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  日常の終わり

 地元の駅に到着すると、いままで押し黙っていた夢子(ゆめこ)がようやく口を開いた。


「とりあえず、私の家にいこう」


 (よう)は頷き、駐輪場から自転車を取ってくる。乗って行くかと訊ねたが、夢子は頭を振った。

 駅の西口を出て少し歩けば、視界に広がるのは田んぼの緑だけになる。道はひたすら真っ直ぐで、空気はひたすら生ぬるく、ひたすら動きに乏しい景色は二人を取り残して時間を止めてしまったようにすら思える。

 ふと、夢子は陽の顔を見上げて言った。


「ねえ、今日の私の髪型、なにか気づかない」

「髪型ってか、そのヘアピン、ゆーこさんのだろ」

「やっぱり気づいてたんだ」細い指を羽に滑らせて、「お姉ちゃんのお気に入りだったから、一緒にお棺に入れてあげようと思ったんだけど、形見が欲しくて貰っちゃった」


 ふーん。と陽は頷く。幽霊になってからもつけているあたり、本当にお気に入りだったのだろう。夢子は話を続ける。


「ずっと、他人事だと思ってた。まさか自分の大切なものが突然無くなるなんて、そんなことあるはずないって、無根拠に安心しきってた。

 ……笑っちゃうよね。日常なんてものはいつだって、さしたる理由もなしに突然奪われ得るものだって、私たちはそれを目の当たりにしていたはずなのに。……多分、心の何処かでは他人事のように思ってたんだ。それこそ未曾有の災害でも起こらない限り、私たちの日常は変わらないんだって、どこかで高をくくってた」

 陽は相槌を打つこともなく、ただ話を聞いている。

「でも実際のところはさ、そんなに違いはないんだよね。戦争だろうが天災だろうが交通事故だろうが、起こってしまったことは一人の人間にはどうすることもできなくて――そしてそれ自体には意味も理由もなく、ただ事実として受け入れることしか許されない。物語という装飾を剥いでみればみんな同じ、重くも軽くもないただの事実」


 夢子の声は稲穂を渡る風になって、淡く陽の中を通り過ぎる。

 それは霧箱に落ちた粒子のように、『日常』という言葉を軌跡として残していった。

 日常――。

 十数年も繰り返したそれはしかし、よくよく考えれば全く同じであったことなど一度もないはずなのだ。どんなに似通った一日だとしても自分自身は確実に変化しているし、自分のあずかり知らぬ世界の何処かでは、今この瞬間にも誰かの日常が終わっているに違いなく、そして自分はそれらの物事を慣習でひとまとめにし、忘却という名の生ごみ処理機にぶち込んで出来上がったなにかを日常であるとしていた。


 それならば――日常というものが忘却と慣習によって成り立っているとするならば、果たしてそれは本当に日常と呼んでよいのだろうか。


 日常というものはもしかすると、以前にゆーこが言った『魂』と同じように、前提を違えた擬似問題なのではないか。


 陽は返す言葉を見つけられないまま、ラチェットのように空回りする思考を押して歩いた。


 河姆渡(かぼと)家に到着し玄関の鍵を開けると夢子は無言のまま靴を脱ぎ捨て、まっすぐ階段を登っていった。そしてそのまま自分の部屋には行かず、ゆーこの部屋の戸を開けた。


「飲み物持ってくるから、クーラー入れて待ってて」

「あいよ」


 夢子はいったん自分の部屋に荷物を置き、下に降りていった。陽はそれを足音で確認してから、ゆっくりと深呼吸をする。

 ゆーこの匂いがした。

 夢子に似ているがそれよりも少し複雑な匂いだ。以前来た時よりも更に薄くなったような気がする。ふと、ベッドに頭から潜り込んで匂いを嗅いでみたいというフェティッシュな衝動に駆られたが、ゆーこに見られでもしたら恥ずかしいことこの上ないのでやめておく。内側のカーテンを開け、コンセントが刺さりっぱなしのエアコンの電源を入れる。


 ベッドも机もゆーこが使っていたころのままで、今にも戸の向こうから生身のゆーこがひょっこりと顔を出しそうなくらいの生活感があった。が、しかし押入れの前に積まれたダンボール――アパートから持ってきた荷物だ――は無言で主の不在を主張していた。

