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2.

 次に私を射止めたのは以下の文章です。


「じっさい一般観念の明晰な表象が知性の彫琢であるのと同じく、個々の対象の判明な区別が知覚のぜいたく品であることは、アプリオリにみとめられそうである。類の完全な把捉はおそらく人間の思考の特徴であろう。それは、表象から時間と空間の特殊性を消すための反省の努力を必要とする。しかしこの特殊性についての反省、それなしには対象の個性が私たちから逃げ失せてしまうような反省は、差異に注目する能力、それゆえにまた、たしかに人間と高等動物の特権であるイマージュの記憶力を予想している。だから私たちは個体の知覚からも類概念からも出発するのではなく、中間的認識、すなわち特徴的性質あるいは類似の漠然たる感じから出発するように思われる。この感じは、完全に把捉された一般性からも判明に知覚された個性からも同様に遠く、分解によっていずれをも生み出すのだ。反省的分析がこの感じを一般観念にまで洗い清め、識別的記憶がそれを個体の近くにまで固定するのである。」(178,179頁)


 他の読書家にも当てはまることかもしれませんが、私が何かしらの文章に着目する時、それはこちら側の意識を動揺させるような物言いがそこに現れる場合です。書かれてある内容よりも先に、私はその手の字面のみに神経を研ぎ澄ませます。それは私自身が著者に対して勝手に抱く理想的なイメージとかけ離れていればいるほど良い。今回の例で言うと、ベルグソンが「ぜいたく品」などという比喩を用いることを、誰が予想できたでしょうか。そうした俗的な興味を心ゆくまで堪能した後、着目した言葉を含む文章が、わざわざ時間をかけて書き写すに足る内容のものであるかを判断するのです。

「書き写す」について、少々の補足が必要かと思われます。面白そうな書物を読もうという時、私はペンと大学ノートを準備し、気に入った文章を書き抜くことを、2015年の秋頃から習慣的に行なっています。『物質と記憶』に関しては、おおよそ6頁分の引用文がページを埋め尽くすことになりました。もし書かれてある内容がピンとこなかったとしても、自分の選択を信じ、また将来の私がその内容をきっと解明してくれるものという期待を込めて、面倒な作業を逐一行なっているわけです。今回のように、書き写した文章をパソコンに打ち直し、精神記としてまとめるという作業は初めての経験でしたが。


 内容に入ります。とはいうものの、ここの部分は1.で引用した文章を補足する意味合いが強いように思えます。一文目に関しては、書かれてある内容がどういうものであることを目くじらたてて捜索する必要はあまりなく、今のところはただ、これから著者がどういう方向性でものを語ろうとしているのかを把握できればそれでいいのだろうと思います。

 実際の議論は二文目から始まります。そこでは「類の完全な把捉はおそらく人間の思考の特徴であろう」と語られています。1.で得られた成果をさっそく当てはめていくと、「類の完全な把捉」が三種類目の人間存在にまつわる特徴らしいことがわかります。なぜならこの文章は、おそらくは人間一般について語られたものだからです。続く文章では「表象から時間と空間の特殊性を消すための反省の努力を必要とする」と言われています。ここに出てくる「時間と空間の特殊性」は、同じく1.で確認した一種類目の人間存在に妥当するようです。

 そのようにして考えていくと、今回の引用文で著者の目指しているものが浮き彫りになってきます。自分の生活を真に生きる=表象することのできる人間が、極限状態である二つの人間存在をどのような状態で所有しているのか、その具体的な分析です。まず人間とは「時間と空間の特殊性」を何らかの対象について持つ存在であり、これを消すための努力がなされることで、「類の完全な把捉」、つまり人間の「思考」なるものが現れてくる。

