王都観光案内(中)
主要登場人物
ナフィル・・・魔術師見習い。
アスリン・・・女性ながら騎士を目指す少女。
エイブス・・・護衛で雇われた元傭兵。
ビジット・・・同行を命じられた徴税官。
タウス・・・ビジットの護衛として雇われた傭兵。
ユーリ・・・「王都」の案内人。
ミュエル・・・魔術支援者でもある精霊。
観光2日目
「おはようございます。まもなく朝食の時間になります。皆様に集まって頂きたいとの事ですので、ご用意ください」
感情のこもらない、用件を棒読みしただけの抑揚の無い声で、タウスは目覚めた。
あまり寝たような気がしない。
ボゥッとする頭で、目の前の少女が、服装の乱れも無くきちんとして立っているのを見た。
さっきまで隣にいたのではなかったか、とも思うが、そんな様子は全く見られず、最初に会った時と同じ無表情のままだった。
昨晩は意外にも反応が無いわけでもなかったので多少興味がそそられたが、タウスは深入りは禁物だと自らに言い聞かせた。
取り合えず気は幾分晴れたし、理性的な判断を心掛けるような意識も芽生えた。
どういうわけか、この気の許せない「王都」では大らかな気持ちになってしまうのだ。
崖っぷちで羽目を外すのは、役目を果たすにも、命を守るのにも決して許されない。
全裸でベッドを抜け出す。
しかし、少女はそんなことを気にする様子も無くベッドを整頓し始めた。
「おはようございます」
不機嫌さを隠すことなく、ナフィルはミュエルの挨拶を無視した。
「差し出がましいとは思いましたが、お休みになられませんと体に障ると思いまして、少し眠っていただきました」
怒りを買うのを承知で、ミュエルは敢えてそう言った。
「・・・そう」
ナフィルは怒りはしなかった。
ミュエルの心遣いが分かるからではなく、そもそも怒りというものが湧かなかった。虚脱感だけがナフィルを満たしていたが、それは別に思い知らされたからではない。
もう、魔術師となって何十年経ったのだろうか?
自分が至らなかったために、自分の為に何人が犠牲になったのだろうか?
自分から進んで身を投げ打ってくれた人を守れなかった。
ナフィルを利用して一儲けをしようと考えて死んだ人もいた。
分かっているはずだ、と言う。
分かっていた。
自分の為に、死んで欲しくなかった。でも、自分の為に犠牲となった。
結果として、ナフィルに打算的だろうと献身的だろうとに関わり無く、犠牲となった。
一体自分は何のために魔術師になろうと思ったのか。
覚悟?
生きていくのに覚悟が必要だったろうか?
誰にだって、使命とか責務があったわけじゃない。
・・・そうやって逃げてきたのだ。
これが魔術師なのだ、とユーリは言いたかったのだろう。
犠牲も受け入れろ、と。
それは、言い換えれば犠牲を生まないことも出来たということ。
結局、全ては自分の行いの結果なのだ。
そのどちらをも受け入れるということは、人間には不可能だった。
「だって私は、笑って犠牲を受け入れるなんて出来なかったし、満足に守れもしなかった。未熟者って言わないと、私を頼った人をみすみす死地に追い込むことになるじゃない!」
ミュエルが部屋を出て行った後、ナフィルは一人、搾り出すようにうめいた。
「それはナフィルさま次第です」
自分の半身とも言えた友人は、昔そう言ってナフィルを困らせた。
もし自分の身に何かあれば、それはナフィルの責任だと、そんな勝手なことを言った。
自分で望んで付いて来るというのに、そんなことを言うのだ。
だが、それは別に責任を取って欲しかったわけではなかった。
ある意味、彼女の方が自覚していたし、覚悟があった。
逃げないで欲しいと、迷わないで欲しいと、その思いを、無視してきた結末が今なのだった。
全てを背負い込むことは無い。
それが傲慢であると分かっていた。
自分のために死んだなどと、それではその人はナフィルの犠牲になるためだけに生きていたのかと言えば、そうではないはずだった。
「割り切れなくて良いのよ。その不確定さが、満たしきれない想いが、あなたを魔術師として神秘を成さしめるのだから」
ユーリが戸口に立っていた。
「過去には戻れないし、今更魔術師であることも捨てられない。そうでしょう?」
どこか醒めた微笑みをして歩み寄る。
「後悔というものは立ち止まって昔を振り返ることよ。ナフィルはそれらを無視して前には進めなかった。それで良いじゃない。ナフィルは他の魔術師よりちょっと背負うものが多いだけなのよ。今は前を向いて歩いているでしょう?」
「・・・望んでしていることじゃないわ」
「あら、今更それは無いわ」
と、殊更残念そうに言う。呆れたわけではなく、いくらか勝気なところを評価したように思えた。
「死者はどうしようとも還ることはありません。それに囚われ続けることは、全てを無にしてしまいます。例え間違いがあったにせよ、遠回りをしたにせよ、今までのもの全てが無に帰してしまう。お気に触るかもしれませんが、それは私には望んでも得られないとても大切なもののはず。捉えようを違えれば、当然という傲慢にもなりましょう。それでも、ナフィル様が苦しみ抜いてでも先にお進みになるのであれば、私はお助けしたいと思います」
ミュエルも、いつの間にかユーリの隣に立って言葉を繋げた。
ユーリが頷く。
「犠牲を厭わない、当然と思うようになるよりは良い事よ。エルバイオのようにね。ナフィルはそう思いながら一歩ずつ前に進めば良いの。魔術師であることに拘らない魔術師にね」
ナフィルに思索的な表情が宿る。
「エルバイオ・・・彼は、どうしたの?」
ユーリは表情を変えない。
「後で教えるわ。いえ、隠してるわけではないのよ? いずれ知ることになるだろうし。ただ、それを今いっぺんに教えれば、昨日の様に同じ価値基準が暴走して処理しきれなくなる。魔術師は努めて冷静に理解をし、判断をする。そうしないと魔術を成すことが出来ない。そうよね?」
ナフィルは小さく頷いた。納得したというよりは、不承不承という感じではあったが。
「それよりも気にかかることがあるけどね」
ユーリはそう言って、ミュエルに同意を求めた。
ミュエルが少し困ったように、しかし曖昧な微笑みをしてみせる。
ナフィルが怪訝な顔を一瞬見せた。
「さあさあ考えたって堂々巡りになるだけよ。ナフィルが魔術師である以上、進まざるを得ないし、それを良くするも悪くするもあなた次第。そして、今すべきことは、まずは朝食よ。行くわよ?」
しかし、ユーリが時間を蹴り飛ばして、部屋を出て行った。
ミュエルがベッドに座り込むナフィルに手を差し伸べる。
「私のこの手は、私の自ら望んだ心遣いに過ぎません。さ、遠慮せずお手をお取り下さい」
ユーリが言えば嫌味に聞こえそうな言葉に、ナフィルは少し不貞腐れたように装って、手を差し出した。
食堂の前で、不安と心配で表情を彩らせたアスリンが待ち受けていた。
「おはようございます。あの、大丈夫でしたか? ・・・顔色がお悪いですよ?」
「・・・あなたもね」
挨拶もそこそこに、互いにそんなことを言っていた。
言いたいことの殆どが言葉として出なかったが、それで通じ合えたのか同時に顔を綻ばせた。
朝から険しい、と言うよりも疲れたような顔をしていたのは、別に二人だけではなかった。
先に来ていたビジットが、当事者であるナフィルと変わらないような深刻な顔で座っていた。
「どこかお加減が宜しくないのですか?」
アスリンの気遣いに、
「いや、夢見が良くなかっただけだ」
と、愛想無くビジットは言って押し黙った。
すぐエイブスとタウスもやってきたが、この二人の傭兵は表面上は平静を装っていた。
「それではお食事にしましょう」
明るい溌剌としたミュエルの音頭で、給仕がスープを配る。
パンに燻した一切れの肉、果物のような実が二つ、そしてスープ。
並ぶものを一通り眺めて、エイブスは妙に落ち着かないものを感じた。
食事が始まってまもなく、
「この王都には王国の中枢機関があるだけなのだけど、実は二つ、魔術師が使う公共施設があるの」
と、ユーリが話し始めた。
「幻獣博物館と呼ばれている王国標本資料館と、もう一つが無限書庫と呼ばれている王国記録図書館。いずれも封印と収集を目的としたものなのだけど、今日、ナフィルにはそこに付き合ってもらうわ」
覚悟していたわけではないが、ナフィルには拒否権が無い。頷くしかなかった。
「私も行って宜しいですか?」
すかさずアスリンが問うた。
その顔が余りにも真剣なので、ユーリは少し表情を和らげた。
「それは構わないけど、付きっきりというわけには行かないわよ? ナフィルにはある程度危険な目に遭ってもらう事になるでしょうし」
ナフィルとアスリンが、顔に未知の不安を覗かせた。
「俺たちも付き合わないといけないのか?」
タウスがお代わりを要求しつつ、アスリンとは逆の意向を問う。
「ここから出れなくても良いならね。まぁ見て面白いのはそんなに無いけれど、せっかくだから付き合いなさいな。人間が見られる機会はないのだし」
「危険は無いのか?」
エイブスはタウスを少し制するように問い質す。
「ここにはね、人間にとって危険でないところは無いのよ。ま、あったとしても学院の牢獄よりはマシよ?」
と言って、ユーリは挑発するように微笑んだ。
本人は冗談のつもりのようであるが、全く分からないので笑えない。
「学院の牢獄はね、教団が良く言う地獄をもっと酷くした現実よ」
ナフィルがポツリと漏らす。
エイブスとアスリンは奇妙に表情を歪めたが、それが笑っているようにも見えた。
結局、皆付いて行く事になった。
意外だったのは、ビジットが全く異を唱えなかった事だ。
しかしそれ以上に、ビジットの表情が優れないことが、アスリンには気掛かりだった。
魔法王の塔を挟んだ議場とは反対側に、三角形をした小さな塔があった。
「ここが図書館よ」
そう言われて、少し違和感を感じる。
無限書庫と呼ばれる建物は、到底メルキス学術院の図書館には及ばないほど小さかった。
いや、そこは先ほどの迎賓館よりも小さかった。
「小さいな」
素直に感想を述べるエイブスを、ナフィルは咎めはしなかった。
「魔術師にとって、大きさになんて意味は無いのよ」
ユーリは、変わらぬ軽やかな足取りで先に立って扉の前に立つ。
5枚の扉が並ぶ変わった入り口である。
と、その一つが自然に開いた。
中から姿を現したのは細身の知的な顔をした若い男性である。
「お待ちしておりました。ユーリ様、そしてナフィル様」
男はユーリと、そして正確にナフィルに向けて頭を下げた。
「紹介するわ。この記録図書館を管理する精霊よ。保守・保安係のシュエトー」
「初めまして」
青い瞳を持つ見た目二十代の男の姿をした精霊は、ミュエルよりも格式ばってはいるようだったが、全く人と変わりが無いように見えた。
「ここには膨大な量の知識が蓄えられているの。だから、普通は一体宛がわれるところを、ここには二体の管理者がいるのよ」
シュエトーの後ろから、同い年と思われる女性が姿を現した。
「保全・案内係のルセリよ」
「良くいらっしゃいましたナフィル様。収蔵されている知識を管理するルセリです」
同じ青い瞳を持つ女性は、ミュエルに比べると大人びて見える。
「シュエトーが図書館という器を、ルセリはその中身を守っているのよ。ここは王国創設以前から知識の蒐集をしていた半神半人ルセリナ・シュエトールが作り出した限定的な混沌の渦。虚無に陥る底の知れない知識の泉。初代管理者はルセリナだったけど、その後はシュエトーとルセリが管理者になってるの。この図書館もその知識によって拡大や変革を必要としたから、彼らは三代目になるわ。ルセリナを入れると四代目ね」
「基本的には変わっておりません。知識としての記憶は引き継がれておりますし、ユーリ様とも古くからの顔見知りです」
ルセリがそう言って微笑みかける。
しかし、ユーリは渋い顔をして手を払って、
「元々の記録には全く意思も意図も無いけど、悪意を持って使えば人を不快にさせるという事を教えてくれるわ」
と言うと、
「だからと言って、記憶を覗いて良いという事ではありませんよ?」
とルセリに逆に釘を刺された。
「そんなところなのね」
ナフィルが嘆息する。
使い方を誤ったり、知識そのものが危険であると言うことだろう。
「外ではなんですから、とりあえず中へどうぞ」
シュエトーが全ての扉を開く。
「一人ずつ通る毎に調べられるようになってるのよ。ここは非常に危険で、大事なところだから」
ユーリがシュエトーのエスコートを受けて入る。
「危険が無いように、私がご案内いたします」
ルセリがユーリの植えた懸念を打ち消すように、優しく微笑んで中へ入るように促した。
入ったところが1階かどうかは不明だが、そこは広いホールになっていた。
「本は無いな」
「そういうことは一々口にしなくて良いわ」
エイブスに呆れたようにナフィルは言ったが、このホールには他へと通ずる扉も階段も無い。
「それでは、この記録図書館のご説明をいたします」
ルセリがユーリと視線を交え、ユーリが頷く。
「ここは4区画に分かれています。今居る管理区画、蔵書を保管する書庫区画、魔導書などを所蔵する封印区画、そしてあらゆる知識が集まる記録区画です。この図書館の役割は、文書や書籍の収蔵だけに留まりません。禁呪や自律する守護者精霊を持つ魔導書の管理と封印、そして無限に広く、深く、繋がって結び合った世界の記録が蒐集される虚無へと至る魔力の渦の観測です」
ルセリが説明をしながら床を指差す。
方陣と円陣からなる複雑な魔法陣が描かれている。
「ここから移動しますが、全て閲覧制限がかけられています。閲覧には私の許可と、シュエトーへの誓約が必要です。いかなる魔術行使も不可能となり、全ての行動は監視されます」
「扉を抜けてここに入った段階で、私たちの上に、全てを律する倫理設定が成されるの。それを拒めばもちろん入れない。王国の管理下にはあるけれど、魔法王でさえ自由には使えないし、そもそも入ることも叶わないわ。管理者精霊は、その境界を管理するために造られたものよ」
ユーリの言葉を受けて、ルセリとシュエトーが微笑みながら頷いた。
ナフィルの表情が強張る。
そして背後の皆を肩越しに一瞥した。
「さて、今更言うのもなんだけど、ナフィルには知識が必要よ。知識が無ければ魔術行使が出来ない。自明の理でしょ? でもね、それは逆にナフィルに制約を科す事にもなるわ。空から落ちれば死ぬ。そのことを知れば飛ぶのに躊躇するし、もしかしたら飛ばないかもしれない」
ユーリはそう言ってから、頬を緩めた。
「これも一つの可能性。私は強制しないつもり。だけど、このままではあなたの求めるものは叶わない。得るということは、一方的に得られるというものではない。失うものも多いわ。でも、得たことでこれまで失ってきたものが失われないように出来るかもしれない。抽象的なことしか言えないけど、ナフィルなら分かるはずよ」
これまで迷ってきた想い。それが、これで迷わずに済む、と言う事ではない。
「私は魔術師だと言いながら、そう覚悟して生きてきたわけではなかったわ。人間に決別すると言いながら、どこかで人間であろうとした。失敗しても、誰かを犠牲にしても、そうやって逃げてきた」