 久しぶりに起こされたエアコンが埃臭い咳をして、部屋の空気を静かにかき回し始めた。


 夢子が盆を持って部屋に戻ってきた。

 陽は麦茶の入ったコップを受け取ってベッドに腰を下ろした。

 互いの出方を窺うような、よそよそしい沈黙。

 ガラスの肌に浮いた水滴が、だらだらと指を濡らしてゆく。


 どのくらいそうしていただろうか――。放心したように茶色の水面を見つめていた夢子が、ふ、と息を漏らして、口も付けないままコップを盆に戻した。


「私は大丈夫だから。もう一度最初から聞かせて」


 まっすぐに陽を射抜く双眸は先日とは打って変わって柔らかく、昏い色は見えない。

 陽は麦茶を一気に飲み干して、言う。


「僕が復学したあの日、誰もいない部室で脅かされた。演劇部の依頼で作ったっていう白鳥の被り物を被ってた――」


 部屋で腰を抜かしたこと、布団の上に正座して説教を受けたこと、借りてきたアルバムを二人で一緒に見たこと、二人で肝試しを楽しんだこと、坊主を呪い殺そうとした四十九日のこと、海に行った日のこと――


 さしあたっては具体的なやり取りは省き、日記的に掻い摘んだエピソードにとどめた。勢いに任せて走りそうになる口をなだめ、ゆっくりと、一つ一つの場面を頭のなかで思い出しながら、陽は物語った。


 夢子は適度に相槌を打ちながら、しかし聞いているのか居ないのかも判然としない、淡々とした面持ちで耳を傾けた。陽が語り終えるとしばらく考えこんで、


「――それで?」と夢子は部屋の中を見回す。「今もいるの?」

 陽が首を振ると夢子は少し気を緩めて、

「じゃあ、声が聞こえるとかいうのは?」

「頭の中に響くっていうか……そうだな、例えるならヘッドフォンをしてるようなふうに聞こえたりするんだ。声を操られるときは、文字通りスピーカーだよ。まるでゆーこさんの声が銅線を流れる電流にでもなったように、承知か否かも関係なしに言わされる感じ」

「なにそれエクソシストみたい」

「まあ実際そんな感じだよ。逆さになって這いまわったり首がぐるんぐるん回ったりは流石にないけど、正直いまだにびっくりすることもある」

 陽は冗談っぽく笑ってみせるが、目の前の仏頂面は緩む気配もない。

「それで、お姉ちゃんの心残りってなんなの」

「大雑把なんだけど、二つある。一つは、僕に記憶を取り戻して欲しいということ。もう一つは夢子の――夢子に安心して欲しいということ」


 どう言おうかと迷ったが、ゆーこが言った『安心』という言葉を、そのまま使った。


「安心って、どういうこと。――私ならもう大丈夫だって言ったじゃない。確かに少しナーヴァスな気分を引きずっているかもしれないけど……でも、お姉ちゃんのことについては自分なりに区切りはつけてる」

「吐くぐらいなのにか」

 にわかに能面が崩れる。夢子は不愉快とばかりに顔を背け、

「ただの夏バテだって」


 嘘をつけ、と思う。

 自己管理力が低いわけでもない夢子が夏バテであそこまで体調を崩すなんて考えられなかったし、なによりも夢子が戻したのは先日だけではないのだ。

 海に行こうと誘われた夏休み前のあの日の事を、陽は覚えている。


「仮にそうだとしてもだ。ずっと様子が変だったってのは自分でも分かってるだろ。……それとも、上手くごまかせてるとでも思ってたのか? 皆だっていつものお前らしくないって心配してるのに」

「いつもの私ってなによ」夢子は皮肉っぽい失笑をこぼして、「変わったのは私のほうじゃなくて『いつも』のほうでしょ。私は何も――何一つ昔から変わってなんかいないのに」

「そうだな……。さしたる理由もなくただ突然にそうなったっていうのは、お前の性格からしたらやっぱり受け容れ難いんだろうなってのは、わかる」


 変わってなどいないのだろう。

 昔から、夢子は理性の信奉者だった。研ぎ澄ました因果の包丁はまさに万能であり、あらゆる事物は綺麗に切り分けて皿の上に並べられるものなのだと信じて疑わなかった。もちろんそんな勝手が通じないことはいくらでもあったし、夢子だって『馬鹿の馬鹿たる所以』は承知している。理不尽を理不尽のままに料理できる柔軟性がなければ、編集部の副部長なんて務まるはずがなかった。

