幸せな夏
とても暑い夏であった。真っ青な空に真っ白な太陽が貼りついていて、麦藁帽子の天辺を焼けた鉄のようにじりじりと熱くしていた。あれは小さな頃であったように思う。平たい板に乱雑に投げつけた水風船のように、思い出にもならずに消える儚い一日が沢山積み重ねてあった。私は右手に水筒を提げて、左手に持った水泳バッグを振り回しながら家への道を歩いている。昔は夏休みになると学校のプールが開放され、私は飽きもせず毎日通った。幼い頃の夏の思い出といえばそれであった。腕を振っているので見事に焼けた銅色の肌が視界にちらつく。それが面白かった。今でも時折あの細い腕を思い出すことがあって、そのたび、私は夏の日のただ中に放り出される。
だからこれはそんな夏の日のどれか一つなのだ。いつのまにか遠ざかって、気がつけば子細を忘れていて、今では熱で溶けた消しゴムのように一塊になってしまった夏の日だ。向こうから幼い私が得意げな顔をして歩いてくる。やはり右手には水筒と、左手には水泳バッグを提げていた。夏も盛りである。麦藁帽子が影を落とすあどけない頬は赤く照り、腕は内側まで銅色に焼けていた。ワンピースから突き出た子供特有の棒切れのような足がアスファルトの上で踊っていて、歩くたびにビニル製の運動靴が光った。
私はぼうっとその子供が行くのを眺めている。元気を人の形にしたようなその子は得意げに鼻歌を歌いながら私の前を通り過ぎた。夢を見ているのだろうか。気がつけば足はその子を追いかけていて、私は自縛霊のようにふわふわと歩き始めていた。遠くで誰かの甲高い笑い声が聞こえた気がした。
ここは懐かしかった。いつも通った道なのに、学校を卒業してからは一度も通ったことがなかった。だから懐かしいのだろう。両脇に並ぶ民家のどれかから野球中継の音声が聞こえる。幾分か髪が後退した額に汗する大人の男性の姿が思い浮かんだ。彼は司会者かもしれないし、監督かもしれない。ひょっとしたら親か、観衆ということもあり得る。兄弟もいない私に野球というもののイメージは得がたく、ふわふわとしたわたあめのような印象しかないものだった。夏になるとやる、声がする。蝉の鳴き声と何ら変わらないのだった。
私たちは坂を下って水神様の社の横を通る。坂の横だからか、元々そういう土地だからか、このあたりに来ると民家はずっと少なくなる。一気に田舎に迷い込んだかのようだ。水神様の社は大きな木が茂っていてとても涼しい。日が当たらない地面は痩せこけていてじめじめと湿り冷たいはずだ。目の前の子は水神様の社を見もせずに歩いていく。家はそう遠くはなかったし、何よりここは虫が多いので虫除けがなければ寄りたくなかった。風も無い夏の日だった。木々は揺れず、不思議と蝉の声もしない。だから、不意に川のせせらぎの音が聞こえてきて驚いたのだ。見れば社の横にきらりと光る小さな泉がある。際限なく湧き出る水は厳かで清涼な空気を纏っていて、音だけでも身体の表面がすっと冷たくなる気がする。私はこの場所を好きだったのだろうか。それは分からないけれど、ああ、ここを水源とする川は海まで伸びているのだと、私は知っている。
社の前で少し立ち止まっている間に幼い私はどんどん行ってしまって、角を曲がって見えなくなっていたのだ。幼い歩幅に追いつくのは簡単であり、そして、その歩みの遅さはどこかもどかしくもあった。最初こそ少し慌てたものの、落ち着いて道を思い出せばすぐ追いつくことが出来た。蝉の声が私たちに降り注いで、耳の中がジージーという音で満たされていく。目の前を頼りない足取りで歩く私はいつの間にか右手と左手の荷物を入れ替えて持っていた。半透明のバッグにはピンク色のタオルが入っているのが見える。日に焼けた薄いピンクの隙間から宇宙のような紺色が覗いているのも見えてしまい、途端に恥ずかしさが湧き上がった。
