『あなた』の幽霊
夢子は自分の部屋に引きこもったまま出て来なかった。
陽は半ば放心状態で、逃げるように河姆渡家を去った。
こんなはずではなかった。
頭の中ではただその一念だけが、無限に続く自己相似形の螺旋を描いて消えない。
覚悟はあった。
夢子が全てを吐き出せるようにとことんまで付き合うと決めていた。そのためには悪役にもなってやると思った。相手の傷口にも触れるし、涙だって流させてやると、決心していた。
しかし、それはあくまでも絡まりきった糸を解きほぐすためだったはずだ。
なのに、この有様はなんだ。
結び目ははさらに固く引き絞られ、爪の先ほどの引っ掛かりも失ってしまった。そればかりではない。触る必要のない綻びまでをも無理やり引き出して新たな傷を――取り返しの付かない傷を拡げた挙句、おめおめと逃げ出してきただけではないか。
どうして、なんで――
「なんであんなことを言ったんだよ。……なあおい聞いてるのか。聞いてるなら出てこいよ。あれがゆーこさんの言いたかったことなのかよ!」
誰もいない田畑に挟まれた道の真ん中で、後悔と恥と苛立ちとが八つ当たり的な叫びになって突沸した。
問いかけは夏の湿度に虚しく紛れて、返答は無い。
重くのしかかる暑さに呼吸が苦しくなった。吹き出す汗がヤニのように粘ついて悪臭を放つように思える。偉そうなことを言っておきながら結局は逃げ出してしまった自分がどうしようもなく恥ずかしくて、腹立たしい。自暴的な感情だけがどんどん膨らんでいく。
自分は夢子に嘘をついていたのだろうか?
家に帰ってからも延々とそのことばかりを考えていた。中学の時に天鶴山で夢子を振ったということは、もちろん覚えていなどいない。アルバムを見ていて違和感を覚えたのは確かだが、それ以上の具体的な記憶は全く思い出せなかった。記憶を失う以前にゆーこに話してしまったというのも自分の性格では考えにくい。こう見えても口は堅いほうだ。
とにかく、ゆーこと話したかった。
それなのに、こんな時に限って毛ほどの気配も見せないのは、いくら自分の意志ではないにしろ卑怯だと思う。
ウマイもマズイもわからない夕食を漫然と胃袋に投げ込んで部屋に戻った陽は、灯りをつけることもなく、ただひたすら屍のような身体を椅子に投げ出して、薄く開いた目蓋の隙間から闇を飲んでいた。
開け放った窓から流れこんでくるぬるい風を、床のサーキュレーターがゆるゆるとかき混ぜる。隣の田んぼからカエルの声が聞こえる。どこか遠くで、調子っぱずれな蝉がひとしきり鳴いてそれきり黙る。部屋に流れ込んでくる夜の気配の中に五感が溶けていく。時計の秒針の音がまるで頭に釘を打ち込む金槌の音のように聞こえる。
堂々巡りの果てに夢とも現ともつかないまどろみにはまりこんだ思考の隅っこで、暗闇と静寂が粘土のように混ざり合う。
それは徐々に一人の女性の形を成していった。
――そもそも、だ。
一体『ゆーこ』は何者なのだろうか。
もちろん、幽霊なのだろう。だが、幽霊の定番とも言えるポルターガイストやら火の玉やらといった現象を起こすこともできないし、その『存在』を感じとれるのも陽だけだ。
夢子の言うとおり、妹のことが心残りならば夢子にもその姿が見えていいはずだ。なのに陽だけにしか見えないというのは、いったいどういうことなのか。
恋人だったから。最期まで一緒にいたから。
そんな理由付けはいかにももっともらしい響きをみせるが、そのもっともらしさの裏に、なにか見過ごしてはならないものが隠れているように思える。
何処にも行けなくなることが死だと、ゆーこは言った。
ゆーこはもう、何処にも行けない。その体は僅かな灰と骨を残して煙になり、あとに残されたのは記憶と記録の糸で編まれた薄絹のような思い出だけだった。そしてそんな思い出すらも失った陽にとっては幽霊の『ゆーこ』こそが全てであり、その魂を肯定することでしか、彼女の生を肯定する事ができないでいた。
しかし、ゆーこは魂や意識といったものを、一貫して否定しいていた。
彼女の言うとおり、魂や意識といったものが『可能性』に基づいた一つの『状態』にすぎないのだとしたら――たとえるならコンピュータの揮発性メモリのように、可能性という電源を切られた状態は熱として排出され、大気のゆらぎの中に紛れて消えてしまうだけだとしたら。
五月の夜空に溶けたはずの彼女の魂が、なぜ再び凝集し陽の前に現れたのか。
その存在を可能にした秩序は、いったいどこからやってきたのか。
――ある問題がどうしても解けないようなら、それはその問い自体が間違っている。
何の前触れもなく湧き上がった思考が緩やかな渦を描き始めた。渦は周囲に浮かんでいた言葉以前のなにかを巻き込んで急速に勢いを増し、ある一点にむかって収束しいく。
自分しか見えない幽霊、
頭の中に溜まった血、
角砂糖六個分の重み、
二週間の昏睡状態、
正面衝突事故、
右手の痛み、
記憶喪失、
走馬灯、
存在論、
意識、
魂――
今まで見て見ぬふりをしてきたその疑問が、夜の底から恐ろしい速さで浮上し、真っ黒な壁になって陽を飲み込んだ。
身も凍るような直感に襲われた。
全身の皮膚が粟立つ。後頭部からびりびりと痺れが広がる。鼓膜を叩く時計の音が痛い。夜気が喉に粘ついて重い。まるで土の上に転がされた魚にでもなったような窒息感に襲われる。
居ても立ってもいられなくなった陽は椅子を跳ね飛ばし、部屋から逃げ出した。夢遊病患者のような足取りで台所に行き水道の水をがぶ飲みし、そのまま蛇口から流れる水の柱に頭を突っ込んで顔を洗った。頭を上げる。滴る水がTシャツを濡らすのも構わず、深く呼吸をして息を整える。心臓は空気を噛んだポンプのように、力のないリズムで喘いでいる。
全ての問題を上手く説明できる、たった一つのもっともらしい答え。
『ゆーこ』という幽霊は、陽が作り出した幻覚なのではないか。




