表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/45

  ゆーこさんのオントロジー

「何処にも行かないよ」


 麦藁帽子をかぶったゆーこが、まるでパラソルの影から生まれた蜃気楼のように座っていた。

 (よう)はゆーこを一瞥し、


「どういうことですか」


 何事もなかったかのように先を促した。街中で出てきた時は流石に驚いたが。この状況なら帰ってくる美鳥(みどり)たちにさえ気をつけていれば問題はないだろう。


「幽霊の私が言うのもおかしな話だけどさ、そもそも意識や魂なんてものを語ろうとすることからして間違っているんだよ。まったく前提を違えている」

「それってどういう意味」

「形ある肉体と形なき意識っていう、デカルト的な二元論はナンセンスだって意味よ。『君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある』と言ったニーチェに私は一票を投じるよ」


「そうかなあ」陽は裸足の爪先で砂を弄びながら相槌を打つ。「意識の問題ってそんなに単純じゃないと思いますよ」


「大雑把にたとえるなら、タイプライターみたいなものかもしれないね。タイプライターは文章を生み出すけれど、タイプライターそのものを分解してみても文章は見つからない。そこにあるのは文章に対する『可能性』だけ。

 ほら、猿がタイプライターをランダムに叩き続ければ、いつかはシェイクスピアの作品を打ち出すこともあるっていう、あれみたいなものだよ。この場合は猿を宇宙の物理法則と置き換えてもいいね。タイプライターには全ての文章への可能性が備わっている以上、どんな文章でも十分な時間があれば必ず作り出せるんだよ。あ、因みにシェイクスピアの全ての仕事をデータにすると5Mb程度なんだって。ちょっと高画質な写真を二、三枚も撮ったら超えちゃうくらいだよ。そう考えるとそんなに途方も無い確率ってわけでもない気がしない?」


「なんだか煙に捲かれてる気がする」


「この場合、ハムレットが出来上がるかどうかは重要じゃないんだよ。文章という可能性を汲み出すため、ある種の必然を伴ってタイプライターがあるということ。文字という概念とタイプライターの部品は、可能性の名の元に不可分であるということ。参照される要素が有限であるなら、それがどんなにランダムな並びであっても必ず何かしらの規則性が含まれることになるってこと」


 なんとなく、話の方向が見えてきた。


「ようするに、物理的な運動そのものが、すでにある種の『可能性』を表すものであって、そしてそれを積み重ねていけば、一見して達成できそうにない規模のものでも、可能である限りはいつか実現しうるってこと?」

「まあ、だいたいそういうこと。そしてさすが陽ちゃん。運動というのは良いところを突いてきたね。たとえばとある実験では、表示された光点に『手を伸ばそう』という意思を持つよりも早く、腕の筋肉に信号が発せられていることが確かめられている。これはつまり、運動を行うには意識なんでものは必要ないってわけ。私たちは街中を歩いている時に『次の角を曲がろう』と思うことはあっても、その足の動かし方まではいちいち意識していないでしょう? つまるところ、意思なんてものは行為を上手くサポートするためのオマケにすぎないんだよ。そういう運動の中にあっては、行為の主体である自己と客体である環境を上手く仕分け、さらに行為から行為への変遷を淀みなく行えるようにするための道具として『意識』というものがあると、便利だってことだね。

 だからね、換言するならば形も運動も伴わない意識なんてものは、前提からして間違っているんだよ。ある問題がどうしても解けないようなら、それはその問い自体が間違っている――つまりは擬似問題だね。

 意識やら魂なんてものは、さながら永久機関のような『発明品』でしかなかったんだよ。実際には存在できない、紙の上に打ち出された一つの概念ってわけ。

 だから、何処にも行けなくなることが死なの。概念を成り立たせるための運動が止まってしまえば――タイプライターのアームが絡まったり行送りのギヤが壊れたりしてしまえば、もう文字を打つことはできない。それはそこにあった文字への可能性が壊れることでもある。一度可能性の網目からこぼれ落ちた概念は拡散し、二度と元に戻らない……。それこそカップの中に落とした角砂糖が崩れていくように、ね。それが私の存在論(オントロジー)よ」


 滔々とまくし立てたゆーこは満足とばかりに一息ついて、陽の顔を覗きこんだ。


「というわけで、むっこと私、どっちが勝ちだと思う? 陽ちゃんはどっちを選ぶ?」


 今までの流れをぶった切るような問いに陽は呆れて、


「これって勝ち負けの問題だったの?」

「そらそうよ。女二人の前に男が一人居るとなれば、もう何もかもが闘争なんだから。ルール無用のバーリトゥードよ。むっこが屁理屈こねるなら、こっちも屁理屈でやっつけてやるってのが私のやり方だもん。ま、単純にイジるのが楽しいってとこもあったけどね。ベソかいてる時だけは可愛いのよ、あの子は」

