伊東甲子太郎
「主さん、どうしなまんした。一杯、飲みなまんし」
太夫に酒を勧められ、藤田は我に返った。
上官に誘われ、嶋原に遊ぶこととなったのだ。
中之町輪違屋、紅葉の間。
壁一面にあしらわれた紅葉は、本物で型をつけ、彩色したものだという。蝋燭の灯りに照らされた紅葉が、仄かに浮かぶ。
この店は、かつて養花楼という名の置屋であり、揚屋を兼ねたのは五年前だというから、覚えがないのも当然である。それでも、久方振りの太夫の接待に、当時を思い返す。
そういえば、馴染みであった桔梗屋の相生太夫が、この街から祇園に移って芸妓となったのは、あの事件の起こる前であった。確か、伊東が落籍いて休息所を持たせた花香太夫は、元はこの店の、養花楼の抱えであったはずだ。
当時と変わらぬ、嶋原という場所の所為もあるのだろう。
今朝の出来事を夢と片付ける気にはならず、藤田は明日の職務を理由に、大門が閉じる前に輪違屋を辞した。
上弦の月が、静まり返った夜路を照らす。カンテラを手に、目的の場所へと急いだ。
七条から油小路を下る。
一陣の風が吹き、灯が消えた。
尼寺の門前が仄かに光る。
それは次第に輝きを増し、人の形を作った。
『久し振りだね、斎藤君』
言葉が、脳に響いた。
男にしてはやや高く、自尊心に満ちた声。
白く整った容貌。
黒羽二重の羽織袴。
見紛うはずもない。
「伊東さん。貴殿、やはり……」
『君とは一度、御手合わせ願いたいと、思っていたのだよ』
その瞬間、伊東の愛刀である三郎兼氏が、閃きを見せる。藤田も、自身の得物に手を掛けた。
先に仕掛けたのは、伊東であった。上段から鋭い切っ先が迫る。
藤田はそれを斜め前方に避け、同時に抜刀。振り下ろしたサーベルが、伊東の躰を捉えた。しかし手応えはなく、相手の剣先がこちらを睨む。
『流石、斎藤君。僕に実体が有れば、斬られていたよ』
伊東の姿が、一瞬揺らめく。
『でも残念ながら、君には斬れない』
「俺を、殺すのか」
構えを崩さぬまま、相手を凝視して問う藤田だが、彼は三郎兼氏を鞘に収めると、傍らの門派石に腰を下ろした。
『今の君に、藤田五郎と云う官憲に用は無いよ』
伊東は、その長い指を懐へ差し入れ、扇を取り出す。
開かれたそれには、一枝の紅梅。
生前の彼が愛用していたものと気付き、藤田は自分の得物を収めた。
「では何故、姿を現した」
『何故って、君が物問いた気な顔をするからだよ。折角、出て来てあげたのに』
「それは足労だった。が、貴殿に訊くべき事はない」
素気ない回答に、伊東は在りし日と変わらぬ笑みを湛えた。
『嘘はいけないな、藤田警部補。十年前、何故僕が、近藤さん達に一人で会いに行ったのか、知りたくはないのかい』
「一応、聞いておこう」
藤田は、それが通じる相手ではないと知りながら、動揺を隠す。
『本当に、素直じゃないね、斎藤君。でも、せっかくの機会だから、特別に教えてあげるよ。君と、新選組を試したんだ』
僅かに瞠目する藤田の前で、伊東は扇に目を遣り、それを閉じる。
『君が、土方君と通じている事は解っていた。近藤さんを暗殺する計画を、君が彼らにもたらしただろうことも。けれど、折角の招待に怖れを為したとあっては、武士の恥だろう』
顔を上げた伊東の鋭い視線が、藤田に向けられる。
『それに、何より僕は、本当に君を仲間にしたかったんだ。君は、近藤さんや土方君に、忠誠を誓ってはなかっただろう』
「そうだな。だが俺は、とうに主を決めていた」
二人の視線が重なる。伊東が、目を細めた。
『それが僕の、唯一にして最大の誤算だったよ』
東から、黎明の光が差し込む。
次第に形を見せる町に、伊東の姿が徐々に融ける。それが完全に消えると、石の上にはただ、紅梅の扇が残った。