ある家族の日常 2
焼きたてのパンをかじる小気味いい音が響き香ばしい風味が鼻を抜ける。テーブルの上には畑でとれる野菜や家畜の肉などを煮込んだシチューが湯気をたてていた。
「今日来てた男…あいつはたぶん行商人ではない。」
そう話すシザーの表情は浮かない。それはシグルドが抱いた印象と同じであった。
「じゃあ何者?」
「分からない。この村を訪れた行商人は数知れないが、今まであんな感じの行商人は見たことがないんだ。」
シザーは自分自身に確認をとりながら話しているように見えた。
「やつは挨拶の後の第一声で練気媒体はないかと聞いてきた。」
練気媒体って…
シグルドは初めて聞いた言葉に戸惑う。
「そうだな、まずはそこから話そう。」
そう言ってシザーは酒で唇を湿らせる。
「昼に、この村の宝について話すって言ったのを覚えているか?」
「なんとなく。」
「この村の宝っていうのが、その練気媒体のことなんだ。」
そこでシグルドは疑問が浮かぶ。それは父と行商人もどきの会話で唯一聞こえた父の怒声についてだ。聞くかどうか迷ったが、結局好奇心に従った。
「…父さん、そんなものはないって言ってたよね」
「なんだ、聞こえてたのか…ああそうだ。俺は確かにそんなものはないといった。そもそも、この村で宝について知っているのは村長一家だけのはずなのに…いや、正確には村の宝の存在は知っていてもそれが何なのかまでは知らないんだよ。それなのに奴は一言目で宝の正体まで言い当てた。」
思考が考えたくない方へ進む。
今日聞くまで、シグルドは宝の存在すら知らなかった。父は村の誰かに言いふらしはしないだろう。
ぎょっとして顔を向ける。ある人物…具体的には母マリアの方へ。
しかしマリアはキョトンとしている。
「ああ、マリアは違うぞ。」
即答だった。シザーは寸分の疑いすら抱いていないらしい。
「どうして分かるの?」
シザーが躊躇うような様子を示す。言葉を発したのはマリアだった。
「ねえシザー、話してあげましょうよ。」
シグルドはマリアの声も口調、それから優しく包み込むような雰囲気も好きだった。
「ああ、わかったよマリア。」
シザーはペロリと唇を舐める。
「実はマリアはこの村の出身じゃないんだよ。」
驚いた。勝手に二人は幼馴染だと思い込んでいた。
「俺とマリアが出会ったのは、俺が15歳の時だ。成人した俺は前村長、つまり俺の父親に連れられて王都に行った。俺が次の村長になるから、それに備えて統治する者の心構えを教えてもらいにな。
親父は三日くらいで帰ったが、俺は学校に入れてもらって二年間みっちり勉強漬けの日々を送った。最初は大変だったなあ。こんな小さな村の田舎者が王都みたいな大都会に行ったんだ。人の多さや建物の高さに驚かされて、生活に慣れるのに精一杯だったさ。
とはいえ、一か月もすれば人ごみにも高層建築物にも慣れる。夜も街の灯りは消えず、星空なんて見えなかったが、その年頃の少年にとっちゃ些細なことだ。
三か月にも経つと、勉強だけに集中できるわけもなくなる。授業は楽しかったし、きちんと単位もとったんだが、寮生活で友達…いや悪友か…もできて、酒場で雇ってもらって給料ももらってな。夜遊びし始めるのも時間の問題だった。」
この話はどこに向かうのだろうかと不安になった。今の所、父の言い訳じみた昔話が延々と続いているだけだが…
「まあ、なんだ。ちょくちょく…こう…な?」
何が、な?、なのか分からない。
「その…」
「この人ったら、自分が酒屋に行き始めたのよ。しかも女の子と一緒に飲む系の。」
「おい!」
シグルドは、実の父に冷めた目を向けた。
「なんで言っちまうんだよ!?ほら見ろ、シグルドが俺をゴミを見るような目で見てくる!」
