3.
気を取り直して次の文章に進みたいと思います。
「そこで、いまや私たちは、はじめとじこめられているように思われた循環論から、ついに解放されたわけだ。一般化するためには類似を抽象せねばならないが、有効に類似をとり出すためには、すでに一般化することができねばならない、と私たちは言った。本当は、循環論法などありはしないのだ。精神がまず抽象するさい出発点とする類似は、意識的に一般化するとき到達する類似ではないからである。精神の出発点となるそれは、感ぜられ、生きられる類似、あるいはお望みとあらば、自動的に演ぜられる類似である。精神の帰り場所であるそれは、知的に認知され思考される類似である。そしてまさしくこの進行中に、悟性と記憶力の二重の努力によって、個体の知覚と類概念が構成される。――記憶力は自然発生的に抽象された類似に差別をつけ加え、悟性は類似による習慣から明晰な一般性の観念をとり出すのである。」(181頁)
ここで私の目を引く言葉は「循環論」以外にありません。そこから解放されるということは、両立しないはずの二つの理論を束ねるような、あるいは両者を根本から蹴散らしてしまうような第三の理論が語られるのだということです。私は現代哲学というものに多少とも興味を持っていますが、それらの仕事で共通しているのは、これまで難問とされてきた哲学的課題に対して別の視座で取り組む姿勢です。それは【批評】という言葉で言い表されるかと思うのですが、ベルグソンもそうした批評家の一員なのではないかという、ちょっとした期待感も抱かせてくれます。
さっそく読解に入ろうと思います。「はじめとじこめられているように思われた循環論」とは何なのか、続く文章で簡潔に説明されています。つまりそれは、「一般化するためには類似を抽象せねばならないが、有効に類似をとり出すためには、すでに一般化することができねばならない」論法のことです。Aを行なうためにはBが必要だが、Bを行なうにはAが必要だという、入口も出口もない閉塞状態を思い浮かべるとわかりやすいです。
考えるべきなのは、こうした論法がどこまでの範囲を含んでいるのかという点です。具体的に言うと、1.や2.で取り扱った内容が含まれているか否かという点です。もし含まれていれば、私は今までやってきた読解を全てかなぐり捨てる覚悟を持たねばなりません。彼が過去の遺物として追いやろうとしているものが何なのか、慎重に読み進めていく必要がありそうです。
つづいてベルグソンは、循環論が無いと言い切るための根拠を語ります。「精神がまず抽象するさい出発点とする類似は、意識的に一般化するとき到達する類似ではないからである」。前半部分の「類似」と後半部分の「類似」は、それぞれ別の意味合いで用いられています。前半部分を「類似の漠然たる感じ」、後半を「類似の知覚」に当てはめると、内容の整合性は取れるでしょうか? ここは焦らずに、彼の言葉をじっくりと追うことにしましょう。
「類似」に関するベルグソンの説明は極めて明快です。「精神の出発点となるそれは、感ぜられ、生きられる類似、あるいはお望みとあらば、自動的に演ぜられる類似である。精神の帰り場所であるそれは、知的に認知され思考される類似である」。ここで注目してしかるべきは「演ぜられる」という表現です。それは1.で疑問点として取り置かれたままだった、「その生活を真に表象するかわりに、たえず演じている」の「演じている」と同じ言葉づかいになっています。
その二つの文章を使って【演じる】とは何なのかを調べてみます。まず、今回の文章により【演じる】が「精神の出発点」とセットになって語られるらしいこと、「感ぜられ、生きられる」と同義であることが判明します。そして1.の文章から、「表象」とは反対の意味であるらしいこともわかります。
ところで、先ほどの引用文「精神の出発点となるそれは[…]知的に認知され思考される類似である」に出てくる二つの「それ」は、それぞれ別の「類似」を指していると理解できます。前半部分に関しては、「類似の漠然たる感じ」を意味していることは間違いないでしょう。2.の引用文において、「類似の漠然たる感じから出発するように思われる」と言われているのが確認できるからです。
では後半部分はどうなのか。「知的に認知され思考される類似」とは何なのか。先ほどの予想を流用すれば、「類似の知覚」が適切な気もします。ですがここは、2.で現れた「類概念」に置き換えてみることにしましょう。そうすることで、2.の疑問点である、「類概念」と「類似の漠然たる感じ」とはどう違うのかについて調べることができるからです。一旦違うものであると仮定し、内容に齟齬が出てくれば、両者は同じものであるという反対の結論を得ることができます。
