残るものの、ぱっちりとした碧い瞳に艶やかな金色の髪。
客観的に見て、黙ってさえいればどこかの令嬢だと見間違うほどに美しい容姿をしている。
「もぉー……、服の替えあんまりないのに……」
ただ、見た目の方に言動や行動が引っ張られているのか、仕草を傍から見ると本当に見た目相応の少女にしか見えない。
そして、そんな彼女を大人として扱う事をシンの本能も拒否をしていた。
なんというか、成長していないのだ。見た目に引っ張られ過ぎているのか、ずっと少女のままなのだ。
「……なに? なんでジロジロ見てるの? ヘンタイ?」
旅のお供と目があっただけでこの態度。とても大人が取る行動とは思えない。
「別にジロジロ見てるつもりはない。それより、ほら」
「はい?」
シンの差し出した一枚の紙が理解できず、フェリーは首を傾げる。
「さっきの前金、まだ受け取ってなかったからな。さっさと払ってくれ」
シンが取り出したのは、殺しの依頼に対する前金の請求書だった。
「はぁぁあーっ!? あんな弾丸一発のお手軽な殺し方で、しかも失敗しておいてお金取るの!?」
「依頼は依頼だ。前金も実費分だけにしておいてやったんだからありがたく思え」
憤るフェリーを相手にする気はなかった。
こういう反応をする時、凡そ彼女の財布事情が原因だという事は理解している。
「いっつも失敗してるのに! オカネばかり取るのサギじゃん!!」
フェリーは指折り数えながら、失敗した回数を数えだす。
両手の指で足りなくなったところで、数える事を止めた。
「言い出したのはお前だろ」
「それは……そうだけどさぁ……」
フェリーは何も言い返せない。
殺しを依頼する度に、シンが方法を考えて一度自分を殺す。
前金は成否に関わらず支払う。もしも完全に殺しが成功すれば、残りの自分の財産を全て彼へと譲る。
それが二人の間で交わされた契約だった。
フェリーは最初に依頼した時の自分を恨む。まさかこんなに経費が嵩むとは思っていなかった。
お金がどれぐらい掛かるか、きちんと考えるべきだった。
いや、言い訳だ。本当は一日でも早く死にたかった。殺してほしかった。贖罪をしたかった。
「どうせ持ち合わせがないんだろ。弾丸一発にしてやったのを有難く思え」
フェリーの額に青筋が浮かぶ。
安い挑発に乗っていると理解しつつも、口に出さずにはいられない。
「はぁぁあーっ!? 払えますけど? 払ってやりますけど!?」
勢いよく自分の財布を取り出し、勢いよく上下に振る。
彼女の理想ではここから出てくるのは手のひらで抑えきれないほどの金貨や銀貨、なのだが。
中から出てきたのは二粒の木の実。強いて言えば殻が硬くて、当たるとちょっと痛そうだ。
二人の間に沈黙が流れる。
「え、えーっと……」
どうしてこうなったんだっけと、フェリーが今日一番の速度で頭を回す。
そうだ。昨日、ちょっといい感じの香水を奮発して買ったんだった。と自分だけが納得をする。
その時に財布が空になったもんだから、適当に拾った木の実を入れてみたりなんかして――。
「ってダメじゃんあたし!」
オーバー気味に頭を抱えてリアクションをしてみる。
シンの冷ややかな視線だけが突き刺さる。この男が、それぐらいで笑ってくれるはずが無かった。
「おい……」
シンが続けるより先に、言葉を遮る。どうせ言われることは判っているからだ。
「あーそうよ! お金がなかったわよ! 見ればわかるでしょ!?」
清々しいまでの逆ギレに、シンは呆れるしかなかった。
彼女の浪費癖を知っているので、全く予想していなかったわけではなかったのだが。
「それで、どうするんだ?」
シン・キーランドは殺し屋だ。
人に誇れる事をしている訳ではないが、約束は約束だ。
受け取るものは、きっちりと受け取るべきだと考えている。
「これでどう?」
物は試しで木の実を差し出してみる。フェリー自身は植物に詳しくないが、もしかすると貴重な木の実かもしれない。
「ふざけんな」
「ですよね……」
期待はしてなかったけれど、やはり無理だった。
「じゃあカラダで――」
恥じらい、顔を赤らめながら胸元に指をやる。
演技ではなく、やっている自分も恥ずかしい。悪ノリしすぎたと後悔している。
だけど、やってしまった以上は引き下がれない。
「ふざけんな」
「ちょっとそれは失礼すぎない!?」
だが、待ち受けるは拒否、拒絶。
さすがにそれは腑に落ちない。
成長こそ止まっているが、肉体年齢が16歳とは思えないプロポーションをしているという自負がフェリーにはあった。
となると、考えられるのは――。
「シン、もしかして照れてる?」
この手があったか。と、ほくそ笑む。
色仕掛けが有効なら、今後に使えるかもしれない。
自分が恥ずかしくても、シンが照れるなら実質的な勝利だ。
「前金、上乗せしてやろうか?」
「ごめんなさい」
どうやら逆効果のようだった。
相手の頭が堅すぎてこれ以上話を広げるのは危険すぎる。
とはいえ、状況は好転していない。
相手の心象を考えると、むしろ悪化しているとも捉えられる。
仕方がない。とフェリーは腹をくくる。
「あのう、シンさん……」
下出に出るように、上目遣いでシンを見つめる。
「そこら辺の賞金首をとっ捕まえるんで、どこかに寄ってください……」
自分の生業で、きちんとお金を稼いで払う。これしかない。
フェリーは情けなく頭を垂らした。
「……わかったよ」
元々目的地もない旅だが、こういった具合に寄り道をする事も二人の間では珍しくはない。
根無し草の生活に慣れてしまっている自分もどうかと思いながら、シンは温めていたスープを口に含む。
「あっ、あたしにも一杯!」
無事に寄り道の許可を得たフェリーが目を輝かせる。
安心したらお腹が空いたらしい。
「これもツケておいていいか?」
「ダメ!」
成長も餓死もしないというのに、タダ飯にありつこうとするふてぶてしさは大したものだとシンは感心した。
そんなシンの事など知る由もなく、フェリーは幸せそうな顔でスープを啜っていた。