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  ラーメンデート

 駅から数メートル歩いた所で携帯が震えた。

 メールの受信画面を開くと、『ごめんなさい』という題名が目に入った。

 夢子(ゆめこ)からだった。


『ちょっと体調が優れないので今日の部活は休みます。

 |高畠≪たかはた≫君の企画の件はこちらでメールを送っておきます。わからないことがあるようなら助けてあげてください。明日までには回復すると思うので、スケジュール変更の必要はありません。

 迷惑をかけてごめんなさい。よろしくお願いします』


「あーあ、こりゃサボリだわ」

 (よう)の腕に縋るようにして画面を覗き見たゆーこが言った。

「うーん、やっぱりそう思います?」


 間違いないねー。とゆーこが頷く。

 二時間ほど前のことである。陽が地元の駅に向かうと、いつも同じ時間の電車に乗るはずの夢子の姿が何処にも見えず、そのままホームで待っていると携帯にメールが届いた。『ごめんなさい』という題名のそれを開くと『寝坊しちゃって少し送れるかも。先に行ってて』とあった。陽はその文面に引っかかるものを感じながらも『わかった』とだけ返信し、電車に乗った。


 夏休みに入ってからも編集部の活動は止まらない。部室に集まる日は週三日ほどに減るし、それも予定があれば来なくてもいいというふうになってはいるものの、部誌やその他諸々の仕事は――陽のせいで無駄に増えたそれが――山とある。陽も夢子も受験生という立場なので無理に来なくても良いのだが、それ以前に編集部部員としてのある種刷り込み的な義務感があるために、貴重な高校生活最後の夏休みを部活に捧げ続けているのだった。


 要するに、部の伝統というやつである。

 そしてそんな伝統や義務や責任などという言葉にたいして、必要以上に気負うのが夢子の性分だった。部活を休んだことが無いというわけではない。が、いつもの夢子なら体調が悪ければ朝の段階でそうと連絡するはずだ。さらに言えば、目覚ましの鳴る三十分前には必ず目が覚めてしまうような人間が寝坊なんてするはずがない。


 陽は少し考えて、身体を大事にという旨をやや説教じみるくらい強調したメールを返した。


「陽ちゃんも結構イジワルだねえ」いやらしい笑みを浮かべてゆーこが言った。

 夢子の罪悪感を煽るような返信をしたのは、もちろんわざとである。

「なんかさ、こういうの好きじゃないんだよね」


 あの日から、美鳥の言葉がずっと頭の隅っこに引っかかっていた。なぜかといえばもちろん、それが陽の気持ちを端的に表していたからだ。


 付き合いが悪いのは、むしろ夢子のほうなのだ。


 会話らしい会話も少なく、こちらから声をかけてもいつの間にか部活の話にすり替えられ、おまけに今日のサボリだ。慣れない嘘を吐いてみたところで、そんなものはすぐバレるに決まっているというのに――。


 そう思うとなんだか侮られているような気がして無性に腹が立ってきた。しかし、脳天を焦がす気の遠くなるような熱線に、怒りの方向までもが朦朧たる陽炎に紛れて勢いを失う。


 何もかもが、夏の空気のように重ったるく淀んでいた。


 発散が必要である。

 陽はいつもコンビニで昼食を買い込み部室でそれを食べるのだが、今日は奮発して外食することにした。


 立ち寄ったのは名をしらかば軒といい、以前に部誌のラーメン特集で取り上げたこともある店だ。麺モノはプラス五〇円で大盛りにできるところが陽は気に入っている。

 ちょうど暖簾を上げたとこで、陽が最初の客のようだった。ちょっとだけ得意な気分になりながら好きな場所に腰を下ろした。メインは冷やし中華と入る前から決めていたので、それにもう一品足そうとラミネートされたメニューを眺めて考えていた所、メニューに華奢な指が止まった。


「ここはスタミナからみそラーメンに決まりだね」


 二人掛けのテーブルの向かいにゆーこが座っていた。


「冷やし中華の大盛りにするよ」

 するとゆーこは顔中をひしゃげて不満を表し、

「夏だから冷やし中華って、なんか安直じゃん。それって暑さに負けてるし雰囲気に流されてるって思わない? 夏こそスタミナ系でしょ。や、それも安直だってのはごもっともな意見よ。でもね、そもそもラーメン屋に来てだよ、せっかく仕込んだスープがあるのにだよ、冷やし中華ってのはちょっと寂しいじゃない。なにかチガウじゃない。そんでもって幽霊になった今だから言えるけど、私ここの冷やし中華そんなに好きじゃないんだよね。タレが平凡っていうか、明らかに季節商品的な間に合わせ感があってさ、ラーメンの力の入れ具合とは明らかに差があるんだもの。ね、だからラーメンにしよう。スタミナからみそラーメンのほうが私はいいな」


 誰にも聞こえないのを良いことに、テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで勝手なことをまくし立てるゆーこ。陽はひそひそと反論する。