内容を初めから整理してみます。1.において、「この記憶力を、その全所産とともに斥ける人」が語られていましたが、この二種類目の人間存在は「類似の漠然たる感じ」を有しています。なぜなら、この存在は「その生活を[…]たえず演じている」という性質を持ち、「演じる」という共通の言葉から、3.において語られている「精神の出発点であるそれ」と一致するからです。「それ」が「類似の漠然たる感じ」を意味しているらしいことは、既に確認してあります。
そうすると、「類似の漠然たる感じ」と「類似の知覚」が同じ意味であるということが判明します。「後者は類似の知覚に表現されるが」と言われていますが、「後者」は「類似の漠然たる感じ」を持つ人間存在であると置き換えることが可能だからです。以上の分析から、1.の「この記憶力を、その全所産とともに斥ける人」が「精神の出発点」であるということがわかりました。同時に、181頁の引用文に出てくる二つの「それ」のうち、後半部分が「類似の知覚」ではないということもわかりました。
一方で、もう一種類の人間存在はどうでしょうか。つまり、「自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在」のことです。こちらは【類】そのものと完全に相容れない存在です。【類似】に関する言説自体、付与されていませんし、むしろそれとは逆の意味を表す「特殊」だとか「個別的」だとかいう表現が徹底して使われています。
疑問にすべきなのは、こうした人間存在に対し、「個体の知覚」という能力を付与していいのだろうかという点です。もし付与できるのであれば、2.や3.で言われている「個体の知覚」と「類概念」は別である、ということになります。なぜなら、こうした人間存在は【類】そのものと相容れない存在だからです。
そもそも「類概念」は、1.の引用文のどこに当てはめられるのでしょうか。現在、「類概念」と「類似の漠然たる感じ」は違うものであるという仮定で話を進めています。とすれば、「この記憶力を、その全所産とともに斥ける人」のところにはないことになる。さらに、「自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在」のところにもないことがわかる。理由は先ほど説明したとおり、【類】そのものを受け入れないからです。
となると「類概念」は、「知的に認知され思考される類似」はどこにあるのか。消去法により、答えは一つしかありません。我々が存在を予告しておいた、第三の人間存在です。自分の生活を真に生きる=表象することのできる人間のことです。彼は一種類目と二種類目、それぞれの存在の混交で成り立っています。「まったく観想的な記憶力」と「まったく運動的な記憶力」どちらの性格も有しています。
ここで、【一般観念】なるものの正体が明らかになります。「二つの流れの合流点に、一般観念があらわれるのである」。合流点にいるのは第三の人間存在です。彼は「類概念」を有しています。つまり、【一般観念】とは「類概念」のことである、という公式を導き出すことができます(ただ、「類概念」とは【一般観念】である、ということでは必ずしもない)。今のところ内容に齟齬は見つからないので、このまま話を進めていきます。
2.において、「一般観念の明晰な表象が知性の彫琢である」と語られています。【表象】という共通の言葉から、これが第三の人間存在、すなわち自分の生活を真に生きる=表象することのできる人間に関して言われていることであると捉えることができます。【一般観念】が彼のもとにあるという事実も再確認できる。
では次の、「個々の対象の判明な区別が知覚のぜいたく品である」はどうでしょうか。「~のと同じく」という接続語を信用すれば、こちらも第三の人間存在について言われていることになるでしょうか。「個々の対象の判明な区別」は、「個体の知覚」と同義である。「個体の知覚」と【一般観念】すなわち「類概念」の関係性がわかれば、この性質がどこに所属しているのかをより明らかにすることができます。
五文目には「個体の知覚」と「類概念」が出てきます。これらは果たしてどのような関係なのでしょう。同じであるとも言えるし、違うとも言えそうです。そもそも、この二つがどういう関係であるかを確認する手立てはあるのでしょうか。2.の引用文で言われているように、どちらから出発してもうまくいかないような、そんな漠然たる不安感を感じます。
ここで私は、ベルグソンが3.で「循環論」の話をしていたことを思い出します。「一般化するためには類似を抽象せねばならないが、有効に類似をとり出すためには、すでに一般化することができねばならない」。ここで語られている二つの関係性について、我々はもはや、「類概念」と「個体の知覚」に書き換えることができます。なぜなら「一般化」すなわち【一般観念】は「類概念」を意味し、「類似を抽象」、つまり差異を作り出す機能は「個体の知覚」に求められると理解できるからです。