「意地悪な姉だなあ」

「これも愛情表現よ」

 ゆーこは臆面もなく笑ってみせるが、それでも陰険な雰囲気は微塵も感じさせない、乾いた明るさがあった。


 どこか老成した雰囲気のある夢子(ゆめこ)とは反対に、良くも悪くも子供っぽい奔放さがあるゆーこだが、やはり姉妹だけあって根っこの部分では通じるものがあると陽は思う。

 考え方が理屈っぽいところや、一度スイッチが入ると最後まで意見を言わなければ気が済まないところが似ているし、姉を称して猫のようだと言った夢子にしても、気紛れで向こう見ずなところがないとはいえない。小五の時に山で遭難しかけた件だって、勝手に道から外れた夢子に原因があった。


 不意に、二匹の猫が弄れる様を見ているような、ほのぼのとした笑いがこみ上げてくる。


「やっぱり、ゆーこさんと夢子って似てるよね」

 ゆーこは不服そうな声を上げる。

「えー、どこがぁー? 全然似てないでしょー」

 陽は面白くなってからかう。

「それもそうかなー。夢子はだれかさんと違ってしっかり者だからなー」

「むーっ! そういう言い方が一番イラッとくるんだけど!」


 憤慨したゆーこは砂を掴んで陽に投げつけ――る事ができず、傍からは駄々をこねる子供が腕を振り回しているようにしか見えない。その動きがいっそうの可笑しみを誘う。


「ていうか、むっこだってそんなにしっかりしてるわけじゃないでしょ。いつも澄ました顔してるけど、結構バカな子だよ? 余裕が無くなるとすぐにあっぷあっぷしちゃうんだから」


 流石にバカとまでは思わないが、陽はその意見に少なからぬ同意を覚える。硬い鉄は強いが曲がらず割れてしまうように。何事もそつなくこなしてしまう夢子だが、ある閾値(いきち)を超えてしまうと途端に行き詰まってしまう面もある。


「要領が悪いんだよ。たとえば本を読むのだって、ページの端から端までじっくりとなぞって、もう一字一句逃すまい、みたいな読み方をするじゃない」

「それって普通じゃないんですか」

「普通といえば普通だけど、私に言わせれば真面目バカだよ。本なんてもんは小説だろうがなんだろうが、ざっと流し読みするだけで十分なんだから。気になった箇所があればその都度読み返せばいいのよ。だからあの子の本棚には私のお下りがどんどん溜まっていくの」


 非難めいたことを言いながらも、妹に向けたその表情はまるで我が子を見守る母のように穏やかで、しかし同時にどこか寂しげでもあった。


「いいじゃないですか、実直で」

「愚直なんだよ」


 遠くで風になびく、白炭を割ったような黒髪を、二人はしばらく眺める。夢子はサンダルを脱ぎ、(みぎわ)に寄せる波に足を浸してぶらぶらと歩きながら、時々身をかがめてては貝か何かでも拾っているようだった。


 パラソルの下に陰った怠惰な空気が心地良かった。


 この二ヶ月で『ゆーこ』の存在にもすっかり慣れてしまった感のある陽だが、闊達(かったつ)でありながらも朝露のように穏やかな佇まいや、ふとした時に見せる大人びた仕草などを見ていると、胃の奥がむずむずするような、言葉にしがたい何かを感覚することがあった。


 居心地の悪さすら覚えるそのもどかしさについて考えていたところ、ふと、ある疑問が思考の結線上に浮かんだ。


「ねえ、ていうかさっきの話、おかしくない? 魂なんか存在しないっていうんなら、今ここにいるゆーこさんはなんなんですか」

「お? 言われてみれば確かに、私幽霊だもんね、エヘヘ」

 ゆーこはふざけた調子で笑い、顎に指をあてて考える。

「うーん……。まあ、それはそれこれはこれ、だよ。こんな状態になっても、私的にはやっぱり幽霊なんて野暮なものは信じられないもん。『一度咲いた花は永久に死ぬ。これだけは確かだ』というのはペルシアのオマール・カイヤムが残した名句ね。私の好きな言葉の一つだよ。つまり、永久の死を控えているからこそ、花は美しく咲く――と、そういうふうに思いたいんだよ私は。どうよ? 乙女じゃね?」


 なにか上手いこと言ってるような雰囲気だが、なにも答えになっていない気がする。


「幽霊を信じない幽霊って、撞着(どうちゃく)してますよね。たとえるなら『このページには文字は書かれていない』って書かれてる本とか、『張り紙禁止』の張り紙みたいな」


 そうやって口に出してみると、いやがおうにも矛盾感が増す。もしかしたら本当に、夢子へ対抗するためだけに屁理屈をこねていたのだろうか。物事にこだわらないフリをしながらも、腹の底では反抗心の熾火(おきび)が常に燃えているところも、この姉妹は似ているのだった。


「じゃあ、さっきと同じように考えてみたらどうかな。つまり、魂と幽霊とを同一とする前提が間違っているとしたら、どう? 考えてみれば、その二つを同じものだとする証拠は何処にもないじゃない。