ナフィルが手にする杖を掲げる。
ナフィルが魔術師になることに反対し、ナフィルが魔術師となった今を知らないままこの世を去った師、リシュエスのくれた魔力干渉を助ける杖。
「私は魔術師になろうと思った時、この杖に誓ったのよ。例え魔術師になったことで、どんな苦難があろうと、仮に死ぬようなことがあっても、絶対に後悔しない。他人のせいにはしない。リシュエス師の想いを裏切った私は、それで師への想いに応えようとした。これが自分の決めた生き方だと」
心配そうに見守るアスリンに、ミュエルが小声で、
「大丈夫。ナフィル様はあなたの知っているナフィル様のままですよ。必要な知識を得たとしても変わらない。それはルセリも私も保証します」
と言って肩に手を添え、そしてナフィルの脇へと歩み寄って行った。
「やるわ。そのために来たのだし、そもそもこれで全て得られるとも思っていないわ」
そう言ったナフィルに応えて、
「これからご案内する世界の全ての知識、記録が集まるところは、原初の混沌と同じものです。理解することはもちろん、そこにある全てを得ることは不可能です」
とルセリはそう言って、少し表情を引き締めた。
「そこは膨大で雑多な知識の海。僅かに干渉し、必要なものを取り出すだけでも極めて難しいのです。私がお手伝いしても、その知識の魔力によって破滅させられたり、逆に取り込まれてしまう危険があります。最短の道を選び、得ようとすれば伴うものはその代償」
代償と言う言葉に、ナフィルが反応する。
ナフィルの決意に僅かだが揺らぎが生じた。
「正しい知識と言うものはありません。でも、知識を正しく使うことは出来ます。多少怖いお話をしましたが、安易さや手軽さという心構えで触れてはいけないものであると、説明しなくてはいけない義務なのです。危なくなれば私がお守りします。魔術師をお助けするのが私たちの仕事ですから、ご安心なさってください」
どこかで確かに知っている穏やかな微笑みを湛えて、ルセリは言い切った。
信じて良いものか、ナフィルはユーリを見る。
しかし、すまし顔でそれに応える気はないようだった。
先程の言葉通り、ナフィルの決断に任せると言うことらしい。
ここまでお膳立てをした本人ではあるが、強制をしないと言うのは本当らしかった。
ユーリは、する気があればしていると言っていた。
あの、魔術師エルバイオの時のように。
決意の揺らぎは、再びルセリに視線を向けた時には消えてなくなっていた。
「さて、それでは参りましょうか?」
ルセリが魔法陣に入る。それだけで薄い輝きを放って稼動状態に入った。
「私が鍵になっています。実際には起動装置の一部なのですが、それによって最高度かつ最強度の安全対策が成されています。さ、中へどうぞ」
ナフィルが、警戒を解かずに、少しあごを引いて俯きながらも、上目遣いでルセリの前へと立った。
「ミュエル、頼むわね」
ユーリの言葉に、ミュエルが応じてナフィルの左横に立った。
「私が支えますから、ナフィル様はご自身のことに集中して下さい」
そう言って、左手を取って指を絡めるようにして握った。
同じ背丈なので、目の前のその他意の無い微笑みに少し心が安らいだ。
「あ、お時間の事、ご説明なさってくださいね。それでは場所を移します」
とルセリが言うと、魔法陣が一瞬光を強くして、三人は溶け込むように消えた。
「さて、それほど時間はかからないから少し待ちましょうか」
独り言のように、ユーリはそう言った。
「本当に、大丈夫なのですか?」
アスリンが、少し険の立った言い方をしてその背に向かって問う。
「あの2体の精霊は、能力としてはナフィル以上よ。ナフィルの願いが叶うかどうかは分からないけど、危険が及ぶことなんてないでしょう。全く、とは言い切れないから、あなたに確約は出来ないわ」
ナフィルが自分で決めたこと。
仕向けたとは言え、これはナフィルの最も望んだことだった。
しかし、何かが引っ掛かった。
これが、エイブスの気に掛かったものと同じなのかは分からない。
「どれくらい待つのだ?」
エイブスが手近な椅子に座る。
タウスやビジットもそれに倣った。
「時間はさほどかかりません。世界の記録に触れるには、一定の時間がかかります。例えば用が多くても少なくても、全く同じ時間が必要なのです。あの空間は、この世界の理とは交わらないところなのです」
シュエトーがユーリに代わって説明をした。
「それは、・・・私たち人間では触れられないものなのか?」
ビジットが、床に視線を落としたまま、そう漏らした。
皆の視線が集まる。
誰も声を掛けない。それだけビジットの言葉が意外だった。
「そうね、稀に叡智を授かった、なんて話を聞くわね。人間で言うところの啓示、と言う奴かしら? でも、自分から触れられはしないわ。その知識の奔流に、良くて自我を奪われて発狂、悪ければ肉体ごと粉砕されるわね。魔力と言うのは、つまるところ暴力だもの」
ユーリが人間に説明をするということに、シュエトーが僅かに驚いた様子を見せた。
ビジットの問いに驚きつつも、アスリンはシュエトーのその反応にも驚いていた。
魔法や魔術を認めると言うことは、それを理解出来ないものとして見るのではなく、自分の理解できるものとして認めることだった。
その精霊に、自分と何が違うのかが分からない。
存在を認めると言うことは、人とは違うと言うこの精霊を、同じモノとして認めると言うことなのだろうか?
ビジットとシュエトーとの間にある境界線は、一体何なのであろうか?
アスリンには何を区別すべきなのか分からなかった。
身動ぎさえ無い時間が、ここに居るべきでは無い人間たちを支配した。
それが、最善の選択だった。
が、しばらくして静寂を破って突然、
「叡智が、欲しいの?」
と言ったユーリの優しいささやきが、言い知れぬ畏怖を、4人に与えた。
真っ暗闇だった。
「ここは?」
ナフィルが闇の中で問う。
声の通りが良い。かなり広い空間のようだ。
左手に確かな温もりがある。しかし、顔を左に向けても、ミュエルの姿は見えなかった。
「図書館の記録区画。ここは世界の記録が蒐集される虚無へと至る魔力の渦の中。感じて下さい。ゆっくりと、本当にかすかな流れを掴める筈です。そうすれば、私の姿も見えるようになります」
ルセリの声が周囲から聞こえる。
どこから聞こえるのか特定できない。
ただ、地面はないが、水中にいるかのような不安定さはない。
見上げればそこが上。足元が下。混乱はしなかった。
ゆっくりと深呼吸をする。
自分が居る所は、ルセリの作り出す小さな結界だった。そして、その中で安定を保っていられるのは、ミュエルのお陰だった。
その外に、濃い魔力があった。
無垢な魔力ではない。干渉を拒む理解不能な方向と力を持った魔力。
「御自分がどこに居るのかを測ってはいけません。自分を見失うと、雑多な記録に影響されてしまいます」
ミュエルが握る手に少し力を加えた。
魔力の僅かな違い。魔術師個人の差異。
それを区別できるようになると、闇が薄れて数歩先に居るルセリの姿が見えた。
巨大な洞穴の中に居た。その中心に、ナフィルたちは浮かんでいる。
「これが、世界の記録?」
ルセリが首を横に振る。
「見えているようでも、実際には目で見ているわけではありません。形も大きさも、色でさえ無いところです。感じる魔力から来るイメージでしょう。ここは全てでも一部でもありません」
言わんとしている事は分かる。
「じゃ、毎回見えるものは違うの?」
ルセリがまた首を横に振った。
「私には見えません。ミュエルはどうかしら?」
ミュエルも首を横に降る。
「偽りの魂は根源とは繋がらないのです。故に、私たちにはそれを『見る』事が出来ません。生まれついて持つ魂だけがそれを可能とするのです」
と、この空間で、ナフィルには到底叶わないことをしてのけているルセリが言った。
そのことに、ナフィルは我慢できなかった。
「どうして、そんな顔をするの?」
ナフィルは先程感じた違和感をルセリにぶつけた。
ルセリは一瞬呆気に取られた顔をした。
「あなたは精霊なんでしょう? 造られた偽りの魂を持つ生命体。なのに、どうしてそんなに情感的な微笑みが出来るの?」
ルセリは、気分を害した様子も無く、先程と同じように微笑んだ。
「そうですね、仰るとおり元々感情と言うものを持ち合わせてはいません。しかし、その気持ちは決して偽りではありません。これはナフィル様の感情を写したものです。私たちは、想いを重ねることによって、感情としているのです」
「写しているって・・・私は別に楽しくは無いわ」
ルセリは少し眉根を寄せて困った顔をした。
「鏡のように映すのではありません。ナフィル様の持つもの、ナフィル様の記憶にあるものを受けているのです。それはまやかしと思われるかもしれませんが、私たちにとってはこれがあることによって、支援者足り得るのです」
記憶にある微笑み。
そうだ。この微笑みは、自分の中にあったものだ。
どこかで見たはずだった。しかし、であればそれは見せ掛けに過ぎないのではないか?
「じゃ、ミュエルも?」
傍らに居るミュエルを見る。
「ミュエルは端末としての意識、つまり使命を持つ精霊ですが、私たちとは異なります。それは魂に準じたもので制約として抑えられているだけに過ぎません。つまり、同じように想いを重ねることしか出来ませんが、端末としての意識と人の魂が融合した、人に近い複合精霊なのです。吸収して成長し、それは限りなく人に近付きます」
ミュエルが少し照れくさそうになる。
その微笑みも、造られたものではなかった。
写している感情は偽りではなく、確かに感情としてあるものだというのだろう。
「ナフィル様は感情も作り出せるのではないかとお思いになったのでしょう。確かに、それに近い擬似的感情を持たせることも出来ます。ただ、それでは魔力への干渉は出来ません。手順に従えば、精霊であっても魔術は行使できます。でも、それでは魔術師はもちろんのこと、魔術師の支援者にはなれないのです」
ルセリがふわりと、ナフィルの目前に浮かぶ。
微笑みを消し、両手をナフィルの顔を挟むように添えた。
「ここで触れられる知識は、本当にささやかなものでしかありません。ナフィル様がその中から、御自分に必要なものを掴むのです。危険が無いとは言っていますが、それは極めて制限を厳しくしているからです。その加減ですら、今のナフィル様には出来ないのです。御自分がどうして魔術師足り得るのか、その答えは私たちにはありません」
考えを、見透かされていた。
感情が付け加えられるならば、知識もそう出来るのではないか? と。
これは嫉妬だ。
自分より優れている彼女たちが、ナフィルを助けている。
にもかかわらず、それでも、ナフィルの方が優れているのだと言いたいのか?
苦しんだり悲しんだりすることが必要なのだと言いたいのか?
「ナフィル様、まずは心を落ち着けてください。冷静に、と言うのは心を凍てつかせることではありません。その豊かな感情を、一時的に一つに澄ませるのです。思考を切り替える、と言うことです。全ての感情を封じてしまうと、記録に触れても多くのものを得られません」
自分たちに無いからそんな無茶なことを言うのではないのか?
ナフィルは素直には受け取れなかった。
「不信感を与えてしまったでしょうか?」
少し間を置き、ルセリがその微笑みを陰らせた。
「しかし、誤魔化すことは無意味です。どう解釈をしても事実に変わりはありません。ようやく魔術師の常識というものに触れたのです。混乱されるのは当然のこと。それよりも、今大事なことはナフィル様にとって必要な知識を得ると言うことです。それはナフィル様も分かっています」
そう、ナフィルに確認もせずミュエルは言い切った。
と言うより、そこまで言い切られたら、ただの駄々っ子のようではないか?
そう思いながらも、ナフィルは憮然とした表情を崩せないでいる。
「私たちに与えられる知識は、魔術行使に関してのものも含まれます。それは、ナフィル様よりも高位な魔術である可能性が高いです。でも、ナフィル様は御自分でそれを理解し、高めることができるのです。与えられたに過ぎないものは、それ以上には成りえません。記録を記憶とするには、御自分で、この世界の記録に触れてみるしかありません」
そうルセリが言った後、ミュエルとの二人の間で奇妙な同意が交わされた。
二人の意見は根本的な部分で一致していた。
その理由は、
「いずれにしても、必要であれば外で説明しましょう。良く思われたい努力はしますが、どう思われるかはナフィル様次第です。それより、ナフィル様が余り長いことここに居るのは好ましいことではありません」
と、ナフィルへの影響を危惧してのことだった。
「まず、少しだけ触れてみましょう」
ルセリが再びナフィルの頬を挟むように両手を添えた。
そこに、僅かな躊躇があった。
ナフィルを想う気持ちと、そして拒否されることへの恐れがあった。
それは、ナフィルのよく知る感情だった。
二人のナフィルを気遣う意識に触れ、僅かに警戒心を解く。
その時、ザッと一瞬自分の意識が消えた。
自分のものではない何かが頭を満たす。
それは、雑多な記録によって満たされた干渉できない魔力、であるはずだった。
なのに、今、自分の中身が何かに置き換えられている?
「ナフィル様?」
ミュエルの声に我に返った。
「今、私がある程度選別したものを、ミュエルが調節してナフィル様に感じてもらいました」
その言い様に、ナフィルは背筋に悪寒が走った。
自分は今、一体どうしていたのだろうか?
「ナフィル様、一つだけ、その深く想うもので、自分を満たしてください」
「どういうこと?」
ミュエルが真剣な表情で、ナフィルの耳に唇が触れるほど近付いて、
「御自分に必要な知識、求めるもので満たすのです。そしてそれに近い感じのするものを取り込むのです。選ぼうとするのではなく、ただそれに近い感じがあれば触れようとする感じです」
と、早口で言い立てた。
「もう一度、行きます」
ルセリが微笑みを消した。
とても端整な顔立ちをしていて、その美しさだけは造られていてもおかしく無いと思った。
再び、とても濃い魔力に触れる。
落ち着いていたせいか、さっきよりも確かに様々な要素が混在しているのを感じられた。
ナフィルは、リシュエス師を自身に置いていた時を思い起こしていた。
その時、ナフィルは確かに、リシュエスの記憶を共有していた。
殆どの知識は、ナフィルには理解出来ないものだった。
ただ、リシュエス師が強く想いを寄せていた二人の女性を、ナフィルは自らのものとして強く意識した。
ラウアール家の当主にしてシルクス太守である相思相愛のクリアンカ姫。
母であり姉であり、そしてリシュエスを深く愛していた従姉である白き魔女ルミナス。
ナフィルが、師の意思に反して魔術師になることを決したのは、リシュエスの遺志を継ぎたかったからだ。
それは自分のものではない。知っていた。でも偽りでも幻想でもない。
その記憶は確かに自分のもの。でも、自分では満たせないもの。理解できないもの。
時々、ナフィルの意識を刺激するものがある。
それが自分にとって必要なものなのだろうか?
