ある家族の日常 1
ざく、ざくと、畑に鍬が振り下ろされる音がする。
「おーいシグルド、そろそろ休憩にするぞ」
「はーい、父さん」
大柄な男が少年に向けて声をかけた。少年は振り向いて返事をする。
(やばい、今日のノルマは畑一面なのに、まだ半分しか終わってないぞ。)
焦りから鍬を振る動きが雑になり、無理矢理振り続けていると、地面に深く刺さってしまった鍬が抜けなくなってしまった。
「うおりゃあー!」
スポーンという擬音がつきそうなほど勢いよく鍬が抜けて飛んで行った…シグルドの父、シザーに向けて。
「あっぶねえ!殺す気か小僧!」
「いっった!」
父にゲンコツされてシグルドの目に涙が滲んだ。
「ほら、さっさと片付けて飯にするぞ。砂払ってから家に入れよ、母さんにどやされちまうからな。」
午前の仕事を終えて疲れてしまったシグルドは家に戻る父の背中を目で追い、それから天を仰いだ。サアっと風が吹き抜けて、太陽に照らされた深緑の木々がさらさらと揺らぐ。蒼穹には雲一つ無く、近所のマイヤ一宅の庭では洗濯物が風に踊っている。
「いい天気だな…帰ろ」
シグルドの本名はシグルド・アンバー。アンバー一家は父シザー、母マリア、そして一人息子シグルドの3人家族である。この小さいながらも豊かな自然に囲まれたカッファ村で、アンバー家は代々村長を務めている。
昼食を食べようと食卓に着いたシグルドにシザーが話しかける。
「シグルド、お前明日で8歳だよな。」
シグルドはキョトンとした顔をシザーに向ける。
「突然だね父さん。プレゼントはかっこいい剣とかがいいな。」
「馬鹿言え、お前も俺の跡を継いで村長になるんだ。冒険者にはなれんぞ。」
「ええー」
シザーは心中でため息をつく。シグルドが幼い頃に、行商人から英雄譚の絵本を買ってあげたことを後悔した。毎晩マリアが読み聞かせたせいで、すっかりシグルドは英雄に首ったけである。
(息子には自由に生きて欲しいと願うものの、代々の役職を捨てるわけにもいかんしな。)
実のところ、以前シザーはシグルドに将来村長の役職を継ぐことになると伝えており、何度も大喧嘩をしていた。直接意見をぶつけ合った甲斐あって、今ではシグルドも一応納得はしている。先ほどの冗談は少しばかりの子供らしい仕返しなのだろう。
腐っても父親、寝室で眠る愛する我が子が、読みすぎてページがちぎれかけの本を自分で修繕しては、今でも大事そうに枕の傍において眠る姿見るたびに胸が痛んだ。
「剣はやれんが、我が家の、ひいては村の宝について話してやろうか。代々受け継がれている村長という役職には村を取りまとめ、村を守る役目がある。」
なんか難しそうな話になってきたぞ、とシグルドは居ずまいを正した。
「俺としてはもっとお前が成長して成人するときに伝えたいのだが、先祖が受け継いできた慣習だから仕方あるまい。このことは他言無用でな。」
「喋ったら?」
「村長失格だ。」
「………………。」
「喋ったら木に吊るして尻を叩く。」
やめておこう。こちらの考えは見抜かれている。
「今はとりあえず飯を食え。午後も仕事はあるからな。」
と言って、シザーは一足先に食器を片付けて外に出て行った。
***
最後の一振りを終えて午後の目標であった畑を一つ余すところなく耕したとき既に日は橙色になっていた。
先に仕事を終えた父シザーは家に戻ると言っていたためこの場にはシグルド一人だけである。
早々に農具をしまうなど片付けを終えてシグルドも帰路につく。鍬の振りすぎで皮がむけたところは焼け付くようにひりひりする。ささくれだち、少年特有の綺麗さや柔らかさとは無縁の手だが、シグルドはそんな硬くなった手のことが気に入っていた。
ようやく自宅が見えてきたがいつもと様子が違う。男が二人(そのうち一人は父シザーだ)が話している。もう一人は大きなリュック背負っておりいかにも行商人といった出で立ちをしている。
シザーが不機嫌さを隠そうともせずにしかめっ面をしている。その隣を横切って家に入るのは憚られて、シグルドは家の外の塀に身を寄せてやり過ごすことにした。
シグルドから見た父は豪放磊落といった印象で、細かいことは気にしないが同時にいつでもにこやかで、言い換えれば理性的な大人である。そんな父の顔が今は強ばっていた。
シグルドは気になって行商人を注視する。
(木の枝みたいな奴だ)
行商人は体格がいい者が多い。荷物を持って各地を旅して回るので体がやわだとできないことだろう。
しかしシザーと会話している行商人の体は細身で背も低くはないが高くもない。
加えて、あの岩のような大男シザーが顔をしかめているというのに行商人は怯えたようすもなく気味の悪いにやついた笑みを浮かべている。
「とにかくここにはそんなものない‼」
突然の父の怒号に、シグルドは背中を震わせた。いつも温厚な父が…午前に鍬を投げつけて怒らせたが…そういうのではなく、まるで突き放すように怒気を振り撒いている。
それ以降の会話は聞き取れなかったが、行商人はまるで聞き分けのない子供を諭すように、あるいは道化師のように肩を竦めて首を振った。
行商人は敷地を出る際にシグルドに気づき、ヒラヒラと手をふって山へ向かう道を歩いていった。
シザー表情は行商人が去ったあとも固いままだ。シグルドはかける言葉を見つけられない。
「シグルド…帰ってたのか。」
「うん。」
「そうか…」
平素の穏やかさとは違う荒々しい父を目の当たりにして萎縮してしまい、聞きたいことを聞けず沈黙する。
視線を向ける先に迷い、とりあえず仰いだ夕焼けの彼方には黒い雲が横たわっている。
「飯だ。帰ろう。」
その言葉にただ従って、視線を落として歩きだす。胸に戸惑いと苛立ちを抱えて。
「飯のときに話す。」
えっ…?
戸惑いは声には乗らなかった。代わりに視線に宿った。
背を向けて前を歩く父には見えていないはずだが、シグルドの当惑は伝わったようだ。
「お前も明日で8歳だからな。少しは大人の事情を知ってもらうとしよう、そう思っただけだ。」
ぼすっ。
シグルドがシザーの背中を握った拳で小突いた。
「…ばか。子供扱いするなよ。」
「てめえはまだまだガキだよ。」