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  河姆渡夢子のオントロジー

 五人はパラソルに戻り、ウェットタオルなどで汗を拭った。

 バレーの決着はつかずじまいだが、男子がリードしていた事と(よう)の右手の事情を加味し、女子が全面的に負けを認めた。早速最寄りのコンビニまで買い出しに行く事になり、陽と清治(せいじ)は荷物番として残る事になったのだが、容赦無い日差しにすっかり体力を奪われてしまった夢子(ゆめこ)の代わりに、清治がついてゆくことになった。


 残された二人はなんとなしに口をつぐみ、海を眺めていた。

 ゆったりと繰り返す波の低音が、体を柔らかく包みこむ。日陰に居てもなお肌に感じる砂の輻射を、海風が優しく和らげてくれる。


 穏やかな沈黙だった。


 陽も夢子も、あえて無言を保ち続けた。言葉を介して互いを確かめる必要もないくらいに二人の付き合いは長く、言葉によって繋ぎ留めるまでもないほど永くこの関係が続くのだと、共に確信しているが故のことだった。


 たっぷり五分は過ぎた。


「お姉ちゃんと話してるみたいだった」


 夢子がぽつりとこぼしたその一言に、陽は胸裏に狼狽した。まるで山歩き中に熊にでも出くわしたような、胃の縮み上がるような緊張を覚える。

 そんな陽をよそに、夢子は水平線を見据え、独り言のように続ける。


「いつもみたいに悪巧みをしてるのとは、違う顔に見えた。あんなふうに、ちょっと困ったみたいな目で笑うのって、お姉ちゃんが相手の時だけだったから」

「いたって普通に電話してただけなんだけどな」

「まあ、私が変に勘ぐってるだけかもしれないけどね。よー君が違うって言うなら、違うんだろうけど、でも――」抱えた膝に顔を埋め、鋭利な目つきで陽を逆袈裟に斬りつけ、「でも、もし他の女の子と浮気してたりしたら、その時はお姉ちゃんのところに直接謝りにいってもらうからね」

「オオ、おっかないおっかない」陽は茶化すように肩をすくめた。「土産話をたくさん作るためにも、できることなら長生きしたいところだ」


 そんなふうに笑いながら、本当のことを話せたらどんなに楽かとも思う。彼岸(ひがん)此岸(しがん)を連絡する通信線になって、別たれた姉妹の間に鴒原之情(れいげんのじょう)を燈すことができたなら――


 しかし、それは身勝手すぎる妄想だ。夢子は『ゆーこ』の姿が見えず、声も聞こえない。夢子が生きるこの世界にはもはや、彼女の姉は存在しないのだ。残ったのは、灰と骨と額縁の中の笑顔だけ。そんな『現実』に打ちのめされ、それでも気丈に立ち上がろうとしている夢子の、その後ろ髪を掴んで泥中に引きずり倒すような、そんなマネをしてはならない。ゆーこという幽霊を知るのが自分だけである以上、その責任は陽だけが背負うべきだろう。


「みやげ話、か。……よー君は『あの世』って在ると思う」

「あの世ねえ……。いわゆる死後の世界ってもんは無いと思う。でも、魂は在ると思う」

 ゆーこの証言を参考にするなら、そういうことになる。

「なんだか珍しい組み合わせだね。大概は両方まとめてイエスかノーかなのに」

「なんていうか、人を人たらしめてる何かってのは在るんじゃないかなと思う。人にかぎらず、命あるもの全般に共通する、原始的な意志みたいなものがあって、体がその運動に追っつかなくなった時、その意志がすっぽり抜けだして何処かへ行ってしまうんじゃないかな」

「集合的無意識とか力への意志とか、そういうやつかしらね」


 陽にはよくわからない用語を呟いて納得した夢子は、束の間思考を空に投げて、話を続けた。


「――ねえ、魂の重さって、いくらか知ってる?」

「魂に重さなんて在るの」

「二一グラムなんだって。アメリカのとある医師が、今際の際にある患者の体重を量る実験を行ったの。実験開始から三時間四十分後、患者が息を引き取った。すると棹秤(さおばかり)の端が急に下がり、音を立て一番下の棒に当たると、跳ね返ってくることもなくその場に留まった。その重さを確認したところ、四分の三オンス――約二一グラムだった。これが俗に魂の重さだって言われてるの。ちょうど角砂糖六個ぶんくらいね」


 へえ。と陽は相槌を打ちながら、台所で菓子用の秤に乗っかる小さなゆーこを想像して、なんだか可愛いなと一人で楽しくなる。


「魂に重さがあるとするなら、とうぜん質量保存則が適用されるよね。じゃあその重さは――二一グラムの魂は、体から抜けだしたあと何処へ行くんだろう。

 たとえば沖縄や瀬戸内のあたりでは海の向こうに死者の世界があるし、古事記では地下に黄泉の国がある。山岳信仰の文化では深山幽谷(しんざんゆうこく)それ自体が異界そのものだったし、宗教の影響力が衰えた現代だって『お星様になった』なんて科白が一つの常套になっている。死後の魂が何処か遠くへ、人の住む世界から人智を超えた世界へと越境してゆくという話は、世界のどの文明にも共通して存在する。