「いいじゃないですか安直だろうが間に合わせだろうが平凡だろうが。っていうか『私はいいな』ってなんだよ、ゆーこさんは食べらんないでしょうが」

「私は陽ちゃんが食べるとこを見たいの。陽ちゃんだってガッツリ胃に打ち込みたい気分なんでしょ? 私は男らしく麺をすするガッツリ系陽ちゃんが見たいな!」


 ゆーこはテーブルに身を乗り出し、遊べとせがむ犬のような瞳で陽を見つめる。

 こうなってしまったら、折れる以外になす手はなかった。


「――わかったよ」ため息混じりに呟いて陽はカウンターのおばちゃんを呼んだ。「すいませーん! スタミナからみそラーメンの大盛り一つ!」


 注文を受けたおばちゃんが踵を返そうとした時、勝手に口が動いた。


「あとギョーザも!」


 おばちゃんが厨房に戻ったところでやっと喉が自由になった。

「いやあ、ついつい声が出ちゃった。ごめんねえ」

 言いながらも、そこに反省の色は見えない。


 陽は非難を込めて睨みつけてみるものの、眉間に寄せた力はすぐに解けてしまう。不思議と人を巻き込んでしまうゆーこの無邪気さは、本来に持つ人の良さからくるものに違いなく、そんな彼女の前にあっては中途半端な怒りなど、逆に滑稽を演じることにしかならないのだ。


 まったく、この人にはかなわない。

 店内をうろつき回るゆーこのおぼろげな姿を、陽は夢でも見ているような気分で見守っている。ここでいう夢というのは、比喩というよりももっと直接的な意味を持つ。


 ゆーこの姿や見え方は、その時々で変化するのだ。


 服装や髪型、さらに存在の解像度とでもいうのだろうか――それらはまるで一定しない。たとえば目の焦点が合わないような、像がボヤケる程度に見えることもあれば、映りの悪いアナログテレビのようにゴーストを引き連れていたり、今ならば多重露光の写真みたいに身体の一部を空間へと置き忘れるようにスタンプして歩いたりもする。


 オカルティックなモノが大の苦手である陽が、ゆーこの人ならざる奇妙な有り様を目の当たりにしてなお心穏やかにしていられるのは、眠りの中で夢を見ている時のように無根拠な――しかし確固として自明であるという、理性を超えた肯定感を覚えるからでもあった。


 五分ほどしてドンブリが運ばれてきた。


 山である。


「うっわ、ここの大盛りってこんなに多かったっけ」


 ゆーこが目を丸くして言った。

 大盛り用の器に蓋をするように敷かれた豚バラチャーシューの上には、ニラとモヤシの炒めものがトドメとばかりに丘陵を成しており、それらの間に埋もれた辛味噌の玉がかろうじてといった感じで顔を出している。ここまでくると下品の一歩手前だ。陽の記憶では大盛りであっても増えるのは麺だけのはずだが、これは明らかに炒めものが多すぎる。サービスだろうか。


 ともあれ、頼んだからには食べないわけにはいかない。陽は箸を割り山を崩しにかかる。

 とてもそうは見えないが、陽はなかなかの大食らいである。食い気自体はそんなに強いわけでも無く、普段も常識的な量で満足しているのだが、ひとたび調子が乗ってくると人の倍は食べる。その食べ方にしても一気に詰め込むのではなく、淡々とではあるが確実に削ってゆくタイプなので、大食漢という印象を与えることはない。


「どう? おいしい?」

 ゆーこは肘をついた手に顎を乗せ、陽の食べっぷりをうっとりと眺めている。

「うん、おいしい」

「そっか。よかったよかった」


 ゆーこはまるで自分の作った料理を褒められたように上機嫌で、にこにこと楽しそうに――なんだかペットに餌をやっているような顔に見えなくもないが――観察を続けた。


 そうやってじっと見つめられているのは、なんだか妙に気恥ずかしかった。たとえるなら着替えを見られるようなむず痒さだ。見知らぬ人との相席もあまり気にならないタチの陽であるが、こうも凝視されては流石にやりづらい。

 気まずさを誤魔化すために、なにか話しかけようと思って顔を上げ、


「ん? どうかしたの?」


 ふと思いついて餃子を一つつまみ、タレにつけてゆーこの鼻先に差し出してみる。


 はむっ。


 反射的に食らいついたゆーこだが、当然食べられるわけがない。うむうむと咀嚼するふりをみせるも、すり抜けた箸が鼻穴から生えている。陽は笑いを堪えながら箸を引き抜く。やはり餃子は元のままだ。これみよがしに一口で頬張る。


「むー!」とゆーこが頬をふくらませた。


 その様子に自然と笑みが込みあげてくる。本当によく表情が変わって、楽しい人だ。未練故に現れた幽霊のくせに、生者に対する恨みや妬みをみじんもみせないのは、死してなお明晰な理性のせいだろうか、なんにせよ一緒にいても嫌な気分にはまったくならない。


 もし今も生きていてくれたなら――


 もっと楽しく笑えるのかもしれないと陽は思う。こんな人が近くにいて、しかも自分とは友人以上の関係であるというのは、疑いの余地もないほど幸福なことだったはずだ。


「なによう。なんなのよその目は。幽霊だからって馬鹿にしてんのかオイコラ」


 ゆーこはわざとらしくいじけてみせる。きっとテーブルの下では犬の尻尾のように脚をばたばた振り回し、陽の脛に蹴りを見舞っているに違いなかった。

 冷水で舌の上をそそぎながら周囲をさり気なく確認して、言う。


「ゆーこさんが可愛いなあ、って思ってさ」


 その言葉を受けたゆーこが、一瞬息をつまらせたのがわかった。予想外のことに驚いたのか、ふい、と顔を伏せ上目遣いに陽の表情を窺い、だけどすぐに顔いっぱいの笑みを咲かせて、


「そんなの当たり前でしょっ。今更なに言ってんのよ」


 手を伸ばせば触れられる距離なのに、光の速さでも永遠に届かない彼方にその笑顔はあった。


 それが今の陽には少し寂しい。

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