霧に包まれた漠然としたものが、自分の中にあることを強く意識した。
その感覚が強くなり、何かが形になり始めた時だった。
「ルセリ、危険です! ナフィル様に拒絶されると抑えられません。意識が掴めなくなります」
と、ミュエルが声を上げた。その瞬間、カッと頭の中が熱くなる。
「申し訳ございませんっ!」
と、ルセリがとても驚いたような顔をして謝った。
知覚が奪われていたかのように、見るもの聞くものが強い刺激となってナフィルは顔を歪ませた。
「大丈夫でしたか? 思わず無理やり引き剥がしてしまいました」
ルセリがその申し訳なさを全力で表情に現していた。
「驚きました。順応性がこれほど高いとは思いませんでした。私の力不足です。申し訳ございません」
ミュエルも謝っている。
その繋ぐ手が、しっとりと汗ばんでいた。
最初、自分の汗かと思ったが、自分は奇妙に落ち着いている。
アスリンは、来た当初に自分とナフィルの違いが分からないと言って苦笑したが、ナフィルも今、自分とミュエルに何の違いがあるのか分からなかった。
だからこそ、同じ魔術師として嫉妬したのかもしれない。
自分より慌てているミュエルを見て、場違いにも少しだけ優位な気になった自分に、ナフィルは自嘲気味に頬を緩めた。
「どうでしょう? 明確な何かを感じられましたか?」
ルセリの言葉に、ナフィルはだが表情を消して首を横に振った。
「良く、分からないわ。何をと言われても、言葉として表されるようなものは何も・・・」
「戻りましょう。形として残っていなくとも、ナフィル様は確かにこの知識の海に触れています。あの順応力ならばきっと得られています」
本人でさえ分からないものをどうしてそう言い切れるのか不思議だ。
しかし、思えばナフィルとは意識を共有している風であった。
能力としては高いミュエルの言葉を、ナフィルは信じるしかない。
ルセリが、しばし自身の思考の迷路を彷徨ってから、
「それでは戻りましょう」
と言ってすぐ、
「適応、ではないのですね?」
と聞いた。無論、それはナフィルにではない。
ミュエルは悲しげでさえある厳しい表情をして、
「順応です」
と言った。
そっけない、どうにも出来ない現実を告げる、それは諦めにも似た言い方だった。
その言葉の違いがどういう意味なのか、ナフィルには分からなかった。
が、説明を求める前に3人は再び闇の中に溶け、そして重力に引かれるような浮揚感を感じた時には、既に地に足を付けていた。
「ナフィルは?」
ミュエルは穏やかな微笑みをして、
「眠って頂きました。目覚めれば落ち着いているでしょう。結局、落ち着くところにしか落ち着けないのです」
と、まるで自分ごとのように言う。
その様子に、ユーリはミュエルの変化を見て取った。
「結構気に入ったみたいね?」
少し意地悪っぽく言ってみる。
「反対されるのですか?」
意外そうに、ではなく、むしろ受けて立つ雰囲気の言い方。
ユーリは満足げに微笑んで、
「私が選ぶのではないし、あなたの好きになさいな」
と、自分から振っておいて、その話題を放擲した。
「シア様、ナフィル様は王国の魔術師にはなれないでしょう。生まれついて魔術師に備わっている、存在としての戒めや理を持たないからです。しかし、何より彼女は自由です。全ての頂点には立てなくとも、ある特定分野なら極める可能性があります」
ユーリは、これまで見たことのない表情をして、自らの使命を語るミュエルを見た。
「求めているものに近い存在だと、『私』が告げています。足りない部分を私が埋めます。でも、埋めすぎてはいけません。人との繋がりがありすぎてはいけません。でも、離れすぎてもいけません。私にはその加減を測るのは少し難しいですが、それに挑むということが、存在するものとしての面白味、と言うものなのでしょう?」
「中々分かってきたじゃない」
ユーリは自分の不利を悟って降参した。
ナフィルの思考に影響を受けて、神樹の端末は、精霊としてではなく、生物としての意識を芽生えさせたようだ。
これまでユーリが与えてきて芽生えなかったものが、ナフィルに会ってものの一日でこの結果。
ナフィルがどれだけ特別なものなのか、ユーリは自嘲もあったが、その愉快さに相好を崩した。
「まるで魔術師にはそぐわないのに、魔術師になったことが最大の特徴よ。これほど特殊でない魔術師は、もう決して生まれないかもしれないわ」
ユーリの言葉に、少し紅潮気味の顔をしてミュエルが僅かに頷いて同意する。
「でも、ナフィルが認めるかしらね?」
意地悪で言っているのではない。ナフィルのいる環境は、魔術師には馴染まないものである。
「大丈夫でしょう。私が居るくらいでは、ナフィル様は動じたりはしないと思います」
中々に自身ありげにそう言い切る。
過去を見ることが出来るユーリが、少し評し抜かれた顔をして、思い浮かんだ疑問を口にする。
「もしかして、寝かせてから何かした?」
ミュエルは、含みのある艶やかな笑みをこぼして、軽く顔を横に振る。
「長所は短所、ですよね?」
ナフィルらが再び魔法陣に降り立った時、明らかに皆の雰囲気が妙だった。
緊迫感というか緊張感というか、張り詰めた空気を感じたのだ。
そうなれば当然のこと、ナフィルは自分のことはさておいて、まず尋ねずにはおられない。
「何か、あったの?」
アスリンは答えようが無く、困った顔をしてナフィルを見るしかなかった。
「別になんでもないわ」
それがたちの悪い冗談だったと言わんばかりに、ユーリは何の気もなく軽く応じた。
ナフィルは納得した様子も無く、その表情は晴れないままだ。
「それよりどうだったの? 手に入れられたのかしら?」
ルセリがミュエルを見る。
ナフィルも、ミュエルを見るしかない。
それに応じたわけではないが、ミュエルはまるで自分が答えるのが当然のように、
「分かりません。私の力不足で、ナフィル様を充分にお助けできませんでした」
と言って、ナフィルよりも遥かに深刻そうに視線を落とした。
「そう」
ユーリは特に驚くでもなく、結果を受け入れていた。
当事者であるナフィルには意味が分からない。
「ね、順応力ってどういうこと?」
苛立ったようにナフィルはミュエルに尋ねる。
ミュエルはユーリを窺ってから、
「ナフィル様は、元々順応性、つまり状況に馴染みやすい性質があります。簡単に言うと、物怖じせず、自分の状況を受け入れる性質です」
「それと、さっき言っていた適応とどう違うの?」
ミュエルが一瞬言葉に詰まる。
「・・・適応力と言うのは、状況を自分のものに馴染ませようとする能力です。ですが、順応は違います。順応とは、自分をその状況に合わせてしまうことです。つまり、自分より強い環境があれば、それに溶け込んでしまうのです。どちらも自分をその環境に馴染ませることですが、慣れるのとそれに流されてしまうのとでは主体性が異なります」
「ようはね、自己を失って世界の記録に取り込まれてしまうところだったということよ。ナフィルはそこの環境に慣れようとするのではなく、その環境に溶け込もうとした。そういうことでしょ?」
ナフィル以上にユーリが納得する。
ミュエルが頷いた。
「それは、欠点なの?」
「欠点ではありませんよ」
ルセリが優しく、いきり立つナフィルをなだめる。
「ナフィル、あなた、全き神聖を受け入れた時、師があれほど忠告をし、危険があるから用心するように言われながら、自身を全き神聖と同化させようとしたでしょう?」
ルセリの心遣いは、さほどの効果も無かった。
いつの間にか、アスリンがナフィルを挟んでミュエルの反対側に位置した。
「それがどうしたの?」
「ナフィルが自分の能力を把握してそうしたのなら、それは適応と言うわ。でも、あなたは自身を全き神聖に委ねたのよ。これがどれほど危険なことだったか分からないでしょう?」
ナフィルは押し黙った。
ナフィルが結果的に人として生きられなかった原因を、ユーリはナフィルに問うていた。
既に憑依という形でリシュエスの魂の礎としていたナフィルが、全き神聖という人工聖霊を受け入れることは不可能だった。
自分の魂が四散する、その危険を、ナフィルとリシュエスは承知の上で、出来うる限りの手段と守りを取って、自身の肉体を仮の器とした。
今、ナフィルが借り受ける魔力の供給源たる全き神聖との繋がりは、命と引き換えに手にしたものだ。
それは結果として得られた幸運であって、決して求めたわけでも、望んだわけでもない。
「それを可能としたのはナフィルの順応性の高さなのよ。特別凄いものでもない。ただ単に人よりも少しだけ高かった順応性が、魔術師としてのナフィルにとっては長所でもあり、短所でもあった」
確かに、人よりも物怖じせず自分の状況を受け入れる自信はあった。
それは本当に、ちょっとだけ人よりも図太い精神の持ち主ぐらいにしか思えないささやかなものだったはずだ。
それが、ここに来て、決定的にナフィルを拒絶した!?
「私にとって必要なものが、私のそんな順応性がちょっとだけ高いなんてことで、得られなかった、と言うの?」
「いえ、それは違います」
ミュエルが、それを明確に否定した。
「その区別と言うか、判別が苦手と言うことです。いえ、感じやすいので多くのものに触れてしまって、返ってその影響を大きく受けやすい、と言うほうが分かりやすいでしょうか? 私は元々異質なので、その区別は逆に言うとナフィル様より良く出来ます。しかし、順応することが苦手なので、だから同調と言う形で適応しようとするのかもしれません」
ミュエルが考え考え言っている仕草は、まるで人間そのものだ。
「なんにせよ、ナフィルは自分では分からないけれど、必要なものを手にしたはずだ、と言っているのよ。どうせすぐ使いこなせるわけではないのだし同じことよ。実感がないのが気に食わないのかもしれないけれど、一度触れたものにもう一度、と言うのは同調よりも同化に等しいから、ナフィルには当分無理ね」
何ともいたたまれない気持ち。
ナフィルは自身の虚脱感とともに罪悪感のようなものを感じていた。
これまでも、自分に付き合わせて成果の無いことは多かった。
危険ばかりで、報酬に足る宝物を手に出来ないこともあったし、何より、生きて戻れないこともあった。
いつも、安心させたいが為に、頑張って虚勢を張ってきた。
それだけに、落差が大きければ大きいだけ、ナフィルは精神的負担を受け、癒しがたい傷を負ってきた。
「ナフィル様・・・」
唇をかみ締めて俯くナフィルを、アスリンが覗き込むようにして、心配そうに窺っている。
その様子を見て、ミュエルはナフィルにとっての支え、その負担を軽くして傷を癒せる人間がどうしても必要なことを確信した。
結果、その人間を裏切るようなことがあったとしても、無論ナフィルが納得しなくとも、自分がそれを行えば良い、と思う。
むしろ、神が生み出した人間は、魔術師以上に、何かを成しえる要素を持つのかもしれない。
ミュエルがユーリを見る。
私は別に魔術師に賭けているわけじゃない。魔術師との理解が得られるからに過ぎないのよ。
と、ユーリの言葉が頭に響く。
神が魔術師に期待したように、魔術師が人間に期待する。そんなことがあるのだろうか?
あれほどの人間を、実験材料や生贄にしてきたのに・・・?
「さて、退屈させたでしょうから次へ行きましょうか?」
場の昏く立ち込める空気を払うように、ユーリが努めて明るくそう提案した。
「お昼までまだ時間があります。もはやその名では呼べないかもしれませんが、幻獣博物館へ参りましょう」
ミュエルがナフィルから離れて扉へ向かう。
既にシュエトーがそこで待ち受けている。
「少々残念なことになりましたが、まだお役に立てることが出来て嬉しい限りです。ナフィル様はまたおいでになるのでしょうか?」
ミュエルは少し表情を明るくして、
「何せ魔術師が生まれることなんて早々ないことですし、無論これからは頻繁に来ることになるでしょうね」
と、にこやかに笑って見せた。
その目はしかし、遠くを見ていた。
ルセリがナフィルに慰めとも激励とも取れる言葉をかける。
ナフィルは表面的にもそれに応じていた。
だが、やはり今迄で一番堪えたらしい。
もっとも、全員が決して晴れやかな顔をしていない。
精神的な疲労や負荷は、余り良い結果を生み出さない。
この王都を訪れた結末が、決して楽観的ではいられないことに何人が気が付いているのだろうか?
特に、思考が後ろ向きになると、それは一転加速して坂道を転げ落ちる。
ミュエルは自然と、タウスの姿を追い求めた。
道すがらユーリは言う。
「やっぱり自分は魔術師には向かないんじゃないかって思ってる?」
ナフィルは一瞬険しい顔をするも、すぐ表情が翳った。
「魔術師になれたのならそれは魔術師だし、なれなければそれは魔術師ではないのよ。初めに言ったでしょう? 魔術師に見習いなんてないわ。ナフィルは未熟者。ただそれだけよ」
それが慰めではないことは分かっている。
そもそも、ナフィルが魔術師になることはなかった。
『全き神聖』事件で、ナフィルは魔力への干渉能力を得た。
それはリシュエス師の能力と、魔法具『初心者の短剣』によるものだった。
ナフィル本人には、全く素質が無かった。
にもかかわらず魔術師となった。
本人の意思だけではなれなかった。
一言で言えば偶然・・・だと思ってた。
だからと言って、必然と言う気にはならない。これは運命ではない。
そう、クリシナという魔術師は言っていた。
自分で求めたものの結果しか伴わない世界。
今のナフィルがいるのは、どんな影響があったにせよ、それは自分自身の要求や行動の結果である。
「どうしてあなたは私のことにそんなに詳しいの?」
ナフィルが横目で睨み付ける。
しかし、全く意に介さないように、
「見えてるだけよ」
とあっけらかんと言った。
「私には過去が見えるのよ? ナフィルのことなら何でも知ってるわ。だから、隠しても偽っても意味は無い。全て承知をして、私はナフィルに対してるの」
対している。その意味合いは、好意として助けているというものではない。
対等なもの、という意味だ。魔術師として、ユーリはナフィルを初めから認めていた。
「それに、何の得があるの?」
意味があった質問ではない。探りのようなものだった。
「得?」
ナフィルの問いを看破して、ユーリは一笑に付した。
「私は、王国魔術師を見守る王都の管理人。王国の律に沿わないならともかく、全ての魔術師を正しく導く義務と使命があるの。それによって何が得られるのかは分からないわ。正しくとも未来の無い世界かもしれない。従わざる未知の新しい世界かもしれない。秩序という目に見える枠を、もっともらしく守ることが私の役目。ナフィルが求めるなら、それを手助けするということも、私にとっては特段に意味のあることじゃないのよ」
先に立つミュエルが気遣わしげに、時折こちらを見る。
「おかしいと思わない? どうして会う魔術師はナフィルのことを知っているか? どうして敵対したり手助けしたりするのか? ナフィルが魔術師になったことは、既に知られているのよ。さっき世界の記録に触れたでしょう? この世界の運用状況と事象を観測する巨大な情報集積空間には、この世界に影響を与えたものが一切の漏れなく蒐集されている」
私自身も例外ではないと、ユーリは言った。
「魔術師はね、基本的には互いに干渉しないのよ。だから、それが重なったり交わったりした時、自分の求めるものが分けられるなら協力を、分けられないなら排除を、することになるわよね?」
「何が言いたいの?」
難しすぎて付いていけない。
「ナフィルの能力が上がったり、行動範囲が広くなれば、当然そうした軋轢が起こる可能性が増える。話し合うとか譲ったりとか、考えていれば誰も目的には達し得ない。ナフィルは今、ようやく手にしたのよ。あなたが世界の構成要素になったという自覚を」
ユーリは好奇心を満たした不敵な笑みを浮かべている。
ナフィルをだしにして、ユーリは今を楽しんでいる様に見えた。
「リンシアの呪いによって魔術師とはなったけれど、今まで大目に見られていたのはナフィルが認められていなかったから。魔術師は自分にとってどんな存在だろうと、何がしかの干渉と変化をもたらす世界の構成要素なのよ。それが魔術師として影響を与えるような存在として認められて、そして決定的な阻害要因とならない限り、排除はされないの。つまり、殺されたり実験体として捕獲はされないということ」
ナフィルがその言葉の意味を理解するまで、ユーリは含みのある微笑みを湛えて待った。
これまでの、魔術師見習いとしての期間と経験を思い起こす。
それは、苦しみと悲しみに彩られたものだったはずだ。
決して、見逃してもらっていた、というような甘いものではなかった。
・・・本当に?
