暗雲
流血表現があります。ご了承ください。
明け方の肌寒い空気でシグルドは覚醒した。五月にしては珍しいが一日二日寒が戻ることは珍しくない。窓を開けると、空はどんよりと雲が垂れ込んでいた。
「あーあ、こりゃ一雨降りそうだな。気分が乗らねえなぁ。」
雨が降って畑を耕せない日はもっぱら家の掃除をする。こちらの方が肉体的には楽なのだが、体を動かすのが好きなシグルドは細かな埃を掃いて集める方が面倒に感じる。
普段よりも早く起きてしまったため朝食まではまだ時間がある。寝起きでぼうっとした頭を覚まそうと散歩に出かけた。
カッファ村は山の中腹にある小さな村で、周りを森林に囲まれている。とはいえ斜面に沿って斜めに家を建てているわけではなく、先祖が切り開いたであろう盆地状の地形を活用している。
木々を切り倒して土地は確保してあり、畑の土地を除いても家が百軒は建てられるほどの広さがある。実際には五十軒ほどしか建っておらず村民全員が知り合いと言っても過言ではない。
大人の事情だが、村の人口が急激に増える恐れを度外視すれば、民族として血縁が近くなりすぎないように外部に伴侶を求める行為はあながち間違っていないとも考えられる。
歩みを進めるにつれて増える樹木に反比例するように視界が悪くなる。脇を流れる小川は目印として役に立つのだ。
川の上流にある目的地まであと数分くらいまで来たときのことだ。シグルドは青々と生い茂る草がなぎ倒されていることに気がついた。
足跡や獣道が少しあるくらいなら大したことではないが、新しく農地を作るときのように幅広く倒れた草とかなりの足跡は偶然では片付けられない。
(父さんに伝えるか。)
子供にできることはたかが知れている。
とりあえずシグルドは自身の目的を果たしに川縁に降りた。そこには常と変わらずに持ち主不詳の繋留された木製の小舟が一隻あるだけだ。固定する木は朽ちており、少し力を加えれば今にでも外れそうな。
舟には不思議な紋様と文字が刻まれていた。紋様は訳がわからなかったが、文字は読めた。
万難を排すもの
「なんだこりゃ?」
誰が何の目的で作ったのかわからない。確かにこの川は標高の割に珍しく大きな岩はなく川下りだって可能だろうが、それを考慮しても正気の沙汰ではない。
(川下り…いつかやりたい。)
かがんで水面を覗き込み、顔を洗う。水を掬うたびに写り込んだ自分の顔がぐにゃりとゆがんだ。
その場で伸びをして、体が空腹を訴えたところで家に向かって歩き出そうとした…その時。
シグルドの背後、つまり川の上流、山の頂上に向かう道の先からざわめくような音が聞こえてきた。最初は何かの聞き間違えかと思ったが、シグルドの周囲を囲む大自然に割り込んでくる音は次第に大きくなっていき、地面を踏みしめる音と金属がこすれ合うような音が絶え間なく聞こえてくる。
シグルドは川べりの斜面にある窪みに身を隠した。男たちの醸す雰囲気は、シグルドに対して友好的なものだと思えなかった。
どれだけ待ったかは定かではない。男たちの足音が遠くなり、野鳥が遠くに飛び去る時の鳴き声のように尾を引いていった。
「…………。」
息を殺してどれだけ待ったのだろうか、呼吸を再開しようにも肺が不自然に震えて思い通りにならない。
さっきの集団は何をしていてどこへ向かったのだろうか、登山していて、山の頂上に至り下山している最中だったのだろうか?