 後の文章でも似たような主張が確かめられます。「この特殊性についての反省、それなしには対象の個性が私たちから逃げ失せてしまうような反省は、差異に注目する能力、それゆえにまた、たしかに人間と高等動物の特権であるイマージュの記憶力を予想している」。ここで言われている「反省」は、直前に言われていた「類の完全な把捉」をするための条件です。そして人間が「反省」をすることが可能なのは、我々にあらかじめ「イマージュの記憶力」が備わっているからに他ならないと主張されています。二、三文目では「類の完全な把捉」から出発して「反省」の能力を導き出し、四文目ではその「反省」能力から、「差異に注目する能力」つまり「イマージュの記憶力」を導き出しています。

 相変わらず【イマージュ】なる考えを無視したまま読解を進めていきますが、二文目「類の完全な把捉は~」と四文目「しかしこの特殊性についての反省~」は内容的に繋がっています。五文目の「だから私たちは個体の知覚からも類概念からも出発するのではなく」という言葉を参考にすると、二、三文目と四文目で言われていることは、それぞれ出発点が異なっているという風にも受け取れる。

 ですが、私が今回引用した文章、構文としてあまり褒められたものではありません。普通に考えれば、五文目の結論は二、三文目で言われていることと四文目で言われていることが両立しないからこそ成立するものであり、現状のように同じ内容の言葉を繰り返すだけでは、主張されている結論に達することができません。二、三文目の議論は「類概念」から出発し、これを成り立たせるための条件として「反省の努力」を予想している。続く四文目では「反省の努力」から出発し、努力をするために当然有していなければならないものとして「イマージュの記憶力」を予想している。ところで1.によれば、「記憶力」とは「個体の知覚」を意味します。なぜなら1.で引用した文章の中で、「個別的なもののみを視界の中にとらえるまったく観想的な記憶力」と言明されているからです。

 そうすると、「類概念」を得るためには「個体の知覚」が必要である、という一つのテーゼを得ることができます。これは「類概念」から出発した場合に得られる主張です。

 この時点ではまだ、五文目の結論を成り立たせるための片方部分しか揃っていないことになります。もう片方を得るためには、「個体の知覚」から出発した場合を見なければならない。それは「個体の知覚」を得るためには「類概念」が必要である、というテーゼを得ることが可能な内容であるはずです。先ほどとは違い、「個体の知覚」から出発した場合に得られる主張です。

 私は178,179頁を引用しただけですので、それ以前のページにどのようなことが書かれていたのかはわかりません。そこにはもしかすると、「個体の知覚」から出発した場合の「類概念」、に関する説明が出てきているのかもしれない。でなければ、五文目の結論を成り立たせるための二つの条件のうち、一つが欠けたままになってしまうからです。一見内容とは無関係に思えた「じっさい」という接続詞が、私のそうした期待を少しでも満たしてくれるものとなるでしょうか。

 いずれにせよここで大切なことは、我々にごく普通に備わっているはずの「思考」なるものが、何かものを記憶する能力を前提としなければ成立しえないようなものであるということが主張されていることです。文の構造が悪いにしろ、こちらの読みが浅いにしろ、それだけは確実に言えることです。


 五文目に入ります。「だから私たちは、個体の知覚からも類概念からも出発するのではなく、中間的認識、すなわち特徴的性質あるいは類似の漠然たる感じから出発するように思われる」。言い換えると、「個体の知覚」と「類概念」、どちらも人間の能力には違いありませんが、どちらか一方をもう一方の上や前提においても、人間をうまく説明できない。そうではなく「中間的認識」「類似の漠然たる感じ」から人間というものは始まるのだという説明が理に適っている。こういうことになるでしょうか。

「中間的認識」「漠然たる感じ」がどういうものかは、次の文章で補足がなされます。「この感じは、完全に把捉された一般性からも判明に知覚された個性からも同様に遠」いものであるということ。つまり「個体の知覚」や「類概念」とは限りなく別箇のものである、ということです。中間的とは両者の性質の混交物ではなく、独自の機構に沿うものである。そして分解という能力を用いることによって「いずれをも生み出す」ものである。その分解方法とはどのようなものか。「反省的分析がこの感じを一般観念にまで洗い清め、識別的記憶がそれを個体の知覚にまで固定するのである」。このようにして178,179頁の引用文は閉じられることになります。