「どういうこと? 私は誰かに守ってもらったり、助けられたりしたことは無いわ!」
「その必要性が無かったのだから当然よ」
その言葉が、深くナフィルの心に届く。
自分にとって大事な人の命は、魔術師から見ればただの人間の命に過ぎない。
私がどんなに苦しみ、悲しんでも、死んだり捕らえられなければ問題ない。
・・・全て、あの結果は全て、自分の至らなさの結果なのだ。
「何よそれ? なら、私が死にそうな目にあっていれば助けられていたって言うこと?」
ユーリが頷く。
その表情は、確かに魔術師に向けられたものだ。
「王国はもう無いけれど、魔術師が居る限り、この世界の損失を防ぎ、秩序を保つという役割がきえることはないわ。・・・と、昨日話せなかったから少し話し過ぎたかしらね。ミュエルが心配するからこの辺にしておきましょう。続きは今晩にでも話すわ」
そう言って、こちらを窺うミュエルに合図をする。
良い陽気であるはずなのに、ナフィルは自身の体の震えを自覚していた。
もちろん寒さからではない。
自分の決死の覚悟というものが、全く自覚のない子供の戯言に過ぎなかったことに恐怖した。
私は一体いつから魔術師だったのだろう?
全てを一からやり直したい衝動に、ナフィルは必死で耐え続けた。
エイブスが、ナフィルたちと少し離れてタウスと連れ立って歩く。
ナフィルのことは気になったが、こと魔術師のことになると、エイブスにはどうしようもない。
今はアスリンに任せるしかなかった。
それよりも気に掛かることがある。
「どういうつもりだ?」
エイブスは自然を装ってタウスに近付き、世間話のような軽い調子で声を掛けた。
「・・・何のことだ?」
タウスはそれをとぼけて受け流した。
「悪いことは言わん。俺も傭兵だったからな。しかし、今回は諦めろ。あの女は全て知っている。魔術師という奴はな、人間のような姿はしているがそれは人間を騙す見せ掛けに過ぎん」
「・・・忠告はありがたく受け取っておくが、俺はビジット事務官を守っているに過ぎん。むしろ事務官を心配すべきじゃないか?」
叡智を欲する。それは確かに危険な願いだ。
ビジットは、ともすれば国を欲っしているではないか?
人間の世で、人間を超える存在はこの世全てを従えることも可能である。
その危険性は、人間で無い魔術師よりもより高いと見るべきだ。
覇権を求めるという輩を普通の人間より多く見てきた傭兵としては、まるっきり夢想だとは言い切れないものがある。
しかしエイブスは、その可能性を低く見ていた。
明確な理由は無い。それは勘だ。
ビジットが抱えるものは、そうした覇道の先には無い。
それに近いのは、やはり成り上がってやろうというエイブスやタウスのような、苦難を味わい、虐げられた者たちの、夢よりも昏く陰湿さを伴う切実な願いであるはずだった。
不満を抱いてくすぶったまま生きるか、可能性は限りなく低いがこの機会に命を賭けるか、それはエイブスでさえ明確な答えを持たなかった。
趣としては小さめの評議会議場と言った感じだが、何かしら後ろめたい様な印象を持つ。
蔦の絡まった石柱とくすんだ石壁。
良い印象を与えようとは思わないのだろう。そう思わせる何かがあった。
にしても、どうにも統一感の無い感じを受ける。
王都の建物は全て、王都として造られたのではなく、ユーリが言っていたようにどこからか寄せ集められたものらしかった。
「ここには管理者がいないから、封印を解くまで少し待っていて」
そう言って、ユーリが一人鉄格子を思わせる鉄柵の門へと歩み寄る。
「封印を解いた後、結界の稼動と限定開放を行います。シア様でも少し手間取りますのでお待ち下さい」
ミュエルがそう補足して、皆は緊張を解いた。
感覚が鋭敏になっているような、張り詰めたものを肌に感じていた。
それは、触れてはいけないものに触れてしまった後味の悪さに似ていた。
ミュエルが、シアとは同行せずナフィルたちに歩み寄る。
ナフィルは博物館を囲む植え込みの縁に腰を下ろしていた。
「余り気にされませんように。シア様はナフィル様から未来を奪おうというつもりで言ったのではありません。むしろ、今後の苦労や心労を軽減したいという思いなのです」
ナフィルは疲れた様子で座り込んだまま応じようとはしない。
代わりに、アスリンが不機嫌な顔をしてミュエルを見る。
敢えて言うことなのか? というところだろう。
実際、アスリンはここまでナフィルを傷つけることに不満だった。
本当かどうか、それが正しいのかどうかは知らない。
例えそれが必要なのだとしても、これまでナフィルが負ってきたものを、今ここで改めて背負わせる必要は無い。
それを肩代わりできない、いや分かち合えない悲しみが、ユーリへの怒りに転じる。
アスリンにすれば、それはミュエルも同じ。
「そうですね、私も、拙速に過ぎたとは思います。でも、中途半端では返ってナフィル様を傷つけてしまいます。私はナフィル様は耐えられると思いますし、耐えてもらわないといけません。これからはきっと、今までの届かなかったものに届くようになるでしょう」
「! そんなことっ」
アスリンが激昂して立ち上がる。
が、それ以上言葉が出なかった。
ナフィルが、アスリンの服の袖を掴んで引っ張っていた。
ミュエルが少し悲しげな、困った顔をしている。
「悪気は無いのよ。私は大丈夫だから・・・」
怒りのやり場を失い、険しい顔のまま、アスリンは視線を泳がせた。
「言い方がお気に触るのでしょう。まだ実証経験が少ないので、出来るだけ気をつけてはいるのですがそれは本当に申し訳ございません。それでも、今は敢えて言わせて頂きます」
とミュエルは前置きをして、
「ナフィル様は、魔術師になってしまったことを後悔していらっしゃるのでしょう?」
と、先程ユーリが言っていたことと同じようなことを聞いた。
ミュエルの問いに、ナフィルはユーリに対するほどに反応はしなかった。
何故なら、それこそが本心だったから。
なれるなれないではない。
自分が魔術師になってしまったことが、そもそもの間違いだったのではないか?
今まで、常に前を見続けようとした。
もう戻れない。積み重ねられた辛苦は、それが増えるに従って絶対の強迫観念となった。
ここまで来て今更魔術師であることを捨てられない。
そして、それに応えられない自分が居る。
「それを許すことがナフィル様には出来ないのでしょう。それは仕方の無いことです。仕方が無いでは済みませんが、仕方が無いのです。だから、アスリンさんが居てくれます。アスリンさんが代わりに許してくれるでしょう。もちろん、余り信用はされないと思いますが、私も同じ気持ちですよ」
噛み付かんばかりのアスリンに、ミュエルはそう付け加えてにこやかに笑った。
「必要な時に、それを叶える力が無いということは多いものです。逆に、今、ナフィル様は知識を得ましたが、それで過去の失ったものを取り返すことが出来ません。これは、この世界に生きる理に従うものの定めなのです。定め、という言い方は魔術師的ではないですね。約束事、としておきましょうか? 前もって対策を打つことは出来ます。肉体を損壊するなどして礎を失っても、素体に魂を移し変えられるようにしておく、などです。でも、ナフィル様は出来ませんでした。欲する者は、力を必要とする時に、その必要な力を持ち得ないものです。これは、残念ながら魔術師だろうと人間だろうと、そして例え神々であっても分け隔てのない真理なのです」
ナフィルが怪訝な顔をしてミュエルを見る。
そのナフィルに、ミュエルは屈託無く微笑んだ。
「ナフィル様が新たに何かを得た時、あるいはどこかへ行かれた時、必ずそれに応じて好ましいことと好まざることが起きます。ナフィル様が魔術師であれば、人間を超えるものであれば、それは大きくて当然です。悲しみも苦しみも大きくて当然です。そして、それを当然と思わず、悩んで苦しむ。私がそれで良いと思い、そして許してあげたいと言うのは、ナフィル様だからです。良いんですよ。だって、御自分の師に、そう言ってあげたナフィル様じゃないですか?」
「・・・え?」
ナフィルが、驚いた顔をしてミュエルを見た。
どうしてそんな事を知っているのか?
驚くと同時に、その時のことを鮮明に思い出していた。
それは、先ほどの知識の海で思い返したリシュエスの記憶が残っていたからだ。
「ナフィル様?」
そう言ったナフィルを見て、アスリンも驚いた。
涙が、溢れ出ていた。
もう流すまいと、そして見せまいとあの時に誓った涙だった。
「どうして、どうして私は・・・」
その続きは、嗚咽となって言葉にならなかった。
私は言ったんだ。
誰も許してくれなくても、私だけは許してあげるって。
ここに居ても良いんだよって、言ってあげたんだ。
その、誰にも認められない、そして誰よりもそれをした自分が許せない、その罪を代わって贖うことを誓ったあの時に。
それが、ナフィルが魔術師としての存在意義を得た、全てを生み出す原初の混沌とも呼べる魔術師ナフィルの原点だった。
「私は、私が望むことのために、今まで頑張ってきた。誰も巻き込みたくなかったし、叶えられずに死んでしまっても良かった。でも、そう出来なかった。・・・今では死ぬことも出来なくなってしまったのね」
と言って、ナフィルは涙を流しながら自嘲を半分含ませて吹っ切れたように笑った。
「進んでいるのか、それが正しいのか、私には測ることが出来なかった。もし魔術師になった時点で間違っていたのなら、と、私はそう考えるのが怖かった。でも、ユーリはそれを指摘した。した上でそれも受け入れろと言う。それは私の理想よ。決して届かない理想。そうできたらどんなに楽なのか、でも、そう考えること自体、私には許されない」
「ナフィル様」
と、アスリンが袖を掴んでいるナフィルの手を解き、その手を握った。
「私は自分から望んできました。来る前に思ってきたことは、現実にはそんなに甘いことではなかったと思い知らされました。でも、驚くことはあっても、私はナフィル様に従います。それは、失礼ながらナフィル様の思いや考え以上のものです。つまり、私の考えでナフィル様に従っています。だから、私のために悲しんだり苦しんだりすることは無いんです」
それに、それは何もナフィルだけの特権ではない。
アスリンもナフィルを心配し、悲しみ、苦しんだのだ。
そして、それはこれまでナフィルに付き従っていた人たちにも言えた。
だが、結局アスリンは魔術師と生きると言うことがどんなものであるか分からないだろう。
無論、ミュエル自身も、実際に人間と生きると言うことがどんなものであるのかは分からない。
でも、それで良い。
分かってしまったら、それは同じと言うこと。
せっかく3人が違うものとして生きているのに、分かってしまったら意味が無いではないか。
「私のしていることが単なる私のわがままだとしても、それで良いと言えるの?」
「えぇ、ナフィル様はそれで良いのです。もしそれが間違っていたら、アスリンさんがそれを正すことがあるでしょう。もし間違っていても、私はそれに従うつもりです。そう言う事です」
納得しがたい表現はあったが、それはアスリンの意見とさほど変わらない。
それが人間としての存在から乖離するならば、受け入れようと思った。
アスリンは教導団時代、教官だったある騎士からこんなことを聞いた。
「体制や組織、そして理想や理念といったものに従うために私は武人を目指した。しかし、結局は人間は自分が認めた人間に従うように出来ているのだ。そうした人間に出会った時、それがたとえ周りから認められないとしても、従ってしまうことがある。それが時に反乱や犯罪と言われることがあってもだ。本人はそれが自分の存在理由だと信じている。そして、それは悲しいことであるが、決して少なくないのである」
もし自分の進む道が、辛く、悲しいのだとしても、信じられる人が居るならばそれに従おう。
そして、その結果に対する責任は、自分になければならなかった。
そうでなければ報われない。
ナフィルだけではない。
アスリンも、ミュエルも、いくつかの覚悟を必要とした。
自分への覚悟。
ナフィルへの覚悟。
そして存在としての覚悟。
ミュエルとアスリンは、互いに視線を交わす。
魔術師に魔法王国と言うものがあった。
それは、器であり、枠であり、枷だった。
自分たちが、ナフィルにとってのそうでありたい。
それが一つのものでも、同じ向きでも無くて良い。
そうであるなら利用する価値はあると、打算的に考えて二人は同じ光をその瞳に輝かせた。
結局、解った事は自分が魔術師だということだ。
それは、魔術を成すことにあるのではなかった。
人であり、人を超えるものであり、人でないものだった。
「何も変わってない、と言うことではないの?」
「いえ、分かってらっしゃるのでしたら、それは変わったということですよ」
ミュエルはそう言い切った。
「分かっていて、これからも魔術師として生きることです。世界に従う必要はありません。世界に益をもたらす必要もありません。と言いましても、覆せないものはあります。超えられないものもあります。シア様が今晩、夢見の塔でお話くださるでしょう。もっとも、抗えないものがあると知るのは、今のナフィル様にはより辛いことかもしれません。ですから、敢えて昨晩は伝えませんでした。知ることは辛いですが、それでも、知らないで居るよりも良いことだと、今のナフィル様には分かっていただけると思います」
満足とは言えないまでも、ナフィルの目的は達した。
ミュエルはそう言った意味合いで、お辞儀をしてナフィルに頭を下げた。
「これからは、私がお傍でお助けいたします。私の全てがナフィル様の力です。今後は遠慮なく何でも仰ってくださいね」
ナフィルは目を瞬かせて、突然の宣告に驚きを隠せなかった。
今回一番の不意打ちだった。
ナフィルは許されたかったわけではなかった。
魔術師としての自分に、許されるなどということが無いのは既に承知していた。
承知していて、ナフィルは魔術師になることを選んだのだ。
それには代償が必要とされた。
それを、当然のことと思わなければいけなかった。
それが、許されないと思わなければならなかった。
それらが、ナフィルを蝕んでいった。
人間を捨て、魔術師になろうと言った決意を、言わば食いつぶしながらここまで来た。
それは、リシュエスに許すと言った自分が取らなくてはいけない責任。
決してやせ衰えることの無いそれは、ナフィルが前へと進む負の原動力でもあった。
もちろん、それだけではここまで来れなかった。
足りないものを犠牲で補ってきたし、精神的に支えてきてくれた人たちもいた。
ただ、それらに対する責任も、当然累積してきたのだ。
これはもう、今の自分が存在する理由の一部を占めるもので、無視することも、捨て去ることも出来ない。
エリンはそれを、自らの命で相殺した。
ナフィルもそうすべきなのだろうか?
