斜めのカウンター
変わらぬ良さというものもある。
お銚子を置くと、つつツーとすべりそうになる。 そんなカウンターがある居酒屋であった。 居酒屋百選にも載った店であった。 僕は「どこが?」という感じであった。
居酒屋のカウンターは斜めになっていた。年代物の厚い木のカウンターであった。 日本酒の兆子を置くと、ツツーと滑り落ちそうであった。実際にはそうはならない。
人間の視覚はちょっとした歪みや、角度をオバーに捉える。
「粋やナー、わざと斜めに作ったのですか?」と訊いた。
「なんぼなんでも、そんな作りはしまへん」とカウンターの向の女将は笑った。
「年数が経って、自然とそうなったんです」と板さんが答えた。
場所は神戸、三宮。阪急高架下。 長年の電車の振動でそうなったという。足元のコンクリートの床を見た。 床の中央部が軽く凹んでいるのだ。 そりゃそうだろう。なんぼなんでも、最初から斜めのカウンターを作りはしない。 自分の言った言葉に思わず笑ってしまった。
女将が笑うのは無理がない。 「この客は何ととぼけているのか?」と思ったのに違いない。
この居酒屋は家族でやっている。女将といったが、〈おカーチャン〉と言った方がお似合いだ。
息子はお燗係。兆子の加減を見たり、ビールの栓を抜いたりするのを専らにしている。おカーチャンは洗い物係兼フロアー係と云ったところだ。 板さんは、息子ではなく、親戚筋だという。
この店の主は店内にはいない。専ら店先の硝子戸の前にいる。〈客の呼び込み?〉ではない。酔っ払った客を断る係りである。
周りはバー、居酒屋、飲食店が一杯ある神戸一番の盛り場である。飲んで帰りに、寄っていこうとする客がある。既に出来上がっている三人組の客がある。店に入ろうとすると、主は「満席です」と無愛想に言う。 客は背伸びをして、すりガラスの上の店の見える部分から覗き込む。
「空いてるやないか!」というと、
「予約ですんや」と答える。 酔っ払った客が嫌いなのだ。酔うならうちで酔えと言うことらしい。
板さんは、でっぷり太っている。出っ歯で、大の阪神フアンだ。
何時もTVのナイターが映っている。阪神が点を取ろうものなら、手は休めないが、大きな口を開けてエールを送る。その度に、料理に板さんのおつゆが多少かかる。それさえ我慢出来れば、料理は旨くて安い。
客は高架下の店主。高架から山手にかけてのバーに飲みに行くのに下地を入れるサラリーマン。そしてこの店をこよなく愛する常連たち。
主が無愛想なのに比して、おカーチャンは無茶苦茶愛想がいい。世の中は上手くなっているものだ。
「息子に料理を少しは手伝わせればいいのだが…」と思うのだが、息子にその腕はないらしい。息子は30を過ぎているが、独身だ。当分、嫁は来そうな感じがない。
店は、古い造り酒屋の大看板や、日本髪を結った着物姿の懐かしいポスターが貼られている。この店の主は、灘の中堅どころの造り酒屋の次男で、造り酒屋の跡は長男がとっているとのことだ。
○○酒店という名前は同じだ。店の前には○○酒店と書いた菰樽が段重ねされている。それらが無かったら、殺風景極まりない高架下の居酒屋になる。別に殺風景でもいいが、トイレの戸板ぐらいは新しくしてもらいたい。
週に2日程度は通っていたろうか。私はここに行くときはもっぱら一人だ。会社の連中と飲むときは、他の居酒屋を使う。ここまで会社の延長になるのは嫌だ。斜めのカウンターで板さんとタイガースの話題で飲む。
2年ほど転勤で神戸を離れていた。帰って来て、久しぶりのこの店に顔を出し、斜めのカウンターに座った。女将は愛想良く「久しぶりやわー。元気されていたんですね」と言った。
以前と店の雰囲気がまるで違う。若い娘たちで一杯なのだ。店は殺風景どころか娘たちで賑わい、華やいでいる。高架下の店主も、馴染みの客の顔が見えず、落ち着かない。
「女性誌にレトロな居酒屋として取り上げられたんですわ」と女将は言った。
ビール瓶を1本空けて、僕はトイレに立った。 「おカーチャン、あのトイレの戸ぐらいなんとかせんと」と云った。
「1年もしたら、あの娘らは来んようになります」とおカーチャンは言った。
1年が経ったら、その通りになった。 又、元の客たちの店に戻った。
「居酒屋100選」という本にも取り上げられたが、別段それ程の店とは思わなかった。この店を1番に取り上げるこの本の作者はよっぽど変わっている人だと思った。
変わらぬことだけが取り柄の様な店である。何時ものメンバーが何時もの仕事を淡々とこなす。季節によって変わるメニューはあるが、十年一日のごとくメニューは変わりはしない。変わるとすれば家族の歳が行くぐらいだ。おカーチャンの頭もめっきり白くなった。
平成7年、神戸淡路大震災があった。高架はへしゃげ、暫く電車は不通となった。 新聞の震災特集で、この店の板さんが震災を語り、新しく三宮の別の場所で独立した事が書かれてあった。
私は神戸のアパレルの会社を辞め、父亡き後の大阪の婦人服店を継いでいた。長年、この店には行っていなかった。 神戸の西に母が住んでいたが、三宮は何時も素通りだった。高架も復旧され電車も通い、高架下は新しくなった。
この店に行きたくなって、三宮で途中下車をした。
新しい高架下の、新しくなったこの店は、息子が板さんとして料理をやり、最近貰ったというお嫁さんが〈おカーチャン〉の代わりをしていた。おカーチャンは亡くなり。無愛想な店主は病院生活だという。
料理はそこそこだったが、何より、店が昔の面影の断片すら留めていないのが淋しい。せめて、あの看板と日本髪美人のポスターぐらいは残して置くべきだ。 斜めのカウンターは無理としても・・・。
*今写真で見ると昔の看板がかかっていた。建て替え当時はなかったのか、2階までできて、余りの変わりように気が付かなかったのか。