第6話 黒と灰の風景
何というか…暗い話です。
正常な思考が出来ない頭で、ただ母の今際の言葉に従って彼女の薬指から円環を抜き取った。前所有者を示す何か残り香のようなものを期待したが指輪は指輪であり宝石は宝石であるだけで、無機物からは何も感じ取ることができなかった。
叫び声が出なくなり心が摩耗して何もできなくなると、そばにある冷たい肉体を見ると否が応でもそこにはもう母はいないのだと意識せざるを得ない。それが嫌で、半ば逃げるようにして部屋を後にした。
(かあさん、ばいばい。)
来た道を逆に辿り(といっても思考はほぼ停止しているが)、梯子状に打たれた杭に手をかけて登り、ようやく地上に出て、再び少年は現実に拒絶された。鼻につく饐えた匂いと、木材の焦げた匂い。視界一面に広がるのは豊かでのどかな緑色ではなく、赤と黒あるいは灰色に支配された別世界である。井戸に身を隠す前と違うことといえば、村を侵略していた兵士がいなくなったことと、村から声が消えたことだ。
力のないおぼつかない足取りで、ただ足を動かした。
必死に耕した自宅の畑は他の家と同様火の手に侵されて作物は消し炭になっていた。木造の家屋はほとんど焼け落ち、こびりついた煤が不思議な波状紋様を浮かび上がらせている。幾らか周囲の木が燃え家屋が倒壊したため焼野原の様相を呈している。
魔王の軍勢が人間の領土を侵略した後の描写と寸分も違わない光景は絵本のようだ。最大の相違点は実行犯が人間であること。加えて勇者が助けに来なかったこと。
ズボンのポッケに入れていた指輪が光を放つ。偶然火災の後で大気中に不純物が多分に含まれていたのではっきりとした光の筋が見える。誘蛾灯に惹きつけられるようにしてシグルドはのっそり歩を進める。
カラン、という音が靴の先から鳴る。音だけでなく軽い衝撃も。視線を地面に向けると木の棒があり、更に先に鉄でできた鋤の先があった。光線はその近くにあった黒い塊を照らしていた。
「とうさん。」
薄々気づいていた。村が蹂躙されて村人たちは殺戮され夥しい死体が転がるなかで、肉親のみは奇跡的に生き残っているなどという甘い幻想は通用しないことなど。
母の指輪に嵌め込まれた宝石が、父の指輪も回収しろと訴えている気がした。死体から遺品を取り去る行為は本来忌避されるものだが、意識を半分捨てた様な状態では正常な思考など期待できないし、たとえ意識があったとしても、肉親の形見を求めて回収していただろう。
空は重苦しい雨雲に埋め尽くされている。山の一角にある盆地が辺り一帯焼失したことで空気が温められ、水分が凝結するための核となる灰もたくさん巻き上がったから。
それからほどなくして雨が降り始めた。頰を掠めるほどの弱い雨は五分と経たないうちに体を隈なく打つ大雨になった。肌を流れる雨の色は黒い。
(僕は、一人か。)
肌に張り付く布が鬱陶しい。
(疲れたな)
父の遺体を見たときは、涙が流れなかった。叫び声も出なかった。目の蛇口も喉も心も疲弊しきって故障した。不自然に強い拍動を感じて、心が痛んでいることに少し安心した。まだ己が人の心を保てている気がしたから。
シグルドは村の中心部にある視界が開けた広場に行った。どこに行っても壊れた家や村人の遺骸が目について落ち着けないのだ。
(これから、どうしよう…これから?)
思考が空転する。
(『これから』って何だ?)
唐突に天涯孤独になった。知人すらいない。村は全焼して今日の食料すらない。このままでは早晩シグルド自身も両親の跡を追うことになるだろう。
絶望的な未来に思いを馳せていたその時だった。
パッと。
雷鳴がシグルドの頭上で瞬いた。轟いた。そしてシグルドに落ちた。
バリバリバリバリッ!と電撃が身を焼くなか、しかしシグルドは痛みを感じなかった。痛覚などあてにならなくなり、視界が純白に染め上げられただけである。体表をぞわぞわとなぞるようで、同時に洗い流すような感覚。
(僕もここで死ぬんだろうか…いいな、それ。)
未来に希望などありはしない。数日の間に食料が尽きて飢えに苦しみながら死ぬくらいなら、痛覚が麻痺するような雷鳴で一思いに死ねたらどんなに楽だろうか。
目を閉じれば色鮮やかに今日までの幸せな日々が蘇る。人生の総決算をするような心境で流れて行く映像に身を任せた。
手のひらに握ったままの黄色く半透明な宝石がキラリと光っていた。
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