エリンは言った。
「私は、ナフィルさまが魔術師として望みを成し、誰かを支えて上げられるようになってくれれば、それだけで良いのです」
ナフィルはどんなに苦しもうとも、悲しもうとも、そして呪おうとも、魔術師として生き続けなければならない。
それにはどこかで妥協しなくてはならない。
しかし、それは全てを捨てることではない。
常に天秤は、揺れてはいても、魔術師として生きること以外に傾かないのだった。
それでは意味が無いのかと言えば、これは絶対に必要なことでもあった。
自分の非力さを思い知らされる度に、命に危険が及ぶこと以上に、ナフィルの精神を深刻に苛んだ。
そうして徐々に、その僅かな逃げ道は細く、小さくなっていく。
それが、ナフィルにとって、魔術師としての必要不可欠な要素でもある。
ナフィルは、魔術師になる前も生きてはいた。
ただ、それは生きていただけだ。
しかし今、ナフィルは動機はともかく、魔術師になったことで自己の存在を確立している。
これはどんな生物よりも、一段上の存在だ。
「多少のわがままなんて、解決できない錯誤や矛盾が一時的に表面に出ただけよ。私は心配なんてしていなかったわよ。ナフィルは、既に自己を確立した『事象』なんだから」
ユーリはそう言って、いやらしく笑った。
「本当なら、ここでナフィルに知識ではない体感としての魔術を経験してもらうつもりだったけど、今の状態では難しいでしょう。・・・ま、昨日に比べたらよほど魔術師らしくもなったし、私としては嬉しいけど」
少し持ち直したらしいナフィルの様子を見て、ユーリは本当に楽しそうだ。
ミュエルが困った方です、と言って小さなため息をつく。
でも、理由は何となくナフィルにも分かった。
「悲しいことがあると分かっていても、こうした楽しみがあるから耐えられる。私が今の為に生きてきたように、ナフィルにもね」
その微笑みに親しみを感じたのは、もしかしたら自分がユーリに近付いたからなのかもしれない。
とは言え、そう殊勝な表現をしてしまうほど、見た目の威厳的なものが感じられない底の知れない女性でもあった。
「さて、歓迎しようにも管理者はいないし、説明だけでもしましょうか?」
ユーリはミュエルに目配せする。
皆が周りを見渡す。
招き入れられた施設内は、初めに感じた印象そのものだった。
「ポルカッタの美術館は華やかな感じがしたが・・・」
エイブスが比較して言うように、内部を見ても、先程の図書館と比べてさえ装飾など皆無に等しい。
「ここは、肉体や魂、魔術における生物の創造に関して、研究や実験を行うところです。人為精霊や魔法生物の製造もしていまして、私もここの技術で生まれました。私の製造者様、ニスコール導師はここの嘱託研究員でした」
思わせ気な笑みをして、ミュエルがユーリに代わって説明する。
管理者がいなくとも綺麗に維持されていて、それが返って不気味にも見えた。
「幻獣がいたのも昔のことで、今は召喚術師が居りませんので全て帰還しました。博物館と言う呼び名も、研究や実験で得られた生体や回収標本を蒐集したことで付けられたもので、本来の主旨とは異なってしまいました」
誇れるものがある一方で、その陰にはそれを遥かに凌駕する失敗や悲劇があるのだと、ここの雰囲気は教えている。
人間であったナフィルは、それを魔術師として最も切実に感じていた。
素材や素体と言う名の下に、多くの人間が犠牲になってきた。
自分が魔術師になって感じた、人間を犠牲にするということを、他の魔術師から指摘されることが何より嫌だった。
だから人間を魔術に供することを頑なに拒んできた。
でも、自分の至らなさから、人間に力を借りなくてはいけなかったし、そして結果として犠牲にしてきた。
・・・どんな道を辿ってきても、結局は人間を犠牲にしてきた。
この二日、ナフィルが魔術師であることを自覚しながらも、なおそのことを呪った理由はそれに尽きる。
「ナフィル様、何かを成すということには、必ず正負が付きまといます。もうそれはくどいほど、ナフィル様を傷つけることを承知で、言わせていただきました。・・・ここは、その負の部分を集めた場所なのです」
ミュエルは、表情としては穏やかさを失ってはいなかった。
しかし、それは自分にあった負の部分も、ここにあるのだと示していた。
当然ながら、ここにはナフィルにとっての必要性は皆無だった。
自分の道にも、そして目的にも、適いはしなかったし無縁でいたかった。
「ナフィル」
ユーリが、その表情を見取ってか声を掛けた。
こちらを測っているかのような表情に、ナフィルが渋い顔をする。
知っていて声を掛けたのだし、それは嫌味としてはきつかったがさほど意味があったものではない。
「私は極める気は無いわ。それとも、これも必要だとでも言うの?」
ナフィルの師、リシュエス・ウォンバートは死霊術師だった。
ナフィルもこれまで、死体や死霊を使役したり、魂の拘置をして不死化を行ったりしてきた。
それは概ね失敗か仕方の無いもので、これを使いこなそうとは思わなかった。
「ナフィル様の魔術の根底にある術式には、ナフィル様が継承したウォンバート家の様式が使われていますからね。それは死霊を媒体にしたものですから、魂に作用する形式の魔術にはうってつけなのです」
ミュエルの説明に納得しつつも、ナフィルは頭を振った。
「私は元からの魔術師ではないわ。これ以上自己の存在を追い詰めてみても処理できる自信が無い。今だって、平静を装うのにどれだけの苦労を必要としているか分からないでしょう?」
ミュエルが苦笑というには痛々しい顔をしている。
「確かめておきたかっただけよ。もし必要なら教えてあげようかと思ってね。今度は失敗しないで済むかもしれないし」
ナフィルの顔がこわばり、握り締めた手に力が入った。
ユーリのその一言に、ナフィルが深く傷付いていることをアスリンは悟った。
しかし、ナフィルに代わって口を出す必要は無かった。
しっかりと顔を上げて前を向き、ナフィルはユーリから目を逸らさなかった。
「・・・一々まともに受けたりしないわよ」
言われる度に傷付いていたら、存在自体を疑わずに居れなくなる。
それらを、納得せずとも抱えて生きることが魔術師だと教わったばかりだ。
これは卒業試験のようなものだと思うしかない。
「なぁ、その標本と言うやつは見れないのか?」
突然のタウスのその質問に、ナフィルとユーリは見事に対極の反応を見せた。
「あなた正気?」
ナフィルは険しいと言うよりも嫌悪するかのような顔をして、吐き捨てるように言った。
「興味ある?」
だが、ユーリは意外にも応じていた。
「タウス! 止めておけ」
エイブスが割って入るが、
「話を聞いて見るだけだ」
と、余り真剣には受け取らなかった。
先程の危惧もあって、エイブスの表情は晴れない。
ナフィルに申し訳ないような顔をして目だけで伺う。
「ユーリ、どういうつもり?」
ナフィルの抗議を片手で制して、
「ここには危険な生物が隔離されているわ。その中には、魔術師には倒せないようなものもあるの」
ユーリはそう言って皆の中心に立った。
「魔力の通じない生物は、魔術師を暗殺したり、魔術を封じた結界下で戦わせるために作られたの。でもね、魔術師自身の手に負えない危険なものは倒すのも厄介でね」
そう言って、左手で空気を払うような動きをする。
そこに、直立する蜥蜴のような生物が現れた。
皆がどよめく中、ナフィルが生理的嫌悪感を露わにして後ずさる。
「幻影だから大丈夫よ。名前は無いけど、スイルの使い魔と呼んでいるわ。魔力を吸収する性質があるのだけど、厄介なことに変換した魔力も分解して無効化してしまうのよ。だから直接的な攻撃か、二次変換をする魔術でないと効果が無いの」
体格の良いエイブスよりも大きく、一見鈍重そうに見える。
目は昏い赤で満たされ表情は読めず、巨大な口からは短剣のような歯が数本覗いていた。
「どう? 一々処分もしていられないから隔離しているけど、倒してくれたら、そうね、魔力を込める前の宝石をあげましょうか。釣り合う報酬なのかは私には分からないけど、持てるだけなら持っていって良いわ」
「ユーリ!」
ナフィルが声を上げる。
「危険よっ!! わざわざ危険な目に遭わせる意味が無いわ」
「でもねナフィル」
ユーリはタウスたちを指して、
「彼らには現実的な報酬が必要よ。見返りや安全の保証まで、ナフィルが気にしたり責任を感じたりするのは大変でしょう?」
とあっけらかんとして言った。
それは確かにそうだった。
ユーリは、それを全て抱える必要はないと言っているのだ。
ただ、このままなし崩し的に戦わせることには抵抗がある。
「私が連れてきたのよ? 責任はあるわ」
「自分から付いて来ていても?」
ビジットとタウスの事だ。でも、
「同じことよ。ここは、私たちの領域よ」
ナフィルがそう言い切って、ユーリは両手を軽く挙げて理解を示した。
「でもね、全く危険が無いことに、誰が魅力を感じるの? それに、一人なら危険ではあるけど何人かでかかれば不可能ではない。その対価は、魔術師にだってあるものよ」
そう言われては言い返せない。
本人の選択は尊重する。矛盾するようではあるが、ナフィルはそれを自分に科してきた。
それが、人間と決別した魔術師としてのナフィルのけじめであり、戒めでもあった。
歯噛みするように、ナフィルは僅かな期待を込めてエイブスを見た。
エイブスは考えた。
これで破格の報酬を得れば、タウスは満足するかもしれない。
少なくとも、漠然とした不意の危険よりも、目に見える分マシではある。
怪物との戦闘は、ナフィルと共にいて何度か経験している。それほど後れを取る事はないだろう。
それに、自分にとっても悪い話ではない。
エイブスは自分のギルドを作りたいと思っていた。
そのためには莫大な資金が要る。
持てるだけの宝石と言えば、安く見積もっても自分の稼ぎの10年分近い。
エイブスの頭には、これをどう避けるかではなく、既にどう戦うかに視点が置かれていた。
これまで、生まれの貧しさを蔑まれてきた者たちが互いに殺し合うさまを、エイブスは醒めた思いで見つめて来た。
そして、そのやるせなさ、どうしようもない定めにも似た境遇を受け入れていた。
それが現実だと思っていた。
自分だけはそこから抜け出してやろうという思いはあった。
しかし、その現実を否定することも出来なかったし、そもそも打ち破ろうなどと考えもしなかった。
だが、今、現実と信じていたことが幻想に過ぎなかったと知った。
自分の居た世界が、とてもちっぽけで、そしてそれは絶望的なものでしかなかったと知った。
本当の世界は広かった。
食うために戦うことも、成り上がるために戦うことも、何てちっぽけなことだ。
そんなことのために、同じ境遇の人間たちが、貴族や金持ちの先兵となって殺し合ってきたのだった。
現実だと思ってきたことが幻想に。
幻想だと思ってきたことが現実に。
まさしく夢のような話だった。
地面にへばりつき、血や泥にまみれて生きてきた人間には、それはお伽話か世迷言でしかない。
そうした人間は、矮小な現実から早々に放擲され、この世界に身の置き場など無かったはずだった。
だから、必死に現実にしがみ付いていた。
そうでなければ、命を落とすからに他ならない。
そう、それは、・・・・・・ある意味では死を宣告されたに等しいことだったのだ。
「目の前に居る、なんてことは無いと思うけど、気を抜いてはダメよ?」
そんなユーリの注意とも取れぬ忠告を受け、ナフィルの仏頂面に送られて、三人は『狭間』へと運ばれた。
さすがに目の前には居なかった。
今までに感じたことの無いような緊張感を少し緩め、ひとまず安堵する。
しかし、その怪物はそのホールの隅に確かにいた。
こちらを、意思の感じられない真っ赤な双眸が向いている。
ユーリが見せた幻影のおかげで、見た目の衝撃は克服することが出来た。
「それじゃあ、予定通りに行くか」
と、軽い調子でエイブスが言う。
二人も頷くが、心なしかアスリンは青白い表情をしている。
「これぐらいで滅入ってくれるなよ?」
エイブスがアスリンを叱咤した。
実際、見た目はマシな方なのだ。だが、これからどういう結末になるのか、エイブスでさえ分からない。
だから逐一驚いていたら切りが無いし、逆にそれが命取りともなりかねないのだ。
「とっとと片付けるぞ」
「承知!」
タウスが不敵に微笑んで左に回りこむように離れた。
アスリンが少し情けないような顔をしながらも、複合弓を構えた。
怪物は身動ぎさえもせず、現れた時のまま立ち尽くしている。
「気は抜くなよ? 簡単に倒せそうだと思うのはただの錯覚だ」
エイブスがそう言い切って、剣を怪物に向けた。
前触れも無く、意外なほど怪物は滑らかな動きでエイブスに向かってくる。
アスリンが頭部に向けて2連射する。
が、矢は2本とも鱗を思わせる皮膚に弾かれてしまった。
「!?」
アスリンは驚きつつも次の射点に付くために右へ動く。
怪物は既にその巨大な鉤爪をエイブスに振るっていた。
アスリンの複合弓は、教導団の教官が命中精度の高いアスリンに勧めた特注品である。
それは教導団の給金3か月分にもなる高価なものだったが、筋力でどうしても不利になりがちなアスリンに、その能力を無駄にすることなく、積極的に使わせるために強く勧めたのだ。
今まで親に頼みごとをしたことの無いアスリンだったが、この時初めて頭を下げた。
そうまでして手にしただけあって、速射をしなければ革鎧も容易に打ち抜く威力があった。
なのに、あの怪物は、全く意に介せずに弾いたのだ。
「魔術の守りがあるのかと思ったのに」
あの皮膚は革鎧よりも厚いのだ。二重の意味で衝撃を受ける。
しかし、悩んだり考えたりする暇は無い。
すぐ射点に着く。そして弓を引き絞ると、次の一瞬でアスリンは怪物の左目を正確に射抜いた。
怪物の攻撃は、全力で体重をかけてくる強力なものだ。
しかし、エイブスはほとんど引かず、二人が攻撃に入るまでその場で持ちこたえた。
予想通り、アスリンの弓は傷一つ与えられなかった。
タウスが手斧で怪物の右腕筋を執拗に狙うが、怪物は一心にエイブスを狙ってくる。
まともに受けずに避けてはいるが、2回だけ防ぐために使った円盾は、革が裂けて土台となる板にざっくりと傷が入ってもうボロボロになってしまった。
しかし反撃は出来ない。
向こうは捨て身で来れても、こちらは攻撃をすればその隙だけで致命傷を受けかねない。
タウスが集中的に狙うので、さすがに怪物も引き離そうと大振りで払うが、その隙に突き出した剣も深くは追いきれなかった。
すぐ避けられるように体重を引いていないと、体当たりのような攻撃に対処できない。
タウスは目標を腕だけでなく脇腹にも向け、どの位置からも確実に攻撃を当てている。
しかしどれだけ効果があるのかはわからない。
怪物には一向に効いている様子は無かった。
その時、怪物の左目にアスリンの矢が突き刺さった。
だが、怪物は何事も無いように鉤爪を振るう。
破壊音を残し、エイブスの円盾は砕け散った。
一瞬矢の効果を期待して、避けるのが遅れたのだ。
盾を犠牲にして、エイブスは怪物の間合いから一旦逃れた。
「効いてないぞ! 首を落とすか?」
タウスが叫び、エイブスは頷く。
しかし、それも簡単なことではない。
「取り合えず右腕を封じよう。でないと首など狙えまい」
怪物の意図は分からないが、タウスではなくエイブスを狙ってその間を詰めてきた。
それでは効率が悪いので、アスリンが敢えてその間に入って引き受ける。
危険ではあるが、攻撃力で言えばアスリンがおとりを引き受けるのが適任だ。
その隙に、タウスの位置にエイブスが入る。
そして、タウスの付けた腕の傷に思いっきり斬りつけた。
エイブスが数度斬り付けると、いとも簡単に腕の筋を断ち切る。
怪物の右腕は、もう威嚇程度にしか使えないはずだ。
こんなものか?