 ここで、大切なことが三点あります。一つ目は先ほど判明したように、「中間的認識」が「個体の知覚」とも「類概念」とも違う、まったく別の機構であること。二つ目は、「反省的分析」がまずあって、その後で「識別的記憶」が働き出す、ということ。そして三つ目は、引用文の中に【一般観念】なる語が現れていることです。

 最後の補足内容を頭から信じれば、ベルグソンが思い描く発生の順番は「中間的認識」→「反省的分析」→「識別的記憶」であるようです。この構図は、先ほど分析した二~四文目の構図とは正反対に見えます。そこでは、「類概念」を得るためには「個体の知覚」の反省を要する、ということが言われています。発生の順番に直すと、「個体の知覚」→「反省」→「類概念」、ということになる。

 言われていることは正反対の事実ですし、「個体の知覚からも[…]出発するのではなく」とあらかじめ断られている以上、二~四文目で得ることのできる構図は、五文目以降の構図とは関係のないものかもしれません。ですが「反省」を軸にして両者の図を眺めてみると、ほぼ対応の取れた対称的な図であることがわかるかと思います。ベルグソンはもしかすると、「類概念」と「中間的認識」を混同して考えているのではないか。そのような疑いが浮上してきてしまいます。

 本文では確かに、「類概念からも出発するのではなく」という断りの後で「中間的認識」が現れてきます。ですがその直後に「類似の漠然たる感じ」なる表現が出てきている。「類概念」と「類似の漠然たる感じ」がどう違うのか、ここを明らかにしない限り、今回の引用文の主張を読み取ることは難しく思います。現時点では、両者が混同されていないことを証明するに足る、具体的な根拠に欠けています。

 ひとまず三つ目に入りたいと思います。【一般観念】という言葉の出現についてです。1.で引用した文に戻ってみると、そこではこう言われています。「前者は差異の記憶に表現され、後者は類似の知覚に表現されるが、二つの流れの合流点に、一般観念があらわれるのである」。つまり、「差異の記憶」と「類似の知覚」がまずあって、その合流点に「一般観念」が現れる、という説明になっています。一方で今回の引用文を解読すると、「中間的認識」あるいは「類似の漠然たる感じ」がまずあって、「反省的分析」が「一般観念」を浮上させる、ということになっている。

 両者を繋ぎ合わせることは可能でしょうか。「中間的認識」は、「個体の知覚」からも「類概念」からも限りなく遠いものであるはずです。「差異の記憶」と「個体の知覚」、「類似の知覚」と「類概念」、それぞれを対応させることは可能でしょうか。この辺の詳細は気にしすぎるものではないのかもしれません。ただ、1.と2.の内容を照らし合わせてみた時にこういう点が浮き彫りになるということを、メモ書き程度に残しておくのは損にはならないでしょう。


 私は175頁で確かに、この『物質と記憶』という書物に心を惹かれたはずなのですが、ここにきて早くも、自分のその思いに疑問を抱かざるを得ませんでした。「ぜいたく品」という言葉に惑わされ過ぎたのかもしれません。あるいは、自分が想定していたのとは異なった読書方法を、書物の側から強いられているのかもしれません。

 今回は文章の論理性に関して、少しばかり否定的な見解を示しました。ですがそれは、こちら側の読解可能性を引用文のみに限っているからできたことです。先ほども言ったように、「じっさい」という接続詞の前に書かれてある内容次第で、文章の論理性に関する不満のうち半分は解決しそうな気がします(もう半分は単に私自身の読解力不足)。2.における作業がすべて無駄であったとは私は思いませんが、ベルグソンには少し悪いことをしたなという後悔の気持ちは拭い切れません。


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