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  見えない傷跡

 海には不思議な力がある。

 とりわけ(よう)たちのような内陸の住人にとっては、海という場所はまさしく非日常の世界であり、波打ち際はそんな異界への境界だった。足にまとわりつく砂と有機物の匂い。爽やかな湿度。腹の底に響く潮騒に包まれて、思考は頭のてっぺんから干上がっていく。


「えー、今のはネットでしょー!」

 美鳥(みどり)がぴょんぴょん跳ねてアピールした。


 最初は輪になって徒然にボールを回していたが、途中から「夏の砂浜といえばビーチバレーだろう」という話になり、菓子を賭けて勝負することになった。とはいえ道具はボールが一つあるだけだ。コートは足でテキトーに線を引いた。男女でチームを分け、運動が苦手な夢子(ゆめこ)と背の低い美鳥に考慮し、ハンデとして男子側と女子側では高さの違う、目に見えないネットを張った。


 それでも男子二人の体力に終始押され気味な女子チームは、敗色が濃いと見るや戦術を変え、心理戦もといゴネで押し通す作戦に打って出たのだった。


「今通ったのここでしたもん、ここ!」

 寒河江(さがえ)も美鳥に並び、二人は新種の猿かなにかのように飛び跳ねる。

「いいや、入ってたね。引っかけ気味のタイトなコースでビシィっとキマったね」

 しかし清治(せいじ)も退かない。双方とも空中に引かれたラインを指さして主張を曲げず、話は領土問題さながら平行のままねじれ「どちらの心が清いか」という不毛な討論にずれ込みつつあった。さすがの美鳥も寒河江の負けず嫌いにはついて行けず、夢子にむかってお手上げの仕草。元よりやる気のない夢子は早く終われとでも言いたげに、うんざりした顔で一言。


「じゃんけんでいいじゃない」


 清治がパーで負けた。


「チクショウ。こうなったら一気にカタを付けようぜ」


 わりと本気で悔しがる清治だが、もう勝負なんてどうでも良いと陽は思う。それよりもこの日差しの下で動きまわるのがそろそろキツくなってきた。陽も清治も、すでにシャツを脱ぎ捨てている。背中が汗でべとべとする。このまま下も脱いで海に飛び込みたい衝動にかられる。

 ボールを渡された夢子が、棒立ちのまま機械的なサーブを放った。

 絶妙な高さの球は風にやや流されて、狙いすましたかのようにコートの隅へ吸い込まれる。陽はなんとかボールを拾い、すかさず位置についた清治がオープントスを上げた。

「よっしゃ、決めろよ!」

 陽は助走を付けて飛び上がり、美鳥の背後に空いたスペースを狙って、




 右手が弾け飛んだかと思う。




 ボールを打った手に落雷のごとき衝撃が走り、砂に触れたつま先から力が抜け、崩折れた。


「よー君!」

 皆の目がボールを追う中で、夢子だけがいち早く異常に気付いて砂を蹴った。

「どうしたの? どこか具合が悪いの?」


 返事をする余裕もなかった。額から油汗が滲む。濡れた皮膚を撫でる海風が物凄い勢いで体の熱を奪ってゆくような気がする。うずくまった姿勢のまま、全身が硬縮する。僅かな身じろぎが右手に響き、肉を裂くような熱を持った痛みに苛まれる。まるで右手の神経に突き刺された無数の針が、全身を伝う糸に結び付けられているようだった。胸の内側が引きつり呼吸が覚束ない。耳元で喚く夢子がとにかく不快だった。突発的な怒りを覚え殴り倒したくなり、それ以上に、そんな衝動を抱く自分自身に驚愕する。


 冷静さを失い、完全に混乱していた。


 ソロソロと、具合を探るように細い呼吸を繰り返す。

 しばらく耐えているうちに、徐々に右手の痛みは遠のいていった。

 全身のこわばりをじわりと緩めてゆく。恐る恐る指を動かしてみる。すべての指はゆっくりと、自分の意志通りに動く。安堵の息をどっと吐き出す。全ては一分にも満たない短い時間の出来事だったが、陽にとっては十分もそうしていたかのように思えた。


「大丈夫。もうなおったから」


 顔を上げると、両脇にしゃがみこんでいる夢子と清治が、張り詰めた面持ちでこちらをのぞき込んでいた。そばに立つ美鳥は携帯を握りしめた手をだらりと下ろし、未だうろたえる寒河江と顔を合わせ「びっくりしたあ」と緊張を解いてみせた。


 夢子が戸惑いの声を漏らす。

「大丈夫って言ったって……」

 陽は立ち上がり、皆の前で手を動かしてみせる。

「うん。もう痛くもなんともない。ご覧のとおり元に戻ったよ」

「本当に? 他に痛いとか、変な感じがする所は無い? 頭痛や吐き気はしない?」


 炎天下の激しい運動で頭の傷が開いたのではないか、と夢子は危惧しているらしい。もちろんそんなことはないのだが、実をいえば、当たらずとも遠からずといったところだった。


「医者が言うには、スジを違えたようなもんなんだとさ」


 退院後に受けた検査では予後は全くの良好であると言い渡されたが、しかし唯一、右手の違和感だけは治らなかった。

 特に外傷はなく、レントゲンも撮ってみたが異状は見られなかった。事故の時にひねるなり何なりした結果、手の骨や靭帯が微妙にズレ、それが神経を圧迫するために疼痛(とうつう)が起こるのではないかという一応の見解を得たものの、それが治療の助けになることはなかった。幸い痛みは――日や体調によって差はあるが――ごく軽微で、日常における不便は全くなかったが、それでも時々、何かの拍子で鋭い痛みに見舞われることがあった。


「――っつーわけでさ、普通にしてるぶんには全然平気だったんだよ」陽は首を傾げる。「でもさっきみたいなのは初めてだ。まるで溶けた鉛に手を突っ込んだみたいだった。手首から先がちぎれるんじゃないかと思った」

「お前さあ、そういうことはちゃんと話しとけよなあっ」

 清治が陽の肩を軽く小突いた。

「そうですよ。今は大丈夫だからって、変に動かして悪化したらどうするんですか。もっと自分をいたわりましょうよ」

 そんな寒河江の言葉に美鳥が乗っかる。

「にいちゃんは自分の事となるとすっごい鈍感なんだよね。小五の時だっけ? インフルエンザに罹ってたのにただの風邪だから大丈夫大丈夫って学校行って、案の定熱が上がってゲロ吐いて倒れて早退したこととかあったよね」

「なんでそんな昔の話を持ちだしてくんだよお前は」

「そんなこともあったね。あのあと女子の間では、ゲロ吐き滝太郎ってアダ名でしばらくの間呼ばれてた」

「ちょっと夢子さんそれ初耳なんですけど、ってかなにそのヒドいネーミングセンス。滝太郎どっからきたの、関係ないよね! ゲロと伝説の巨大魚関係ないよねえ!」

「知らない。私が考えたんじゃないもの」

 そう言って夢子は眼鏡を掛け、後ろでまとめていた髪を解いた。

「そろそろ休憩にしましょう。もう疲れた」

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