「そんな訳が無い…村に戻らないと!」
身体を酷使して下り坂を駆け下りる。山の斜面は舗装などされてないがそれがどうした、歩きなれた道だ。
しかし疲労は別の問題、足は引き攣り、肺は急激な膨張と収縮を繰り返して肋骨を痛めつける。
やっとの思いで村に到着すると、悲鳴と怒号が飛び交っていた。
シグルドは目の前で起きていることを現実として受け止められなかった。
子を抱えて逃げ惑う女性、それを容赦なく切りつける兵隊。
襲い来る敵から身を守ろうと農具で応戦する男衆は力に押されて劣勢に立たされている。
経験したことがない暴力に晒されて口をわななかせる子供は腰が抜けてへたり込んでいた。
どういうわけか、敵は外周から内側へ包囲網を狭めるように進行している。シグルドは敵に見つからないように小さなからだと物陰を活かして自宅を目指した。
「あっ…!」
しかしついに足が限界に達して転んでしまう。起き上がろうとするが焦りでままならない。
土を踏みつける音が遠くから迫ってきた。酸欠で朦朧とする頭の片隅で敵の接近かと思ったが勘違いだった。
「シグルド、お前今までどこに行ってたんだ!」
切羽詰まった様子で父が問い詰めるが、シグルドの口からは掠れた息が漏れるだけだ。
シザーは舌打ちしてシグルドを持ち上げる。
「非常事態だ。話は後で聞くからな。」
***
シザーがシグルドを運んだ先は自宅の裏にある小屋、正確には屋根に覆われた井戸だった。
中に隠れていろとだけ言い残してシザーは斧を抱えて走っていく。取り残されたシグルドは、はじめ井戸を降りる方法が分からなかったが中を覗き込むとはしごのように取っ手があった。
「………」
不安や恐怖からくる漠然とした焦りを呑み込んで、一本一本、確実に取っ手を掴んで降りていく。
そもそも井戸の一番下って水張られてね?と不安になったが、どうやら井戸ではなかったらしい。そこはむき出しの地面だった。
井戸の底には降りてきた穴と垂直に、つまり地面と水平に、人が四つん這いで通れるほどの通路(?)があり、進んだ先には盾のような金属製の扉があった。
「憧れの秘密基地がこんなところに…」
押してみると重厚な見た目に反してすんなりと開く。扉の奥には先客がいた。
「母さん!」
「シグルド!どこに行っていたの!?心配していたのよ。」
通気口が無理やり作られているが、蝋燭を燃やすと命取りになり得るので、灯りは無いはずだったが。
「母さん、それどうやってるの?」
少し困ったような笑みを浮かべて、常と変わらず穏やかな口調で「うーん、魔法?」と応えた。
「母さんって魔法使いだったの!?」
「基礎を少しね?できることは灯りを灯すことくらい。」
「すごい!」
教えてとせがむシグルドをマリアはやんわりと宥めたのち、状況の整理を始める。
「今ね、村に怖い大人がたくさん来ているの。」
「それってやっぱり、『お宝』が目的?」
「ええ、恐らく。」
そして、シグルドは地下室に来るまでに見て来た惨状を思い出した。
「そうだ母さん、危ないんだ!村の人たちが襲われてて、剣で斬られてたんだ!早く助けないと!ここに連れて来てあげて…」
シグルドの声はしりすぼみになっていく。マリアは沈痛な面持ちだ。この地下室にはどう頑張っても一人しか入らない。そこに入れたい誰かは言うまでもない。それに、子供が一人助けに言って何ができる。誰かを連れて来るまでに敵に見つかって殺されるに決まっている。
人が死んでいた。血が流れるほど目から光を失い体が完全に弛緩して動かなくなった。剣を叩きつけるように振るい、家屋に火を放つ侵略者たちを、物陰から伺うしかできなかった。
マリアの腕の中で、緩んだ緊張と己を苛む無力感からシグルドは涙を流す。必死に歯を食いしばって、せめて声は漏らさないように努めながら。
もう村は火の海になっているだろう。考えないようにしているが、シザーだって無事ではいられまい。感情の奔流に打ちのめされてシグルドの思考は停止し、意識が途切れた。
***
愛する息子の寝顔を慈愛に満ちた顔で母が見つめる。
シグルドが起きないように丁寧に地面に横たえてからマリアは立ち上がった。土壁に手を当て、彼女が何かをつぶやくと土が剥げ落ちて木製の扉が現れた。ギィ…と湿った音を立てて扉を開く。
シグルドを扉の先に運び、扉を閉め、再び何かをつぶやくと土が独りでに扉に張り付いた。
「愛してるわ。シグルド」
ガン、バンと荒々しく鉄扉を叩く音がする。
できることは他にあっただろうか。
したいことならたくさんあった。
愛する夫と息子と、食卓を囲みたかった。
息子の成長を見届けたかった。
かつて自分がこの村に嫁入りに来たように、将来シグルドが連れて来るお嫁さんを見たかった。
「もっと生きたかったな…。」
鉄扉に罅が入る。ここまで耐えて来たが、ついに限界を迎え、遂に扉が砕けた。
中に乗り込んで来たのは男性が数人。強い語調で『お宝』の所在を問い詰めてくる。
***
秘密基地のような地下の部屋から出てくる兵士たちの顔は鎧に覆われて窺えない。
兵士がでて来た部屋の中で地に伏した女性は鮮やかな紅を纏っている。その左手の薬指には血に濡れてなお染まらぬ真白い宝石が燦然と輝いていた。