 しかし、


「あれはそういう意味で言ったんじゃない。事実は事実として、しょうがないんだって思ってるって言いたかっただけ」


 どこかで捌き方を間違えたのだろう。それが他人事ならば諦めて放り投げることもできようが、俎上に横たわるのはほかならぬ自分自身であり、故に逃げることもままならない。自分でもおかしいと思いながら取り返しの付かない間違いを重ね、ぐちゃぐちゃに肉を削ぎ骨を割られたそこにはもはや子供じみた意固地しか残らず、それに縋りついて「()も浴せば(こく)になる」と唱え続ければそれが本当になるのだと信じているかのようだった。

 陽はゆーこのレクチャーを思い出す。


「まあ、お前のそういう『理屈が全て』みたいなとこは小さい頃からずっとそうだったもんな。実際にお前はいつも正しかったし。物事は全て正しくあるべきで、何よりも自分自身が一番正しくなければならいと思っている。そういう性格だった」

「勝手に人の性格を決めつけないでよ」

 夢子が苛立ちを露わにして言った。

「でもそこがお前のいいところだと僕は思ってるし、そういう生真面目なところは本当に信頼できる。……だけどゆーこさんはお前のそういうところを『愚直』だと言ってた。正直、僕もそれには肯けるところがある。お前は――」



「幽霊だかなんだか知らないけど!」



 張り詰めた声が、陽の言葉を遮った。

「私にはよー君の言ってることがわからないよ。……確かに、私はどこか変になってるんだと思う。皆が心配してるのもわかってるし、正面から向き合って折り合いを付けなきゃいけないんだってのもわかる。……だけどこんなんじゃ無理だよ。お姉ちゃんの幽霊が居るとか言われても、私にはよー君のほうがおかしくなっちゃったようにしか見えないよ」

 人の形をした見知らぬ何かを見るような、怯えた視線だった。

「だいたいおかしいよ。お姉ちゃんが本当に私のことを心残りにしてるなら、なんで私にはお姉ちゃんが見えないの。夢の中でもいいからなにか言ってくれればそれでいいのに。

 ――どう考えたっておかしいのはよー君のほうじゃない。お姉ちゃんのことだけ綺麗さっぱり忘れちゃったってだけでもありえないのに、それなのに今度は幽霊だなんて、そんなこと言われたってハイソウデスカなんて信じられるわけ無いじゃない。それならまずよー君の記憶を取り戻すほうが先でしょ」


 夢子は己の胎内へ引きこもるかのようにきつく抱きしめた膝に顔を埋める。震える声はところどころ引きつり、それでもなお嘆願するように続ける。


「私のことなんか放っておいてよ。……放っておいてくれれば全部忘れられるのに。大丈夫になるのに。そんな滅茶苦茶なことを言われたってわかんないよ」

 聞き分けの無い子供を諭すような優しい声で、陽は語りかけた。

「それがゆーこさんの望みなんだよ。記憶のことについては、ゆーこさんも僕も、もうこれでいいってことになった。だから後は夢子を――お前を安心させて欲しいって、ゆーこさんはそう言っていた。なんだかんだ言ってもさ、ゆーこさんはお前のことを大切に思ってるんだよ」


 そこで突然、夢子の心がへし折れた。

 何かの(たが)が外れた瞬間が、陽にもはっきりとわかった。


 机を跳ね飛ばすような勢いで立ち上がったその目は、獣のような色に染まっていた。爆発的な勢いで向かってくる足取りに一瞬身体が怯え、何故か反射的に頭を守ろうとして持ち上げたその手首を、小さな手がもぎ取る。咄嗟の判断も利かずにそのまま腕を捻られ布団の上に引き倒された陽の脇腹を、馬乗りになった夢子の白い太腿が締め付ける。


「ふざけるのもいい加減にしてよ! なにが安心だよ、なにが大切に思ってるだよ!」


 へし折れた亀裂から一気に感情があふれ出した。夢子は唾が飛ぶのも構わずに、喉の奥底から言葉を吐き出す。


「いつだって私の大切なものを横取りしていくくせに。皆の前では私を可愛がるような事を言いながら、自分の引き立て役くらいにしか思っていなかったくせに。……こないだの保健室で、敵なんかいないってよー君は言ったけど。たしかに敵はもういないよ。だって、私のいちばんの敵はお姉ちゃんだったんだから」


 違う。そんなことはない。ゆーこは夢子の事を悪く言うところがあるけれど、それは姉妹故の気安さからくるものでまったく本心ではないはずだ。

 陽は抗弁しようとするが、腹を押されているせいで上手く呼吸が、


 ――気配がおとづれた。


 五感の解像度が二次曲線的に上昇する。布団の匂いがまるで雨上がりの畦道ような濃密さで立ち昇ってくる。カーテンの隙間から差し込む日光が額に浮いた脂汗を焼く。倒れたコップの中身が床にパタパタこぼれている。まるで海底に沈んだように、空気が猛烈な圧力で身体を押さえつけてくる。舞い上がった埃がマリンスノウのようにゆっくりと部屋を横切り、