その時、エイブスは確かに物足りなさを感じた。
それは間違いなく、人間同士でやりあうよりも遥かに脅威ではあった。
だが、人間同士でやりあう時に感じた呵責、それは今では僅かなものにしか過ぎないかもしれないが、それが無い事の気兼ねなさは、何とも例えようのない感情を湧き起こさせた。
・・・俺は、楽しんでいるのか?
それは、敢えて言えば清々しさや喜び。
技量を尽くしたときの達成感は、相手が怪物であるからこそ許せた、自己の昏い感情の発露であった。
それからはもう、傭兵二人が淡々と作業をこなすだけだった。
左腕だけでも充分致命的な威力があったが、もうその動きは読まれてしまって、二人はまるで示し合わせたように、交互にその首に確実に、そして深い傷を負わせていく。
腐臭のする体液だか血液だか区別の付かないものを大量に撒き散らしつつ、しかし怪物の動きは全く衰えない。
「うりゃぁ」
エイブスが威勢を掛け、全力でとどめの一撃を怪物の首に叩き込む。
ばちゃりと、形容しがたい不快な音を立てて、その首が胴体から離れて床に落ちた。
このホールに居るものの、全ての動きが止まる。
「・・・やったか?」
タウスが汗を拭って問う。
しかし、エイブスは答えない。
断言できないのだ。魔術師絡みだと、正常な判断というものが山の天気のように曖昧なもののように思われた。
じゅぶじゅぶと首があったところから液体が流れ出す。
その臭いがたち込め、3人は顔をしかめた。
人間の血の臭いは、ねっとりとして生臭い感じではあるが、これほどの不快感がある匂いではない。
エイブスは、以前にナフィルと共に死霊に食われた人間の処分に立ち会ったが、あの時感じた腐った人間の何とも言えない匂いを思い起こしていた。
この怪物も死んでいたのかもしれない。
魔術で生かされ続けていたか、あるいは動くように命じられていたのだろう。
であれば、もう行動力は失われているのではないだろうか?
その緩みかける気を、エイブスは内心で厳しく叱り飛ばした。
怪物は、まだ動く兆候を見せていた。
「何かいるぞ!」
エイブスはそう叫んで警告した。
その顔には、二人には悟られない程度に、何かを期待する不敵な笑みが含まれていた。
エイブスの言葉の意味が分からず、タウスとアスリンはエイブスを見るために怪物から一瞬目を逸らした。
その時、ばちゃりと、液体を撒き散らしながら、首のあったところから不意に触手が伸びて周囲を払った。
驚いて飛びのく。
アスリンが体勢を崩したが、倒れはしなかった。
怪物は首から数本の触手を出し、それをうごめかせながら様子を窺っている。
「なんだあれは?」
タウスの質問を、エイブスはそのまま返してやりたかった。
「あれが本体だ。死体に寄生していやがったんだ」
エイブスは不快感からつばを吐き捨てる。
だが、アスリンは堪えきれずに吐いていた。
この臭いであれを見せられれば無理も無い。
そう思うが、
「おい、吐くのは良いが隙を見せるな」
と言わずには居れない。
「何だよ、今までのは余興か?」
タウスの負けん気は救いではある。
が、顔は険しく歪み、決して言葉どおりの余裕があるようではなかった。
「ちっ、厄介だな。本体を引きずり出さんといかんようだぞ?」
「あの足を全て切り落とせば出てくるんじゃないか?」
見た目もそうだが、相手が人間じゃないのは何とも対処に困る。
「そんな面倒臭いのは勘弁願いたいが・・・」
だが、他に良い考えが思い浮かばない。
「やめだ。考えるのは性に合わん。動きが読めんが気を付けろ。毒を持っているかも知れんからな」
人外の対処に長けるのも良し悪しだが、今はそのくらいしか言えないことにエイブスは舌打ちをした。
触手の動きはさほど早くは無い。
問題は、頭の無い怪物がまだ動き回ることだ。
「何とか足止めできないか?」
「この足だか腕だかが邪魔をして近付けん。腕と一緒に足も封じておくべきだったな」
さほど残念でもなさそうに言うが、それは生死を分かつ、もはや取り返しのつかない現実だった。
左腕だけではあるが、その鉤爪の攻撃を避け、触手の攻撃を受け流す。
そして攻撃をせずに、触手の攻撃を避けつつ間を空ける。
「埒が明かん」
まだ体力があるだけに、刻一刻と状況が悪い方向に向かっていることに余計に危機感を感じた。
時間がかかればかかるほど、手段も生存の可能性も無くなっていく。
この触手は意外にも柔軟な動きを見せ、またしなやかそうでいて案外に硬く、エイブスがようやく1本を切り落としたが、すぐ本体から1本生えてきて全員を落胆させた。
「打つ手無しだな。切り落としても生えてこられてはな」
「にしても、あれだけでも面倒なのに、こいつはどこに目が付いているのだ?」
怪物が突進しつつ鉤爪を振るうのを、エイブスは引き付けて避ける。
触手自体の範囲はそう広くも無いから、逃げ回るのもそれほど難しくは無い。
しかし、それでは勝つことは出来ない。
しかも、厄介なのはそれだけではない。
生物が腐った時に発する猛烈な悪臭が、アスリンの動きを妨げていた。
無理も無い。こんな凄惨な場面など、エイブスでさえ余り経験は無い。
毒気は無くとも、精神を苛む深刻な影響を与えるに充分な瘴気であった。
アスリンは、初めて戦場に出た新兵が浴びる洗礼を、最悪な形で受けていた。
が、庇っても居れない。
「長くは持たんぞ」
それは体力に限ったことではない。
どんな能力があるのか、毒は持っていないのか、果たして、あれを殺せるのか・・・。
エイブスはゾッとした。
あれを本当に倒せるのだろうか? それを、誰も確信を持って言い切っていなかったのではないか?
と同時に、頭がカッと熱くなった。
この汚れた血や腐った体液にまみれ、猛烈な悪臭の中でみっともなく戦っている自分たち。
今までと同じなようで、エイブスは全く違った印象を持った。
どこかで、この状況を楽しんでいる自分が居た。
「援護しろ。仕留めてやる」
両翼を二人に任せ、エイブスは剣を真っ直ぐ怪物の胸に向け、一足飛びに突っ込んだ。
一か八かの賭けだった。
それが最短で確実な方法だった。
これで倒せなければ成す術など無い。
どうしてそう思ったのか。その唐突さを疑問に思わない。
剣が怪物の胸に突き立てられる。
慎重さを捨てた突然の行動に、タウスとアスリンは驚きつつもエイブスを狙う触手を懸命に阻止した。
それでも、2本ほどがそれをすり抜けてエイブスを背後から襲った。
背中に焼け付く痛みが走る。
が、構わず剣を更に深く刺し貫く。
それだけで、簡単に全てを終わらせることが出来た。
それだけで、怪物は動きを止めたのだ。
もっと早くこうすべきだった。
気兼ねない相手を殺した時、エイブスは確かに高揚感に包まれていた。
それを分かち合おうとタウスを見る。
だが、タウスは呆けたように中空を見ていた。
その目は純真で曇りの無い澄んだもので、一瞬魂を抜かれたのではないかと思った。
しかしその疑問はすぐ頭から消え失せた。
無謀だった。しかし切り抜けた。俺は生きている。次はもっと上手くやれる。
笑い出しそうになるのを堪えたが、それすらどうしてなのか理由が分からなかった。
ただ楽しかった。そして誇らしかった。
対照的に、アスリンは酷く疲労感を漂わせて、沈んだ顔をして動かなくなった怪物を眺めていた。
ようやくそれを認識したかのような、現実を反芻するかのような印象だった。
「あんな戦い方をするなと言った筈よっ! 命がいくつあっても足りないじゃない!!」
戻るなり、ナフィルはそう言ってエイブスをなじった。
冷静さを取り戻したエイブスは、ばつの悪そうな顔をしてすまないと言って詫びた。
3人の中で、エイブスだけが唯一魔法生物との戦闘経験がある。
それを踏まえ、冷静に対処できると思ったからこそ、渋々望みを呑んだのだ。
それなのに、自ら率先して、どんなことでさえ起こり得る相手に捨て身で戦うなど、
「エイブ、あんた、あそこで死んでいたのよ? 今生きているのが奇跡なの! 分かってんの?」
とナフィルが言い切るほどに、無謀極まりないことなのだった。
エイブスは、理由は分からなかったが、違和感は理解していた。
それはもう既に感じていた事だが、はっきりと確証をもって理解した。
ナフィルが危機感を露わにして怒っているのが、それを証明していた。
その答え。
ナフィルが今まで自分のことに掛かりっきりで、この王都が人間にとってどれほど危険なところであるのかを認識したのは、エイブスを叱り付けているまさにその直前。
ユーリの放ったたった一言。
「絶望が道を開くこともある」
感覚共有で、ミュエルの観るエイブスらを心配げに思うナフィルを、ユーリが安心させようとして言った・・・もしかしたらまたからかったのかもしれないがその一言は、以前、ナフィルも言われたことがあった。
そして気付いた。
この濃い魔力が満ちる空間で、魔力干渉能力の無い人間であっても、強い思いや望みを、稀に叶えてしまうことがある。
通常であればあり得ないことが、ここでは叶ってしまう危険性があった。
開くことの叶わない真実、あるいは現実とでも言おうその扉を正しく身をもって越えてきたナフィルが、危機感を露わにしてエイブスに八つ当たりも含めて怒りをぶつけていた、それが理由だった。
御せる能力が無ければ、魔力に飲み込まれてしまう。
もっと簡単に言えば、感情に流されやすくなる。
ナフィルにはリシュエスが居たし、その後にもどうにか導かれてきた。
それは偶然というには出来すぎていたし、奇跡というにはささやか過ぎた。
だが、ここは、ここでは、その枷が緩いのだ。
普通に生きていれば一生感じなかった『現実』が垣間見れてしまう。
それが純粋であれば純粋であるほど、狭ければ狭いほど、強ければ強いほど、叶えやすくなってしまう。
その代償が命であった時・・・。
ナフィルはそれが自分のことのように思え、心臓が跳ね回っているような動悸を感じていた。
エイブスを叱りながらも、ナフィルは自分の経験を思い起こしていた。
大好きだった、大事だと思った人たちが自分のために命を投げ出したこと。
それは自分の命を顧みず、自分の都合だけで身を投げ出したナフィルへの報いだった。
そこで得たものは、失ったものに比べれば、取るに足らないものだった。
綺麗事ではない。魔術師であるが故に、死んでは元もこうも無いのを知っていた。
そしてそれは、ナフィルがまだ魔術師になり立ての頃、よく分かっていなかったナフィルにアルジオ師がくどいほど教えていたことでもあった。
それをようやく理解したのは、現実に人の死というものを目の当たりにして5人ほど、実に10年の歳月がたっていた。
「ナフィル様」
ミュエルが遠慮がちにナフィルの服の袖を引いた。
険しい顔のまま、その八つ当たりの幾ばくかを振り向けんとする勢いで睨み付ける。
と、沈みがちの苦笑いを見せて、目配せでエイブスの隣を示す。
そこには、ナフィルが敢えて追い立てなくても、悲痛なほど意気消沈としたアスリンがうなだれていた。
アスリンはアスリンで、この一件で徹底的に打ちのめされていた。
そこには、見栄や空元気さえ見せる余裕も無く、自己の存在すら否定しかねないほど落胆したただの女の子が居た。
それを見た時、ナフィルは怒りの矛先を失って、ふーっと息を吐いた。
「気が済んだ?」
と、人事のように言ったユーリを、ナフィルは睨み付けた。
「一体、」
「まあまあ」
言い掛ける言葉を遮って、ユーリは含みの無い微笑みをして、空を見上げた。
「初めに言ってあったわよ? 別に今更言い訳しても意味無いでしょう。ここは、そもそも人間が来るところじゃなかったし、何が起こるかわからない危険なところだってね」
その言い分に納得しかねる。
それを承知で王都に入れていた、ユーリの思惑に不快感と苛立ちが募っていた。
私といい彼らといい、ユーリは試しているのか?
あるいは、何かが起きるのを期待している?