「時間の問題だったと思うけれど…」
「へえー。父さん。へえー。」
「ああもう!」
シザーは大きな咳払いをかます。
「もういい!こうなったらヤケクソだ。つまりだな、そこでマリアと会ったんだよ」
「ふふ、この人ね、私がお酌をしたのが初めての酒場だったらしくて、ひどく緊張していたのよ。お酒を注いであげても、ずーっと穴が開くほど机を見つめて石になってたわ。」
「プッ!」
「それは言わなくていいだろうが!」
父が酒場に行った話は理解したが、母が(ちょっとオトナな)酒場で働いていたというのは想像できない。
「その日の帰り際にね。この人、今度も…」
「うおああああああああ!」
父が血相を変えて叫びだした。
「あなた、近所迷惑でしょ。」
「悪かったよ。でも君もその話はやめてくれないか?」
「ふふ、分かったわよ…今度も君を指名してもいいかって言ってきてね。」
早速父を裏切った。
「父さんカッケーな!なんか、ちょっと気取ってる感じするけど。」
「やめろ、やめてくれよ!おれが悪かったから…」
白くなった父に代わり、母が話を引き継いだ。
「それから、何度も通ってくれてね。そのうち私も彼のことが好きになったの。俗にいう、燃え上がるようななんとやら、ではなかったけれど、彼といるととても心が満たされたわ。」
なんだか、不思議だった。
(大人にも、子供の頃ってあるんだ)
「それで、月日が経って、彼が学校を卒業する日が来たのだけれど、彼が村に帰る前日の夜にやって来たの。」
なんだか、聞いているとむずむずしてきた。
クスリ。
くすぐったそうに、幸せがあふれ出るような優しい微笑をマリアが浮かべた。
「彼は求婚してきたね…俺と結婚してください、絶対に幸せにしますってね。私も心を決めたのだけれど…」
そこで、ここまでゆっくりと、途切れずに話してきた母が初めて何かを考えるような仕草を見せる。
「実はね、私には親がいないの。生まれて、成長して、気が付いたら一人だった。孤児院でしばらくは面倒見てもらって、院長さんの知り合いの酒場を経営している女性に住み込みで働かせてもらって生計を立てたわ。だから、実質母親が二人みたいなもので。」
初耳だった。
シグルドは驚きを隠せない。母が親を知らないという事実に、そして、自分が母の事を知らなかったという事実に。
「孤児院の院長は優しくて実直な女性で。酒場の店主は、その…結構、乱暴?かしら。今までお世話になったのもそうだけれど、酒場では働いている途中だったから、彼について行くなら辞めないといけない。それで、彼と一緒に二人に挨拶に行ったの。院長は、優しく、私のことを必ず幸せにしてくださいって、彼に言っただけで終わったのだけれど、店長の方がね。」
マリアは当時を思い出す。
***
「マリアさんと、結婚しようと思います。マリアさんを僕にください!」
店長は酒の瓶が並んだ箱を持ち上げようとしている最中だったが、それをおもむろに降ろした。そして
「遅えーんだよ、こんのだほがぁっ!」
ゴツッ!
シグルドの体が宙を舞った。
「さっさと行け。もしも、こいつを幸せにしなかったら、バボラッカ一本だ。もちろん一気な。」
バボラッカ。毒ヘビの中でも珍しい、敵を酔いで殺す酔毒を持つ蛇。これを酒に漬け込んだ蛇酒で、普通はすごく希釈する。
つまり翻訳すると、こいつを幸せにしないなら殺してやるよ、と。
「マリア。」
「はい」
「これからはそいつに幸せにしてもらえ。」
マリアは鼻がつんと痛んだ。
「愛してるぜ、マイドウター」
照れると外国語を使う癖のある優しくかっこいい女性。
「は…いっ」
返事はきちんと届いただろうか。