「あなたのそういう面倒くさいとこ、ほんとウンザリする」




 夢子の肩越しに立つゆーこが、心底つまらない物を見るような顔で二人を見下ろしていた。


 金縛り状態の陽はまったく視線をそらすことができない。

 夢子はその口調に一瞬戸惑い、しかしすぐにその瞳の先に何が居るのかを悟って凍りつく。


「自分がどんだけいいものを持っているのかは無頓着なくせに、後悔だけは一丁前よね」


 やめろ。


「あの子なら放っておいても自分で何とかできる、ってな感じで放任されてた私と違って、あなたはまるでお姫様だったもの」


 ゆーこの口調と混ざり合った自分の声が、たとえようもなく気持ち悪い。逆光に浮かぶゆーこの姿はこの世に対する呪いそのものが空中に凝結したようで、その白い輪郭に縁取られた無表情が、心の底から恐ろしい。やめてくれ、と陽は頭の中で叫ぶ。もう、やめてくれ。


「私ね、あなたのことが嫌いだった――というよりは嫉妬してたのかな。物静かで我慢強くて努力家で、誰からもチヤホヤと良い子扱いされて、周りの人が自然と手を差し伸べてくれる。身体にしても背は私より高いし、脚も腕も細くて綺麗で、顔だって私より整ってる。私が勝てるとこなんて、ちょっと勉強ができるとか友だちが多いとか、あと声がうるさいとか、それくらいしか無かった。

 髪を切ったのだってそう。あなたのほうが髪が綺麗だって、陽が言ったからだよ。負けを認めるのは好きじゃないけど、勝てない勝負はとっとと降りるってのが私のポリシーだしね」


 夢子は茫然自失として動かず、陽の胸に落ちた視線は焦点を失ったまま何も見てはいない。


「人よりちょっと要領が良いだけで、まるで十徳ナイフか何かのように勝手にいろいろ期待されて、それに頑張って応えても、見返りはさらなる過剰評価……。

 だから、あなたの持ってる『いいもの』が羨ましかった。いつだってそれが欲しくてしょうがなかった。――でもね、あなただって人のことを言えないでしょ。ひとの男にちょくちょく色目を使ってさ。バレてないとでも思ってた?」


 夢子は隠していた罪を暴かれたような狼狽を浮かべ、震える唇で、


「――ちがう。だって、それは」

「私が陽をとったから? それこそ違うでしょ。抜け駆けしようとしたのはあなたのほうじゃん。中学二年の時に、天鶴山で、あなたは陽に告白して、見事にフラれたんだから」


 細い指がゆるゆると解け、虚ろだった表情がみるまに恐怖と恥辱で満たされてゆく。


「なんで――なんでお姉ちゃんがそれを知ってるの」引きつった口元が泣き笑いのような表情を作る。「あの日のことは絶対誰にも言わないって、約束したじゃない。前に天鶴山に行った時だって、よー君はあのことを忘れてるって……」


 夢子の中に冷たい理解が宿った。上体を起こし、壁に向かって呟くように言う。


「ああ、そっか。私、嘘をつかれてたんだ」

「違う」反射的に答えたのは陽だった。「僕は嘘なんか――」

「あの日のことは私とよー君しか知らないんだよ? お姉ちゃんが知ってるっていうのなら、それはよー君が話したってことじゃない。たとえお姉ちゃんがよー君の頭の中を覗けたとしても、こんどはあのことを忘れてるって言ったことが嘘になる」


 その頬をつたう涙はしかし、感情の表現ではなく機能の崩壊というべきものだった。無造作な勢いであふれた涙は鼻筋から口をなぞり、顎の先からぼたぼたと滴るままになっている。


「わかった。もういい」


 乾いた声。

 夢子はのそのそとベッドから降りた。そして雑な手つきで頭のヘアピンを掴み、ピリピリと髪の毛が切れるのも構わずに毟り取り、だらりと腕を下げた勢いのまま床に投げ捨てた。


「幽霊ごっこがやりたいなら一人で勝手にやってなよ」


 軽蔑するのも面倒だというふうに吐き捨てて、夢子は部屋を出て行った。

 あとに残ったのは呆然としてベッドに沈む陽と、埃っぽい空気をかき混ぜるエアコンの吐息と、茶色い水たまりに塗れた銀色の羽根だけだった。


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