3:おもひでしゃばだば
隹兄妹は仲が良い。
面倒見の良い陽と甘え上手な美鳥は近所でも評判の睦まじさで、幼い時分には二人して周りの大人からちやほやされたものだった。思春期にありがちな不和も無く、何についても遠慮無く話し合える仲である。
故に、相手の機微にもよく気がつくのだった。
「おかーさんおかーさん。にいちゃんがなんかキモイ」
夜。リビングのソファに兄妹で並び、カップアイスほじくりながらホラー映画を見ていた時、後ろを通る母に美鳥が言った。
「キモイとはなんだ。こんな良い兄を捕まえて」
玄関で犬のように美鳥を出迎えた陽は、映画が見たいという美鳥の呟きをすかさず拾った。レンタル店へ一緒に出かけテキトーに数本見繕い、帰りしなコンビニで高めのアイスを買った。
帰宅後も何かにつけて世話を焼き、金魚の糞のようにくっついていたのだが、さすがに美鳥も違和を覚えたのだろう。鈴のような頭をころんと傾け、不審の眼差しを兄に向けている。
美鳥は肘で陽を突っついて、
「なんか今日変じゃない? なにかあったの」
陽はスプーンを咥えたまま、
「なんもねえですよ。いつも通りの優しーいにーちゃんじゃないですか」
よもや「オバケが怖くて一人きりになりたくない」などと泣きつくわけにもいくまい。
薄暗い自室。腰から下を失くしたようにへたり込んだ陽は、目を閉じ耳を塞いで、目の前の『幽霊』を消してくれとひたすら神仏に祈った。
それが通じたのかは知らないが、しばらく部屋の隅で転がっていた後に恐る恐る目蓋を持ち上げると、もうそこには何も居なかった。
自分は白昼夢でも見たのだろうか。
「ほあぁっ!」美鳥が怪鳥のごとき奇声を上げた。
錆びついた扉が軋むようなおどろおどろしい効果音と共に、幽霊の顔がテレビ画面いっぱいに映し出されている。
ボサボサの髪の毛。闇に溶けるような灰色の肌に青い血管が薄く走り、見開かれた目には真っ黒なコンタクト。
いかにもなメイクを施された幽霊は、編集と画像処理の力をこれでもかというほど見せつけながら、奇っ怪な動きで犠牲者に迫りくる。
幽霊といったら普通はこうだよなあ、とぼんやり思いながら陽が画面を眺めていると、
「にいちゃんやっぱ変」美鳥は虚ろな目をした兄の顔を覗きこんで、「いつもならキャアキャア言って馬鹿みたいに怖がるのに……。どうしちゃったの」
キャアキャアは言わない。が、美鳥の言うとおり、陽はホラーが苦手だった。気味の悪い演出やハデなショックシーンやグロテスクなディテールが小さい頃から怖くて仕方なかった。
流石にこの年にもなって悲鳴をあげて怖がることはないが、美鳥に付き合って一緒に映画などを見るときは、背筋に走る怖気に身を縮こまらせているのが常である。
ならば最初から見なければいいじゃないか、という意見もあるだろう。
しかしホラー映画というものは往々にして序盤はさして恐ろしい事も起こらず、また陽もいくら苦手といってもそれなりに怖いもの見たさというものがあり、そんなこんなでずるずる見ているうちに中盤の恐怖シーンに突入してしまう、というのがお決まりのパターンなのだった。
そうなればもう逃げられない。途中で見るのを止めてしまえば、逆にもやもやとした消化不良の恐怖だけが残ってしまうので、結局ハナシにカタが付くまで美鳥の隣で膝を抱えているしかなくなるのだ。
しかし、
「なんかさあ、こういう幽霊って結局はツクリモノなんだよなあって思うと、ちょっと白けるというか、リアリティないよなあ」
そもそも無理な話だというのはわかるが、やはりそこには昼間に陽が感じたような「ここに何かが居る」という気配は無い。
いくら意趣を凝らしたところで、やはり画面の向こう側とこちらでは絶対の隔たりがあるし、実際はその向こう側の世界だって、当たり前だがそれを創りあげた製作者たちがいるのだ。
受け取る側が欲するカッコ付きの『恐怖』と、その胃を満たすための『消費物』としてそれを提供する作り手、という構図。無論、そのカッコの中身は何でも交換可能だろう。悲しみだの笑いだの感動だの愛だの性欲だの絶望だの希望だの――
そしてたぶん、思い出も。
「白けるって……」陽の言葉を聞いた美鳥は鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、「おかーさんおかーさん。にいちゃんがなんかスレちゃってるよ。イヤなオトナになるよこの人」
陽はスプーンをカチカチいわせながら、
「にいちゃんにだってイロイロあるのよ」
「フウム」美鳥はじっとりとした横目を兄に送り、「あたし、そういうの好きじゃないな」
二人はまたテレビに視線を戻す。
映画の内容はといえば、中盤までは丁寧に作りこまれた恐怖シーンや雰囲気の演出が秀逸で、美鳥もクッションを抱え画面にのめり込んでいたのだが、終盤に差し掛かってからは幽霊の出自やら出現の法則やらがやたら駆け足で説明され、さらに何を血迷ったか廃工場みたいな場所で幽霊との追いかけっこが始まるに至った。
これではもうモンスター映画であり、恐怖もなにもあったもんじゃない。そしてその血圧の高さを保ったまま、雪崩れ込むようにエンドロール。
ラストの方では美鳥もクッションを放り投げ「なにこれあたしホラー借りてきたはずなんですけどー」と釈然としない表情であった。
見終わった後も途中から参加した父と一緒にアレがだめだったとかコレがいけないんじゃないかなどと不満気に議論していた。
それからも陽はリビングに腰を落ち着け、できるだけ明かりと人の声の元から離れないようにしていた。
朝練があるからと言って美鳥が部屋に戻った後も、父の寝酒に酌をしながら深夜のお笑い番組でヘラヘラ笑って過ごした。
日付を跨いでから半刻にもなろうかという頃、眠気を催した父が欠伸と同時に目も覚めるほどの盛大な屁をこきながら退場し、陽は一人リビングのソファに取り残された。
静まり返ったリビングに、パチンコ屋と健康食品の喧しいCMが交互に響いている。
もはやどこに居ても、深夜の静寂から滲み出る不安はいや増すばかりだった。
陽は意を決して自分の部屋に向かった。