お説教幽霊
恐る恐るドアを開けるが、そこには見知った空間に満ちる見知った闇があるだけだった。
明かりを付けずともどこに何があるかは全てわかっている。机の上のリップクリームを手探りで取って塗り、布団を軽く叩き何も入っていないことを確認し、素早く中に潜り込んだ。
自分の匂いと温度に包まれていると、背中に張り付いた悪寒は意外なほど簡単に溶け落ちた。
やはり自分は疲れていたのだな、と目を閉じて思う。
そうだ、あんなのは夢か幻に決まっている。入院生活や記憶の喪失からくるストレスが積み重なって、妙な妄想が白昼の幻想となって表出したに違いない。
疲れを取るには睡眠が一番だ。
寝よう。寝て全て忘れよう。
もぞもぞと寝返りをうち、深く呼吸して、ふと薄目を開き、
「おばぁーけー」
壁とベッドのわずかな隙間から、頭が生えていた。
「わあああっ!」
掛け布団ごとベッドから転げ落ちた。陽は床の上でもんどり打ち、布団を蓑のようにかぶる。
「わ、ごめんごめん。ちょっと驚かせすぎちゃった?」
幽霊はずるりと隙間から這い出して、
「ほら、あの、映画であったでしょこういうシーン。だからちょっと真似してみたくなって……。ご、ごめんね陽ちゃん。どっかぶつけたりしてない? ごめんね、ごめんね」
まくし立てながら陽に這い寄ってくる。
呼吸が止まるかと思う。
距離が狭まるのと比例して、陽の全身は筋緊張症のヒツジみたいに硬直する。
逃げろ、取り殺されるぞ。頭の奥でもう一人の自分が叫んだその時、
「にいちゃあん? 夜中になにどったんばったん――」
ドアが開き、美鳥が寝ぼけ眼を擦りながら顔を出した。
足元でもぞもぞ動く布団饅頭を見てぎょっとした美鳥は、うわずった声で訊ねた。
「――な、なにしてんの」
陽は布団の中から腕だけを伸ばし、
「ベ、ベッドの、スキマから、でた、でた」
くぐもった声を漏らして指差す。
投げやりに美鳥が訊ねる。
「でたって、なにが」
「ゆーれい」
沈黙。
「……美鳥?」
うんともすんとも応えはない。
もしや幽霊を見て気絶でもしているではないか。そう思った陽は恐る恐る布団の隙間から頭を出した。
美鳥は陽のすぐ側にしゃがみこんでいた。
「ンフーン」膝に肘を立て、にやにや顔で頬杖を付き、「あらあらあ、オバケさんが出てきたのー? 映画であったもんねえ布団の中に入ってくるやつ。やっぱり怖がってたんじゃんねえ。ぶふふっ。おーよちよち、怖い夢見ちゃったねー。ぬふっ、むひひっ」
吹き出す笑いを堪えながら、馬鹿な猫を可愛がるような手で陽の頭を撫でる美鳥。
陽は闇に慣れた目で辺りを探った。
カーテンから漏れる街灯の光に照らされた部屋。壁掛け時計の秒針が、寝息のようにひっそりとしたリズムを刻んでいる。
幽霊なんて、何処にも居なかった。
茫然とする陽をひとしきり笑って、美鳥は部屋を出ていった。と思ったらまた顔を出し、
「どうするにいちゃん。あたしと一緒に寝ようか」
陽は恥ずかしさを隠すように憮然として、
「うるせえ、寝ろ」
妖怪のような笑い声を引いて、美鳥は自分の部屋に戻っていった。
やはり今日の自分はどうかしている。布団を羽織ったまま、陽は大きく息を吐いた。
「よっこい、しょ」
冷たい床から腰を上げ、
「よし、じゃあ私が添い寝してあげる」
今度こそ、呼吸も心臓も止まったと思う。
幽霊が、ベッドに寝そべっていた。
「あ、えろい事はダメだからね。そんな気分じゃないし――ってそもそも触れないか、へへ」
言葉を失い立ち尽くしている陽に、「ほら、おいでおいで」と幽霊は布団を叩く。
乾燥して張り付く喉の粘膜を引き剥がすように、ゆっくりと、陽は声を絞り出す。
「あ、あんた、一体なんなんだよ」
「それは昼間言ったでしょ」
幽霊は、まさかここまで愚かな人間が居るなんて、というようなため息をどろりと吐き出し、上体を起こして胡座をかく。
「ゆうこだよ、ゆーこ。……陽ちゃんってば本当に忘れちゃってるんだね」
「ゆーこ……さん?」
『ゆーこ』の顎が大仰なストロークで上下した。どうやら現世の言葉は通じるらしい。普通の女の子にしか見えない外見も手伝って、陽の緊張は徐々に解けていった。
「そう、ゆーこさんです」深刻ぶった顔で、「私がなんで化けて出たのか、あなたは知っているはずだよ」
と言われてもまったく見当がつかない。
陽は壊れた玩具のように頭を振る。
「ズバリ、陽ちゃん。あなたに未練と恨みがあるからです」
「僕に恨みって、そんなものぜんぜん身に覚えがな――」
「はぁあああん?! 身に覚えがないわけ無いでしょうが! 胸に手をあててよぉおっく考えてみなさいよ! いっつもそうやって脊髄反射で誤魔化すよね陽は!」
陽の声を遮りヤクザ映画のチンピラみたいな大声を上げ、ばっしんばしんと枕を叩くゆーこ。泡を食った陽は唇に指をあてて、静かにしろとジェスチャを送る。
肩をすぼめ耳をすまし、隣の部屋の気配を探るが、美鳥がまた起きてくるような様子はない。もしかしたら、ゆーこの声は陽にだけ聞こえているのかもしれない。
「怒ってるんだからね、私」子供のようなむくれっツラで腕組みし、「ちょっとそこ正座しなさい、正座。おねーさんが説教してやる」
とりあえず大人しく従っておくことにした。掛け布団を床に敷き、その上に正座する。
ふすん、と肉食恐竜のごとき鼻息をふきだして、ゆーこは説教を始めた。
不思議なやり取りだった。
それこそ「恋人を忘れるとは何事か」という叱責から始まった説教だったが、つり上がった眉は時間とともに柔らかく崩れ、気づけば平和な世間話へと変わっていた。
ゆーこは自分がこの世を去った後の事を聞きたがり、しかし陽はそんなゆーこ自身について疑問を投げかかることはなく、生身の人間と同じように接した。
それは相手が幽霊であるが故の及び腰などではない。単純に、ゆーことの会話
が心地よかったのだ。そしてその雰囲気を壊すのは忍びなかった。
二人の間に交わされる言葉は、生ぬるい六月の闇の底へ、朽葉のように積っていった。
このままずっと話し続けていれば、この夜はいつまでも終わらないような気がしていた。
だが時計の針は確実に回転を続け、地球も太陽の周りを公転し続けている。
節気の歩みは着実に夏至を目指し、昨日より早い朝陽が窓の外を白ませ始める。
鳥たちが目覚めの挨拶を交わしはじめる時刻。いつの間にか船を漕いでいた陽がふとその傾いだ首を持ち直すと、そこにはもうゆーこの姿はなかった。
眠気に溺れる頭すみっこで、少しだけ寂しさを覚えた。
のそのそとベッドに戻り布団をかぶった陽は大きく息を吸い込んで、それを吐き出し切らないうちに、眠りの湖底に沈んでいた。