そう思うと、ユーリが彼らを戦うよう仕向けたことの理由に納得がいく。
いや、落ち着いて考えれば、当初からユーリはそう言っていた気がする。
・・・あれは警告ではなかったのだ。
ユーリは王都の管理人である前に、魔術師なのだ。
同じ魔術師と言っても、理念や原理、根源といったものは異なる。
同じ生物だからと言って、海に棲む魚と空を飛ぶ鳥が同じでないように。
ユーリを理解することは無理だろう。
嫌いだからといって、ユーリと戦うという選択肢も無い。
一刻も早く、ここから出よう。
ナフィルは、そう結論付けて、気持ちを切り替えようとした。
しかし、明日までは出られない。
こうなってくると、あの期限も本当なのか疑わしくなってくる。
「敵わないわね、全く」
単純に憎悪だけではない感情を含め、ナフィルは苦々しげに呟いた。
遅い昼食も、ほとんど会話も無く、また朝以上に進みが悪かった。
アスリンのほとんど手の付けられていない食事を見て、ミュエルは一旦は勧めようかとも思ったが止めた。
考え込む、と言った状態ではなかった。
茫然自失といった態で、今は何を言っても無駄だと察したのだ。
昼食後は、各々自室に引き上げた。
さすがに肉体的にも精神的にも疲労が大きく、夕食まで休むことになったのだ。
ミュエルが敢えて言わなくても、その心配する素振りが伝わったのか、ナフィルはミュエルに軽く頷いて見せてから、アスリンを自室へと連れて行った。
「あら、一緒に行かないの?」
ユーリがミュエルに声を掛けた。
「心配しているように見えましたか?」
感情を消した表向きの表情に戻して、ミュエルはユーリに微笑んだ。
「ふん、私に取り繕わなくても良いわよ。ナフィルの変化もそうだけど、ミュエルの変化も興味深いしね。あら、ミュエルの気まで悪くするつもりは無いからこれ以上は止めておくわ」
そう言って笑って、ふらりと食堂を出て行った。
心配するつもりも、不安になる必要も無かった。
ただ、ナフィルにとって大切な要素であるから、ここで失うことには慎重でなくてはならなかった。
失うことでの影響も興味はあったが、今後もナフィルに影響を与え続けることの方がより大きかった。
ただそれだけだ。
表情を消して、ミュエルは開いたままの扉をしばらく見つめていた。
アスリンも小柄な方ではあるが、ナフィルは更に頭一つ分低いので、反応の薄いアスリンを苦労してようやく部屋へと連れ込んだ。
とりあえずベッドに腰を掛けさせると、呪装を解いて放り出し、覗き込むようにして隣に座った。
「具合、悪いの?」
何度目になるか分からない問い掛け。
それに、アスリンは辛そうな表情をすると、顔を背けるようにして否定した。
「ごめん。えっと、全部私の責任よ」
そんなことを言ったところでどうしようもない。
分かっていて言わずに居れない。
そこにどんな理由や動機があったにせよ、ナフィルには責任があった。
「分かったでしょう? 魔術師が何なのか。正しいこととか枠と言ったものが無いの。あなたが考えていることの全てが通用しないと思って良い。そんな世界よ」
自分で言っていて、なんて理解が出来ない話なのだと思う。
しかし、他に言いようが無い。
自分でさえ未だに驚かされるのだ。そして、自分が一番弱く、一番危険なのだ。
言って、ナフィルは自嘲した。
アスリンがナフィルの元に来た時、覚悟をしてきたと言った。
それを、ナフィルは軽く流した。
その覚悟は、アスリンの考え得る世界の覚悟だ。
裏返せば、自分が魔術師になった覚悟というものは、その程度のものだった。
「私は魔術師だから、もうこちらにしか居られない。でも、アスリンは戻れるわ。アスリンは今も生きている。良かった。アスリンに死なれなくて本当に」
固く握り締めたアスリンのこぶしに、ナフィルは優しく手を重ねた。
「私には、残念ながらユーリに対抗できる力が無い。だからもう少しだけ、私の言うことを聞いていて」
それは、切なる願いだった。
実は、逃げ出そうと思えば全く手段が無いわけでもない。
ナフィルは、首から下げた銀の鎖に付いている護符を大事そうに握り締めた。
この異界、結界下にある王都から出るには常道では叶わない。
しかしこの護符は、全く魔術の組成や理を無視して、強制的に転移させることが出来る。
これを製作した幻術師エルジク・レジーヌは、そうした手順や常識を超越した全てを幻惑する魔術師である。
ユーリの組み立てた術式は、原初の混沌に繋がるエルジクの望みを妨げることは出来ない。
しかし、脱出するには理由が要る。
理由とは、ユーリを納得させる、あるいは認めさせる理由である。
ユーリは基本的に協力をすると言っている。
敵対する、と言うことはナフィルが選べる理由ではない。
それは、ナフィルにとって自己の存在を否定することと同義だ。
だから、今、ここから逃げ出すと言うことは、ユーリにとってのナフィルが存在する意義を捨てさせることになり兼ねない。
自分が死ぬ、と言うことはまだ良い。
それにアスリンやエイブス、もちろんビジットやタウスも巻き込むことは出来ない。
ユーリは、そのことについてはナフィルの意思を認めていた。
ユーリの定める期限を守る。そして、ナフィルは自分の存在を認めなければならない。
「私、辛かった、んです」
アスリンのこぶしに力がこもる。
「私にはナフィル様の助けになる力が無い。そう思い知らされたんです。ナフィル様が言ってくれた私の居る理由は、ここには無かったんです」
ぽたぽたと、重ねるナフィルの手に、暖かい涙が落ちた。
ナフィルに、アスリンに掛ける言葉は無い。
魔術師にとって、人間を必要とする理由はそもそも無かった。
それが分かったのなら、命があるうちに気が付けたのなら、それが幻であっても良い事だった。
ナフィルには無理だが、人間には夢だったと忘れられる。
「私に、下さい」
ナフィルは、郷愁にも似た寂しさを味わって、
「え?」
アスリンの言葉の意味を理解し逃した。
「私に、この世界に居られる理由を下さい」
ナフィルの表情が一変した。
「アスリン、それは、」
望んでも決して叶えられない。
いや、人は、それを叶えられない。
「嫌よっ! そんなこと許さない」
ナフィルは、護れなかったという後悔を、これまで何度も味わってきた。
しかし、それはまだ罪と呼ぶには、ナフィルにとって些細なことでしかなかった。
ナフィルは魔術師である。人では無い。
人は、人を殺せば罪になる。
では、人を生きながら死者へと変え、操った死体を引き連れて威圧し、愛する人の遺体を陵辱し冒涜したナフィルには、一体どれほどの罪があったのか。
かつては人であった。
そして、人に絶望し、人を蔑んだ。
魔術師となったナフィルは、しかし人を捨てたわけではなかった。
なら、いつ捨てたのだ? 捨てさせられたのか?
魔術師としては当たり前のようなことを、ナフィルには出来なかった。
この王都に来て、ナフィルは魔術師になるということがどういうことなのかを、改めて思い知らされた。
だが、それは与えられたもの。自分が認め、納得をしたもの。
自分が魔術師である自覚は無かった。
ナフィルの言う魔術師の自覚とは、自分が作り出した戒めであり、覚悟だった。
アスリンは、ナフィルに罪を犯すように求めた。
ナフィルが自ら人を捨て、魔術師としてアスリンに人としての存在を奪えと言っている。
それはこれまでで一番ナフィルを傷つける言葉だった。
そして、それを一番憂いていたのがアスリンだった。
自ら、それを承知で敢えて言ったのは、もはや綺麗事では済まされないところまで来てしまった危機感と恐怖からだった。
「ナフィル様。弱い人は持たざる人です。低いところは見えざるところです」
「それは、私もアスリンも一緒よ」
激しく、アスリンは頭を振る。
「自分で選び取らないから後悔するのではないですか?」
「それが過ちじゃないって、誰が証明してくれるの!」
アスリンが死を覚悟する。
ナフィルはそんなことを望んでいなかった。
そんなことのために身近に置いたわけではなかった。
本当に、人として、人の世に生きるナフィルの隣に居て欲しかった。
そう望んだエリンが、それを拒んで支援者となったように、アスリンはナフィルの従者となることを望んでいるのだろうか?
「どうしてそうやって死に急ぐの? エイブもそう! どうしてわざわざ死ぬかもしれない危険に関わろうとするの? 戦場では物足りないの? この幻想は、目が醒めれば夢でした、では済まないのよ?」
そう問われて、どうしてなのかはアスリンには分からない。ただ、
「別に死にたいわけじゃありません。ナフィル様は、死んで欲しくてこの王都に連れて来たのですか?」
と言われて、ナフィルは絶句した。
結局、皆自分の都合でものを言っていた。
ナフィルに説教をする資格は無かった。
「これからは、笑うことも出来なくなるわね」
それでも、最善の道を選ぼうと思う。
「そんなことはありません。知ってますか? 戦場でも、虚勢と冗談は許されるものなんです。敵を倒しながらもそれが許される。普通じゃ理解されないですよね」
不幸な未来が待っていようとも、それを望むのなら、その意思を尊重する。
いや、それを逃げ口上にしてはならないと、教わったはずだ。
曖昧のまま、生きていけるほど甘いものではない。
「明日、すぐにでもここを出ましょう」
「宜しいのですか?」
本当は自分が無理やりにでも連れ出したい気持ちを抑えて、アスリンが質した。
「別に逃げ出すんじゃないわよ? あれよ、まだ準備が出来ていなかったのよ。ご飯を食べるのだって、調理もせず、野菜の皮も剥かずに食べられやしないでしょ!」
だが、ナフィルは少し勘違いしたようで、むきになって言い訳しだした。
「・・・ふふ、そうですね」
アスリンはようやく顔を綻ばせて、賛意を示した。
「どういうことだ?」
たった今分かれて、宛がわれている自室に入ると、そこにユーリが待ち受けていた。
しかし、そこに立つユーリは、冷徹な表情で口元にだけ微笑みを湛え、これまでの雰囲気を一変させていた。
それは、当初感じた疑いに満ちた自称魔術師ではなく、度々覗かせていた人に在らざるものの姿だった。
気丈に振舞ってはみせるが、ビジットは生唾を飲み込んで、その存在の一挙手一投足を注視した。
「少しばかり誤解を解いておきましょう。ナフィルにとって必要なものであれば、それがどれだけ些細なものであっても、多ければそれに越したことはない」
「・・・言っている意味が分からんな」
しかし、そんなビジットの尊大な態度に気分を害する様子も無く、
「ナフィルには足りないものがある。でも、それを身に付けては意味が無い。効果的に補えれば良いだけのこと」
とユーリも意に反さない。
目の前に居ながらビジットを無視した言い様に、意図を計りかねて益々渋い顔となる。
「私に、ナフィル導師の手助けをしろと言うのか?」
おかしな話だ。
そう思うなら、そうすれば良いだけのこと。
どうしてナフィルよりも強いはずのこの魔女が、そんな回りくどいことをするのか。
表情には出さなかったが、ビジットは背中に冷や汗をかいていた。
魔法というものがどういうものなのか、未だに良く分からない。
しかし、魔法王国と言うものが実在し、魔術師が魔法によって神秘や奇跡を実現させていたと言うのは本当のことらしかった。
そうした話には、人間が様々に利用され、殺されたという話は多かった。
この目の前に居る魔女はそれを行えるのだ。
そして、ビジットの意思など無視をして、ナフィルの手伝いをさせることなど造作も無いことであるはずである。
わざわざ、それを承知するかどうかすら分からないのに、何を話して聞かせる気なのだろうか?
「魔術師はね、もうこの世界に干渉する気は無いの。いえ、国を奪うとか、人間を支配するとか言うことよ? 人間に関わらないという意味ではないわ」
自分に向けてではない、まるで独り言のようにそう言って、ユーリは禍々しいほどの笑みを浮かべていた。
「魔術師が秩序とは無縁だと思っていたのでしょ?」
それは恐らく、多くの人間がそう思っている。
お伽話の魔術師に、国とか法があっただろうか?