川沿いの道、土手の上を行けばどこかから風鈴の音が聞こえてきた。蝉の声で出来た波の中であてもなく彷徨う硝子の音。それはどこか鈍く、思ったような鋭さは無かった。この暑さに風鈴も参ってしまったのかもしれない。風鈴、と頭の中でイメージしたのは逆さまの小さな金魚鉢に短冊がぶら下がったあの形だ。家にあった風鈴はそんなお手本のような形をしていた。ふざけて息を吹きかけても上手く鳴らないのに、そよ風が吹いただけで甲高く鳴くのだから不思議なような、理不尽なような、そんな気持ちにさせられたことを覚えている。
風鈴の音を耳で追いながら歩いていると、幼い私は突然立ち止まって辺りを見回した。周りには民家と川しかない。子どもの興味を引くようなものは何も無いはずである。それなのに私はいたずらっ子のような顔をして跳ねるように走り出した。家に帰るための道とは全く違う方向だ。そんなことをして人に心配をかけたらどうするのだろう。あの私はそんな事は考えていないに違いない。慌てて追いかけると、何のことはない、目当ては土手の下を流れる小川であった。途端に生々しい水流の音が聞こえ始める。耳に詰まった蝉の声を押し流しては入り込んでくる。両の足は確かに土手の地面についているのに、傍を流れる浅い小川に溺れてゆくような感覚に囚われた。慌てて目を瞬かせれば、雲が流れる平らな空が眩しくてたまらなかった。
あの私は水筒もプールバッグも土手に投げ捨てて、靴まで脱いで水と戯れていた。一人できゃあきゃあと笑っている。風鈴の音よりも高く鋭い笑い声だった。頬を流れる汗が水面に落ちて、それを追いかけるようにしゃがんで手を水に浸す。額に張り付いた黒い髪を払う事もしないで必死に遊んでいた。外はこんなに暑いのに小川は涼しい。あの水神様の社から流れ出た川はこんなにも冷たい。それでも幼い私は、やはり神秘に思いをはせることなど思いつきもしないという様子ではしゃいでいた。
水の感覚は覚えている。なぜ覚えているのだろう。流れる水は私の表皮を滑らかに滑る。日に焼けてざらついた肌をものともせず。指先の熱を溶かして、私の身体につめたい血を還す。プールの水と川の水は同じ水であるはずなのに違っていた。今まで忘れていたけれどそうだ。私は流れる川が好きだったのだ。だからこんなにも必死になって遊んだのだ。
瞬間、左手が麦藁帽子のつばを弾いた。青空を舞う麦藁帽子はとても自由で、逆光が引き起こす自由の影が脳に焼き付いた。
麦藁帽子は水面に落ちてどんどん流されていく。追いかけて拾わなければいけないのに、私の足はぼこぼことした川底に取られて上手くいかない。急いだせいでバランスを崩して、小さな身体がばしゃん、と水に跳ねた。肘まで冷たい、それどころか背中だって冷たい。私は半分泣きべそをかきながら四つんばいになって起き上がろうとする。すりむいた腕を水が掴んでじん、と締め付けてきた。焦る気持ちが言葉になり、口からは待って、という不明瞭な泣き声が飛び出す。清流を叩き潰すように手と足を突っ張って何とか立ち上がると、もう麦藁帽子はどこにもなかった。流されてどこかにいってしまったのだ。
泣きべそをかく私はすっかり遊ぶ気勢を削がれてしまって、土手で俯きながら足を乾かしていた。麦藁帽子を失った頭を太陽が容赦なく焼いているその様は我ながら痛々しくて見ていられず、私はそっと川の下流に視線を移した。この先は海になっている。私の帽子は海まで流れていって、もう戻って来ない。戻って来ないのだ。幼い心は果たしてそれを理解していただろうか──