Aを行なうためにはBが必要だが、Bを行なうにはAが必要だという説明を私はしました。確かにそうなのですが、循環してしまう真の理由は、AもBも元々は同じCだからであり、自らの存在理由を自らに根拠を置いているからではないのか。つまり、「個体の知覚」も「類概念」も、最初は同じところから出生したものである、という捉え方です。
その出生元として、「類似の漠然たる感じ」つまり「中間的認識」が出てくるわけです。精神はここから出発し、帰り場所である「知的に認知され思考される類似」のもとへと旅立っていく。「精神の帰り場所であるそれ」とは「類概念」あるいは【類】そのものであるはずです。そのさなかに「個体の知覚」が生まれるという構図に直すとわかりやすくなるでしょうか。構図に還元できるほど、ベルグソンが語ろうとしていることは単純なのかという不安は拭えませんが、ひとまずそのように捉えておこうと思います。
3.の引用文に戻ります。続く文章において「まさしくこの進行中に」とあります。それは精神が出発点としての「類似の漠然たる感じ」から、その帰り場所としての「類概念」つまり【類】そのものに移行するさなかに、という意味になります。ここでは「悟性と記憶力の二重の努力」がなされるらしい。結果「個体の知覚と類概念が構成される」。ずいぶんな遠回りでしたが、ここにきてようやく、仮定が真であることを根拠づける言明が、ベルグソン自身の口から聞けたわけです。「個体の知覚」と「類概念」の関係性については、「循環論」のところで説明しました。
最後に、精神の旅においてなされる二つの努力に関する補足が加えられます。「記憶力は自然発生的に抽象された類似に差別をつけ加え、悟性は類似による習慣から明晰な一般性の観念をとり出すのである」。
「自然発生的に抽象された類似」は「類似の漠然たる感じ」を表しています。肌で感じ取る、生理的な類似感覚のことです。これに「記憶力」の働きが加わると、時間、空間などの差別が記入され、一つひとつの詳細な出来事として、「認知され思考される」。「類似による習慣」も同じく、生理的な類似感覚を意味していると言っていいでしょう。出発点は同じです。ただ、「記憶力」と「悟性」、二つの異なった機能に働きかけられることで、一方では「個体の知覚」という能力を手に入れ、他方では「明晰な一般性の観念」、言い換えれば【類】そのものへ、さらに言えば【一般観念】へと到達する。
「悟性と記憶力の二重の努力」に関して、一旦2.に戻ってみます。「じっさい一般観念の明晰な表象が知性の彫琢であるのと同じく、個々の対象の判明な区別が知覚のぜいたく品であることは、アプリオリにみとめられそうである」という文章。前半部分を「悟性」に、後半部分を「記憶力」に当てはめてみれば、内容の見通しがさらによくなります。「ぜいたく品」という比喩についても、「個々の対象の判明な区別」が人間に基礎的に備わった能力というより、精神が旅をする中で入手することになる余剰品、という理解への道が開けます。「一般観念の明晰な表象」も同様です。我々は、自然界では本来不必要とされている能力を、精神の働きによって得てしまったらしいのです。
同じく2.の引用文、「反省的分析がこの感じを一般観念にまで洗い清め、識別的記憶がそれを個体の知覚にまで固定するのである」においても、「反省的分析」を「悟性」に言い換えれば、より理解がしやすくなります。2.の実際の分析において、私は「中間的認識」→「反省的分析」→「識別的記憶」という構図を取り出しましたが、これが間違っていたこともここにきて判明します。「反省的分析」と「識別的記憶」、両者は重なり合いつつ、精神に働きかけていくのです。
精神の旅というものはどこまで続けられるでしょう。終着点は確かに設定されています。ですがおそらく、我々は生きている限り、ずっとこの旅を続けなければならないように思えます。本当に終わることがあるとすれば、それは我々が肉体的な死によって、旅の中止を余儀なくされる場合です。そして旅の道程が、ただ前に進むばかりではなく、実際は行きつ戻りつしているのだということも、何となく想像することができます。
何より大切なのは、我々がそのようにして、絶対に終着点には到達できないのだということだと思います。「循環論」はそのことを忘れた思考のなれの果てである、という風に言えるかもしれない。そうではなく、人間は常に未完成であり、そうした存在容態こそが人間の正常な在り方である。ベルグソン自身そう主張をしているかどうかは知りませんが、過去の歴史を振り返ってみても、逸脱した思考に踏み入れることがどれだけ危険なことであるかを念頭に入れておくべきであると、私自身は感じます。