 魂とは別の、超自然的な何かによって幽霊という存在が成り立つものだとしたら――ここにいる私は『悠子』なんかじゃなくて、あなたを化かすためにやってきた悪魔か妖かしの類だとしたら?」


 麦藁帽子の影にあってなお昏い瞳孔の底から響くような声。

 艶っぽい口の端が怪しく吊り上がり、白磁のような犬歯が覗く。

 幽鬼のごとき禍々しさすら漂うゆーこの声色に、陽は何も言い返せない。ごろり、と喉仏が上下する。もしかしたら本当に、目の前にいるのはゆーこの形をしたこの世のならぬ何かで、あの事故で死に損なった自分を呪うために現れたのではないかと、そんな気すらしてくる。


「どうしたの、陽。そんな顔して……」


 ゆーこがゆっくりとにじり寄る。

 その容姿はやはり、収差の酷いレンズを通して撮影した幻のようだった。

 生々しい非現実感に、思わず陽が肩を引くと、


「――っぶふふ」


 ゆーこはたまらずに吹き出して、顔を上げた。


「なーにマジでビビってんのよ。ほんと陽ちゃんって脅かし甲斐があるわー。くふふっ。ま、そういう所も可愛くて好きなんだけどねー」


 ゆーこはからからと笑いながら、質量の無い指で頬を突いてくる。

 あけすけな愛情表現に耳が熱くなるのを感じた陽は顔をそむけて、


「前言撤回。やっぱゆーこさんと夢子って全然似てない」

「あ、照れてやーんの」

 にやにやしながら尻をもぞもぞと動かしてくっついてくる。

「付き合い始めのウブい感じを思い出すなあ。ぬへへっ。あの頃はこうやってちちくりあってるだけで脳内物質出まくりだったもんね。もうエンドルフィンじゃばじゃばの脳ミソびちょ濡れよ」

「そんなん思い出さなくてもいいです、ってか言い方がなんかオヤジくさいなあ」

「でも、そんなオヤジくさい人に惚れて告白したのは陽ちゃんのほうでしょ?」

 そう言われると何も言い返せなかった。

「まあ、そりゃそうなんだろうだけど」


 記憶を失ってはいても、自分がこの小柄で朗らかな女性のパートナーであったという事実の痕跡にしばしば気付かされることはあった。


 三年を過ごした部の見知らぬ記録。

 部屋にある覚えのない小物や写真。

 周りの人間から受ける同情の視線。

 いつ身につけたのかもわからぬ癖。


 自身の同一性すらをも脅かされるようなそれらの欠損は、普通ならば恐怖でしか無いはずだったが、陽はそこにゆーこの消息を探すことで、底の見えない虚を覗く恐ろしさにかろうじて取り憑かれずにいたのだ。隣に座る幽霊は、いまや陽にとっての精神安定剤的な役割をも果たしていた。


 自分には言うべきことがあると、陽は思う。


 が、しかし、


「ありがとう」


 ゆーこの声が、喉元までせり上がってきたそれを押しとどめた。

「前にもこんなこと言ったような気がするけど。陽ちゃんとこうして居る時だけ、私は私でいられる。幽霊としてこの世に現れることを、他でもないあなたに許されてるような気がする」


 陽の肩に、鈴のような頭がそっと預けられる。そのウスバカゲロウのように微かな――しかし確かな存在の重さを陽は黙って受け止めた。


「だから、私は大丈夫。この幸福な夢がいつ終わってもいいって思える。たとえ私が生きていた頃の事を忘れられたとしても。あなたは今こうして私を見て、聞いて、感じてくれている。私が今ここにいられるということは、そういうことなんだって、分かったから――

 それだけでもう、私は安心だ」


「うん」


 陽は静かに頷き、目を閉じる。

 目蓋を貫く光が作る白い闇の中で、ゆーこの声と気配だけがますますリアルに感じられる。


「むっこは――あの子は自分の弱みを人に見せないように隠してしまう癖がある。自分で勝手に色々抱え込んで、重みに耐えられなくなって一人で潰れて、そしてそれすらをも隠そうとする、どうしようもない馬鹿な子なんだ。

 だからお願い。今のあの子を支えられるのは、あなただけなの」


「うん」


「あの子を安心させてあげて」


「うん」


 目蓋を持ち上げた。

 僅かに動かした視界の端に、陽炎(かげろう)のようにおぼろげな輪郭を認める。

 言うべきことは、決まっていた。


「約束するよ。夢子のことも、ゆーこさんが今ここにいたことも、絶対に忘れないって、約束するよ」


「……ありがとう、陽ちゃん」

 ゆーこは穏やかに頷いた。


 波打ち際から離れた夢子がパラソルの方に歩いてきた。

 陽がその動きに気を取られた一瞬のうちに、まるで神様の指によって世界の膜から弾きだされたように、ゆーこはその姿を消した。



 それでも二一グラムの甘い重さだけは、しばらく肩になずんで消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