 ――だけど、今は科学の時代だよね。量子スケールの世界を操作し、宇宙の最初期に生成された星の痕跡すら観測できちゃう。そんな現代じゃ素朴な死生観はどんどんファンタジー化していって、そこらの三文小説よろしく気軽な興味と好奇心の餌にしかならない、娯楽のような『お話』の一つになってしまった。大きな世界へ旅立つはずの魂は、それこそ単なる角砂糖程度の重みしか得られないようになった。……それってなんだか、寂しい気がしない」


 波の音に酔わされたのか、らしくない饒舌さを見せる夢子に、陽は戸惑いながらも応える。


「そうだな……。昔に比べりゃ色々と身も蓋もないっていうか、野暮が大手を振ってまかり通るようになったのかもしれない」

「頭では分かってるんだけどね。正直言うと、あまり実感ないんだ。金曜日とかになると、いつもみたいにフラっとお姉ちゃんが帰ってきそうな気がするの。今でも電話をかければつながるようなような、メールを送れば返信があるような……。

 こないだなんかね、部活の資料をどこにしまったのかメールで訊こうとしちゃってさ、途中まで打ってようやく気付いた。……馬鹿みたいでしょ」


 そう言って夢子は口の端を持ち上げてみせるが、その笑みはひどく自虐的だった。


「結局は私の認知の問題なのかもしれない。たとえば今私は、お父さんはまだ生きていて、近くの砂浜で釣りをしていると思ってる。でもそれはここにいる私が勝手にそう考えているだけで、実は熱中症で倒れてたり、うっかりシカケの針を指に刺して痛い思いをしてるかもしれない。今この瞬間にお父さんが生きている保証なんて、実際どこにもない。

 私は私の感覚器が及ぶ範囲の出来事しか認知できないんだよね。だからこうしてよー君が隣にいる事はわかっても、美鳥たちのことなんてわからない。ただお父さんがまだ釣りをしていることや美鳥たちが買い物に行っているという物事の継続性が否定されていないから、私はそれらの物事が続いていると()()()()()いるってだけ」

「夢子ってさ、つくづくロジカルっていうか、理系思考だよな」

 陽が口を挟むと、夢子は不機嫌をあらわにして、

「なによ、可愛げがないって言いたいならそう言えばいいじゃない」

「べつにそういうつもりで言ったワケじゃないんだけどな」

「じゃあどんなつもりで言ったの――なんて追求はしないでおくよ。フン。まあ可愛げの無さは自覚してるしね」と卑屈っぽい口調で頬杖をつく。「とにかく、そこで私はこう思うことにしたの。お姉ちゃんは海の向こうに行ったんだって。バイトで貯めたお金つかって、おっきなバックパック背負って、世界を旅して回ってるんだって。

 お姉ちゃんて根が無責任っていうか、何事も自分の興味と気紛れ最優先で動く、猫みたいな人だったじゃない。だからそんな感じでバックパッカーにかぶれたかした挙句、彼氏も家族もほっぽって、勝手に海外に飛んでって、今頃タイあたりをうろついてるんだろうって、そんなふうに思うようにした。ニライカナイに渡るのもカオサンロードで沈没するのも、同じようなものじゃないか、ってね」


 飛沫に湿った風は静かな潮流のように、二人の間に吐き出された言葉を攫おうとする。夢子は海中の魚が呟くような小さな声で続ける。


「――たとえばの話ね。いまや世界人口は七〇億を超えたそうだけど、その一方で一人の人間が安定して関り合いを持てる人数はおおよそ一五〇人程度だって言われてる」

「一五〇人の法則、またはダンバー数ってやつだな」

 陽が合いの手を入れると、夢子はほんの少し満足げに頷き、

「じゃあそれ以外の人は? ダンバー数からあぶれた七〇億のその他大勢は、私にとっては居ても居なくても同じ……影みたいな存在でしかないってことになるんじゃないかな。

 つまり今ここにいる私にとって、今ここにいない見知らぬ人々は、幽霊も同然なんだよ。

 だからそれと同じように。勝手なお姉ちゃんは私の一五〇人の法則から抜けだして、七〇億の幽霊と同じ所に旅立ちました。と、そういうふうに思うようにしたの。一人の人間の存在なんてそんな程度のものだってね……。

 それが私なりの存在論(オントロジー)ってやつ」


 背負っていた荷を下ろすように、どっと息をはいて立ち上がり、


「だから、私は大丈夫。もう、なんともない。なんとも思わない」


 サンダルを引っ掛けた夢子は、斬りつけるような日光の中に歩き出していく。

 その後を追おうと腰を僅かに浮かせた陽は、しかし思いど止まった。

 追うには言葉が必要だった。

 だが、今はどんな言葉も余計な世話にしかならないだろう。

 夢子だって鈍感ではないのだ。周囲から心配されていることぐらいわかっている。ただ、確固不抜な自己像を保つために、弱音を吐くというのがどうしてもできなかったのだろう。


 いままで姉の死について語ったことなど一度もなかった夢子が、初めて自分の気持ちを口にしたのだ。

 なんともないなんて嘘だと陽は思うが、しかし夢子は夢子なりに、現実を受け入れつつあるのかもしれないとも思えた。

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