第5話 赤い悪夢
なかなか暗い話が終わらなくてすみません。
少年は逃げ惑っていた。水中でもがくように自由の利かない体でも精一杯腕を振って、逃げていた。
何かに追われているというわけではない。そこに渦巻く負の感情と距離を取ろうとしている。それでも、その声は彼の耳に滑り込んで来た。
助けて、助けて。
痛い、やめてくれ。
おかあさんどこ行ったの。
熱い…水をくれ…
間が幕で隔てられたようなくぐもった声が絶えず流れて、重なり合い共鳴し、鼓膜に絡みつく。その中でも特に、
なんであなただけ隠れてるの?
恐怖と後悔、猜疑心が作り出した幻聴、その声だけは鮮明に響き、少年の心を砕く。
今少年が体験しているものは夢である。夢の終わりが近くと、少年の体を構成する物質の結合が切れていく。宙を舞う砂塵のように、少年の意識は身体同様彼方へ吸いとられて行った。
「はっ……はぁ、へっ……はあっ」
シグルドが目を覚ました時、本当に眠りから目を覚ましたのか判別できなかった。そこは灯り一つない真っ暗闇の中で、見方によっては死体の安置所にも見える。
或いは土の下に埋められたのかとも思ったが、荒れた呼吸を整えるように無意識に深呼吸する肺がその推測の誤りを指摘した。
「ここは一体…」
鈍痛を抱えながら欠落した記憶の補完を試みる。茂みに隠れた果物を見つけるように記憶の靄を取り払う。そして
「母さん!」
思い出した。自分は薄暗い明かりの灯る部屋で母に包まれて気を失った。早く母を探さなければと、四つん這いになって地面を探る。赤ん坊のように少しずつ進んでいくと手が何かに当たる。
そのままぺたぺたと手で探るとそれが壁であるとわかった。叩いても体当たりしてもびくともしないので諦めて壁沿いに進んで戸を探す。そのうちシグルドがいるところが小部屋であると判明する。そしてさらに進むと、壁の材質が違う場所を見つけた。木の板が埋められている。扉かと思ってノブを探すが見つからない。本当に木板が埋め込まれているだけらしい。
先と同じように体当たりすると衝撃が木板を貫いたのを感じた。やはりここが出口らしい。
「おらああ!」
乾いた破砕音が響く。
渾身の突撃によって板を破ったが、勢い余って戸の奥へとすっ転んだ。
もくもくと舞った木屑や砂埃が気管に入って咳き込んだ。
部屋は暗かった。気を失う前は母が魔法で灯りを点してくれていたが、今はどれだけ目を凝らしてもマッチの光さえ見当たらない。
「…………」
しかしシグルドの目は既に暗順応していたので、地面に突っ伏す人影を目視していた。それだけではない。起き上がろうと地についた手に違和感を感じた。
(ぺたり…?)
暗闇の中ほの白く浮かび上がる手のひらにべっとりとついて離れない黒い粘着質な液体。部屋に充満するさびた農具のような臭い。
「あっ…あっ、……あ。」
目を背けたくなる現実というものに、シグルドは短い人生で初めて遭遇した。
頭が熱く、鼓動が早い。体を駆け巡る血流で痺れるような熱を感じる。呼吸さえもままならぬ状態であっても、頭は考えたくないことを考えてしまう。
目を背けようとするほど、意識を切り離せない。いっそ憎いほど冴えた頭は、取り込んだ情報を勝手に処理して現実を出力する。
地面に突っ伏す人影だと?あのシルエットを見間違えるはずがない。
だって倒れているのは
「ああああああああっ!」
シグルドの母、マリアその人なのだから。
血に濡れた母の体を抱き上げて必死に名前を呼ぶ。傷口を鑑みるに鋭利な刃物で切りつけられたようだ。果たしてそれからどれくらいの時間が経過したのか、実はすでに死んでいるのではないか、そういった考えには無理やり蓋をする。
シグルドの必死の呼びかけが届いたのか、マリアがふるると瞼を震わせた。
「う…あ。」
「かあさん!」
「シ…グル、ド」
「ああそうだよ、母さん。僕だよ」
亀裂のはいった笛のように弱々しい擦過音を漏らしながらマリアは話す。
「手、にぎ…」
「手だよね、握るよ」
「ふふ、あ…たかい」
シグルドは辛抱強く次の言葉を待つ。ある程度流れたため比較的少なくなった出血でさえ止める術を持たないのでとりあえず自分の服を傷口にあてがった。
「おかあさんね、もう、長く…ない、みた…いな」
「かあさん!そんなこと言うなよ。」
(くそ!何かないのか、かあさんを担いで梯子を登るのは難しい。今からお医者さんを呼んでもこんな暗がりじゃ…いや、動け!行動しろ。)
「かあさん、すぐにお医者さんを呼んでくるから」
そう言って場を離れようとするシグルドを、マリアは繋いだ手にできる限りの力を込めることで留めた。
「シグルド、行かないで…ひゅっ……あなたに、最期に…伝えない、と。」
「最後とか言うなよ!そんな、そんなの…」
マリアは口角を少しばかり持ち上げた。
「わたしの、指輪…持ってい、て。きっと、みちび……くれる。」
ただ強く手を握る。少しでも多くの熱が母に伝わるように。
「わたし、しあわせだ、た。愛する人に、出逢えて。あなたのような、かわいい…優しい息子に、恵まれ、て。」
視界が曇り、鼻の奥がつんとした。二筋の温かい線が頬に刻まれる。
「できたら…あな、たを…もっと、育て、たか…。でも、安心して。わたし、たちは。あなたのこ…とを。ず…と、見守ってるから。」
だいすき、と。
手から力が抜ける。不規則な明滅を繰り返す指輪の宝石の放つ光が遂に消えた。
「……………………………。」
暗い小部屋は一瞬静寂に包まれた。動かぬ肉体とそれに寄り添う幼い魂。時が止まったように身じろぎ一つしない悲痛な背中が震えだして、不規則にうめき声を発してから。
「ああ、あっ…あ…。あああああああああああああああ!」
慟哭が迸り、狭い部屋を満たした。他の命を感じさせない闇の中で、唯一の生命が孤独に苛まれた。何も考えないよう、悲しみに圧倒されないよう、現実が追い付かないよう。喉と肺がきりきりと痛んでも、御構い無しに叫び続けた。
どうか夢よ覚めてくれ、と。
10話くらいになれば話が動くかなあと思います。