「じゃ、どうして魔法王国なんてあると思う?」
生物が集団で生活をするには、正しいかどうかはともかくとして、秩序が要る。
しかし、それと魔術師が重ならない。
魔法によって神秘や奇跡を実現するということに、決まりがあったろうか。
人を殺すのに、罪悪感や罪が問われるなんて言うことがあったろうか。
「好き勝手をしたら、この世界なんてとっくに無くなっていたでしょうね。でもそれは神の意思には沿わないもの。この世界の理に、魔術師による破滅はない」
ユーリは右手で髪の一房を手に取ると、それを弄び始めた。
「そうは言っても、魔術師も納得はしないわよね。でも、それを許したら世界は滅ぶ」
そう言って、ユーリはビジットの顔を値踏みするように見て、にやりと笑った。
ビジットは試されているのだと思った。
自分に利用価値があるのかどうか。自分がこの魔女の見立てに合うだけの才覚があるのかどうか。
「魔法王国が、魔術師を従えて世界への被害を防いできた、と言うことか?」
それは、官吏であるビジットには理に適っていた。
しかし、それは、空を自由に飛ぶ鳥を、かごの中に閉じ込めるようなことだ。
ビジットはその必要性を認めつつも、
「魔術と言うのは法の下で制約を課せられていた、と言うことか? それで、魔術師と言えるのか?」
そこに偉大な魔術師という姿は想像できなかった。
ビジットの答えに、ユーリは少し不満そうな様子を見せたが、髪を払うと不敵な笑みを見せた。
「魔術と言うのは、神々の起こした奇跡、神秘の技を再現する術よ。そこには、何より本人の資質と想念が必要なの。それを制限すると言うことは、その可能性や能力を妨げる」
自信を満面に湛えている。自分の考えを正当化している表情だ。
「違うわ」
と、ユーリは言い切った。表情は変わらなかった。
「自由であることは無限の可能性があるように感じるかもしれないけど、実はそんなこと無い」
ビジットは総毛だった。
この場から逃げ出したい、という不安と恐怖を感じた。
しかし、そうする必要は無かった。体は身動ぎすら出来なくなっていた。
「無秩序に動き回る可能性は、それほど意外ではないの。意外性の無い魔術師が神秘に近付く事なんてありえない。じゃ、どうしたら良い?」
ユーリの目に、狂気に似たものをビジットは見た。
「それは、かき混ぜるか、動かすしかないわ」
だが、ユーリは穏やかそうな笑みすら消し、ビジットは処刑される覚悟さえした。
「魔法王国は、一定方向に動く秩序なのよ。決められた秩序、決められた方向で意外性が生まれるかって? 枠を決められれば、方向が決められれば、必ずそれから外れてしまうものがある。分かりやすいでしょう? 魔法王国は、秩序を持ってそれに縛られない自由を得るのよ」
とても優雅な笑い方。
それは、ユーリの高貴ささえ持つ美しい姿には似合っていたのかもしれない。
しかし、この場にはとても似つかわしくない笑い方だった。
「あなたは」
ユーリは決められたかのように笑いを収めると、ビジットを見つめた。
まただ、この、頭の中を見通すような瞳。
「どうして自分を捨てて助けなかったの?」
質問の意味が分からない。
「自分の身内を護るため、自分の信念を捨てた。でも、それはあなたの秩序、だったんでしょう?」
何のことだ、とビジットは言った・・・つもりだった。
しかし、言葉は声にはならなかった。
ユーリが軽蔑をしたように、目を細めて冷たい表情をした。
死神という奴が、命を刈り取る刃を首筋に当てたような鋭利な感覚。
「・・・あなたの妻は、罪科を持つ追放された元貴族。上の子は、どこの下層市民とも知れぬ父親の子。下の子があなたの子」
ユーリの言葉に、それまで感じていた雰囲気は一掃され、ビジットは怒りで頭の中を熱くさせた。
「どうして知っている!」
気圧されていたはずのビジットは、怒気鋭く大声を発した。
その質問を、ビジットは無駄なものだと分かっていた。
相手は魔術師だ。知っていても不思議ではないのかもしれない。
だが、そう言わずには居れなかった。
ユーリは全く意に介した様子も無く、更に表情を冷たくする。
「あなたは、秩序の重きを知っていたはず。でも、自分の大事なものを護るためなら、それすら裏切らなければならないと知った。あの子供たちを見殺しにして分かったのではないの? 護れないものがある。護れない時がある。秩序とはそんなものよ。あなたが絶望したものなんて、取るに足らないもの。なのに、それを無視してあなたは何をしてるの?」
激しい怒りを感じていた。
はずなのに、何も言い返せない。
あの時、子供たちを見捨てる気は無かった。
「書記官、敵はすぐそこまで来ているのだ! 一刻の猶予もならない」
傭兵の隊長は、苛立ちを隠そうともせず、不毛とも思える形ばかりの説得を試みていた。
一方で、ビジットの意見など考慮しようともせず、既に撤退を決めていた。
「あの子供たちは見捨てられん。連れて行かなければ、ここでは殺されてしまう」
自分の考えで、村に残されていた孤児らを連れてきたのはビジットだ。
しかし、そのことで子供たちは殺されてしまうことになる。
それだけは避けなければならない。
時間稼ぎのため、迎え撃つことを主張する。
隊長は鼻を鳴らしてその意見を一蹴した。
「戦うことは私の仕事だ。敵はこちらの十倍。そして、ここは死守すべき重要な場所ではない。加えて、あなたを無事に連れ帰らなければならないのだ書記官!」
凶悪な表情を、見せ掛けの礼儀では隠し切れなかった。
隊長は吐き捨てるように、
「書記官をお連れして先に下がれ。ここを放棄する」
と副官に告げ、急ごしらえの物見台から降りていく。
その背を追おうとして、副官に腕を掴まれた。
「おい、放さんか」
「命令なんですよ、書記官」
副官はそう言って、ビジットを殴りつけた。
倒れたところを、兵士二人に押さえつけられる。
そこに、副官の蹴りが飛んだ。
痛みで意識を失いかける。
「手間を掛けさせるなよ。・・・今のうちに連れて行け。暴れるようなら、殺しても構わん。後で何とでも言い訳は出来る。それと、あのガキどもを始末しておけ」
それを、どこか遠くに聞きながら、ビジットの意識は切れた。
どうしようもなかった。
しかし、そうした責任は自分にあった。
自分の妻や子供たちを護るためだった。
そして、同じような悲しく、そして辛い目にあっている子供たちも助けたかった。
でも、自分たちを助けるのが精一杯だった。
権力だ。自分たちだけでなく、そうした子供たちを助けるには権力が要る。
「それはね、ナフィルも同じ。魔術師として力及ばず、見殺しにしてきたのよ」
そこに見たのは侮蔑の表情だった。
この魔女は決してそんな経験をしない。
敢えてそんな苦労や犠牲を必要としないのだ。
「私はあなたに何かしてもらおうとは思わない。何も期待しない」
そう言って、ビジットの横をすり抜け、部屋から出て行こうとする。
なら、どうしてそんな話をしたのだ?
疑問と、虚脱感で、ビジットは振り返ろうともせずそこに立ち尽くす。
ユーリはそのまま、何も言わずに部屋を出て行った。
観光2日目の夜「夢見の塔」
ここは、塔の中だったはずだ。
「ま、お座りなさいな」
岩山の山頂には全周が見渡せる石造りのゲストハウスがあって、ナフィルは塔の部屋に通されるなりそこへと飛ばされてきた。
勧められるまま、落ち着かない様子で応接用のソファーに腰を下ろした。
周囲は広大な樹海が広がり、麓には巨大な滝が瀑布となって激しい音を響かせている。
塔の中が丸ごと違う世界にでもなってしまったようだ。
「ここは世界が違うのよ。あの塔と直結した異世界。と言っても、夢見の塔の名の由来とは関係が無いけど」
ナフィルの想像を見越してか、ユーリが説明をする。
「ここは、未来と新たなものを観るところ。この世界は、元の世界から派生した一つの具現化した可能性・・・だったところよ」
「未来?」
そう聞いて、周りの風景を見渡す。
見たところでは、自分の世界と変わりないように見える。
「そうよ。自分のすることがどうなるか、それが分かるなら無駄な時間や犠牲を生むことは無いでしょ?」
であるなら、ここは、その結果ということなのか?
しかし、聞こえるのは獣のうなり声のような滝の音と、時折感じる風が切る音で、生き物がいる気配はまるで無かった。
「これと対になるのが、昨日居た星見の塔。星見の塔は、過去と古きものを観るところ。全てを生み出し、全てを無に帰す失われた星の海。この王都は、それを繋ぐ現実にあって、全てを移ろわせるところ」
ユーリの視線が、ナフィルからナフィルの背後に移る。
「ナフィル様」
いつの間にかミュエルが傍に来て、申し訳なさそうに声を掛けた。
「あの、タウスという人間なのですが・・・」
「何かあったの?」
ミュエルが口を開きかけて言いよどんだ。
言い辛そうな様子に、ナフィルは嫌な予感がした。
「私から言いましょう」
ユーリがさほども深刻な様子を見せず、
「あの人間、王都の魔力に飲まれたわ」
とミュエルとは対照的に簡潔に言った。
「まさか!?」
驚きと共に具体的な説明を求めてミュエルを見る。
「ナフィル様、この王都、幻想都市では、例え人間であっても、強い一つの望みであれば叶えられてしまうことがあります。それは僅かな魔力干渉能力によって引き起こされますが、同様に、その魔力に強く影響されてしまうことがあるのです」
「・・・知ってるわよ」
ミュエルが敢えてそうした話をしたのは、確認の意味と、そして冷静になるための間を取る為だった。
「あの人間、以前この王都で命を落とした人間たちの魂による魔力干渉、つまり記憶の残滓によって、自己を崩壊させました」
「魂に傷を負ったの!?」
ミュエルが悲しげな表情で頷く。
それはタウスに対してではなく、ナフィルの心痛に対してのものだ。
「あの男の願いは、人間としては真っ当な部類のものよ。ミュエルの分身の影響を受けたのね。肉体的干渉と王都の魔力によって、あの男の思いに分身が重ねた結果よ。そもそも感情抑制は掛けていたけど、与えられたり求められれば、極めて限定されているけどそれはミュエルには違いないもの。擬似的に魔術師的な思考を得て、ミュエルの分身が支援者としての能力を発揮した。これも、王都ほどの魔力と作為的な記録があればこそ」
それは、記録に記憶が添加されたされたようなものだった。
「エルバイオに殺された人間たちの魂は全て王都に飲み込まれ、その記憶は記録として残された。元は人間の魂が、生きている人間に強く影響することはよくあるわ」
「そんな・・・」
別にどこか気に入っていたわけではない。
が、全員を無事に連れ帰ることが出来なくなったことは、ナフィルには耐え難い仕打ちだった。
「別にあの人間だけではないわ」
ユーリが突き放すような物言いで言う。
「この王都に、魔術師ではないただの人間が無事で居られることの方が特殊なのよ。それは、ある意味ナフィルによって耐性が付いていた、とも言えるけど、干渉や認識に対する能力を高めてしまったとも言えるわ」
そう言ってから、ユーリは少しだけ表情を険しくして、
「ねぇナフィル、もしあの人間を助けたかったなら、それはあの人間に関わらないようにしなくてはいけなかったのよ。でも、そんなこと可能なの? 混沌の渦から生まれ出た私たちは、決して抗うことの出来ない時間の流れの中にいる。きっかけがどこかにあったとしても、その全てを監視し、操作することは神であっても叶わない。この世界に二つある絶対の理とは、時間を留めることが出来ないことよ」
と訴えた。
それはナフィルを説得すると言うよりも、ユーリが持ちかけた相談の様であった。
ユーリと視線が交錯する。
「そして、この世界は緩慢に滅びに向かっている。それを加速させることの無いように、魔法王国は存在していた」
「世界が、滅びる?」
唐突さは否めない。
今まで、自分と自分の周囲の話だった。
しかし、それがいきなり世界の話となると、ナフィルの思考の範疇を超える。
「どうして滅びるの!? いつ?」
ユーリは首を軽く横へと振る。
「魔術師であれば皆知っていることよ。まだ、遥か先のこと。もっとも、気付いた時にはもう遅いけどね」
いきなり殴られたような衝撃を受けた。
この時、ナフィルは自分が魔術師であることを忘れていた。
「防げないの!?」
「防げないわね」
あっさりと、ユーリは言い切る。
その当然の言いように、薄ら笑いさえ浮かべている表情に、ナフィルの言葉に力がこもった。
「どうしてよ? 魔術師でも防げないの?」
自分をすっかり忘れたナフィルの言い様に、ユーリは見下すように頬を吊り上げて微笑んだ。
「面白いことを言うわね。神々が作り出したこの世界を、神でもないナフィルはどう助けると言うの? 魔術師が集まったところでどうしようもないでしょう? 元々、この世界は滅びるように創られた。この世界の理は死と再生。でもね、限りある魔力よ? 再生するごとに失われていけば、いずれは無くなってしまう。それが世界の終わり」
その説明が分かりやすかったとしても、全く頭には入らなかっただろう。
「そんなことって・・・」
タウスのことは、自分の至らなさもあった。
しかし、世界となると、どうして良いのか分からなくなる。
自分のせいではないが、この世界を救う術も無い。
呆然とするナフィルに、ユーリは小さなため息をついた。
「ナフィルは魔術師なのよ。元はこの世界の人間だったのだから拘るな、と言っても無理でしょうけど、今はもうこの世界にだけ拘る必要は無いわ」
そうは言っても、それをすぐ割り切れはしないだろう。
この世界がいつ終わるのか、どう終わるのかは、ユーリでさえ洞察し得ない。
ただ滅んで無に帰すのか、全てが混沌の渦へと回帰するのか、何がしかの新たな世界を再生するのか・・・。
「まぁ、どうしようもないことにいつまで構っていても仕方ないわ。さて、本題よ。魔術師がこの世界から退去したのは、この世界に終わりがあるから。でも、この終わる世界に興味がある、あるいは、この世界に干渉しようとする魔術師はまだ居る。この世界に居る魔術師は、ナフィルを含めて41人。突然変異種は除いてね。この他に、ここ50年内にこの世界を出入りした魔術師が100人に達しない程度居る。こちらは何回も出入りしている魔術師が居るから、実数は30人程度だと思うけど」
ナフィルの表情を見て、ユーリはそこで話を区切った。
「理解しきれないかしら?」
そう、ミュエルに問う。
「もう少し時間をかけて言われたほうが宜しいようです。ナフィル様の常識、価値観や固定観念をそう簡単に書き換えられません」
ミュエルがナフィルの心を代弁した。
「・・・迂遠なことね。でも、一々衝撃を受けていたら魔術師とは言えないわよ。新しいものや覆すものを受け止められなければ」
と言ってから、両手を広げて大きく息を吐いた。
しばらく、沈黙が三人を支配した。
いや、完全な無音ではない。滝から聞こえる大量の水の落ち込む音が、部屋を満たしていた。
しかし、ナフィルの頭には届いていない。
ナフィルの頭の中は真っ白だった。
何がしかの答えが、もはや出てくることは無い。
王都を訪れて以降、ナフィルが搾り出された「答え」は多かった。
でも、その「答え」は、結局は全て同じなのだ。
そして、「答え」は出ていた。
その「答え」を果たすものが増えた。
それだけだ。
・・・それだけだ。
ナフィルの顔に冷静さが戻る。
その思考は、人に在らざるもの。人の認めならざるもの。
「あなたを、特別巡察官に任命するわ」
この、終始ナフィルの理解の範疇を超えるユーリの発言に、ナフィルは天災にでもあったかのように抗うことが出来ない。
「もっとも、私だけでそれを決める権限はないし、それを後押しする権威も既に無い。任期だって無い。でも、ナフィルだからこそ、この世界を任せられると思うの。この世界が滅ぶことは決まっていることだけど、魔術師による作為的な世界への干渉を監視し、妨げることを期待するくらい良いわよね?」
「・・・出来るわけないわ」
ナフィルは心からの思いを、ため息と共に吐いた。
「大体、どうして私なの?」
「言ったでしょ? 人間だったナフィルだからこそ適任だって」
本気なのだろうか? 未だにユーリの心理が読めない。
「実際には言うほど大した役割があるわけではない。ナフィルが活動しやすいかな、と思っただけよ。この世界の変革を望んでいない魔術師もいるし、神々の干渉もあるしね」
含み笑いをする。ユーリはまだ何かを隠している。そんな素振りを見せびらかしている。
「私に、何の得があるの?」
ナフィルは探りのつもりで聞いた。
「神樹の若芽をあげたでしょ?」
ナフィルが思い当たるのは、ミュエル以外に無かった。
「それと、ナフィルにとってはこちらの方こそ必要だと思うけど、白き魔女を追う口実が出来たわけよ。魔術師の邪魔をするには大義名分が無ければね」
そう言って楽しそうに笑う。
「彼女は今、どこに居るの・・・」
「自分の世界よ。ナフィルも知っている、ね」
興味なさそうな物言い。
それ以上聞くことはなかった。
ルミナスがどこで何をしているか知っていた。
それは自分の作り出した夢。リシュエスの意思を無視して、自分の望みを成し遂げた幻想。
ユーリは全て知っていて、敢えてナフィルをけしかけているのか?
「世界の記録という知識、ミュエルという魔力、巡察官という立場、ナフィルがこの王都に来て得たものよ」
もっと嬉しそうにしなさいな。自慢して良いのよ?
ユーリはそんな意味合いを込めて、ナフィル以上に楽しそうな笑みを浮かべている。
ナフィルは、それがからかっているのではなく、本当に自分事のように楽しんでいるのだと、ようやく気付いた。
それだけに始末が悪かったのだ。何しろ本気だったのだから。
全てを認められず、否定され、真実を突きつけられた王都。
・・・これで、全て終わったのだろうか?
編集済みのものが見当たらないので、直してないところがあるかもです。