唇
部室に戻る途中、トイレから出てくる夢子に鉢合わせた。
先ほどのような殺気立った雰囲気は無く、いつもの落ち着きを取り戻しているようだった。安心した陽が「お、元気な子は生まれたかな?」とガキのようなからかいを向けると夢子はハンカチを口に当てて、「さいってー」つま先で陽の向こう脛をがしがし蹴りつけた。
二人は肩を並べて歩きだす。
道すがら部誌の方針変更について報告するが、夢子は自分には関係ないとばかりにそっけなく「そう」と応えるだけだった。
やはり、変だと思う。
先程からずっと口に添えているハンカチも気になる。どうしたのかと訊ねると夢子は、
「うん、ちょっと」言葉を濁し、突然歩みを止めて、「……リップクリーム、持ってる」
陽は胸ポケットからリップスティックを取り出し、夢子に渡す。リビングのテーブルなどに放っていると美鳥が勝手に使ったりすることが普段からあるので、他人に――身内に限るが――貸すことへの抵抗はあまりなかった。
だが夢子はまるで散弾銃のシェルでも受け取ったみたいに、手の中のそれを見つめている。たっぷり四秒は沈黙が続き、顔を上げて、
「これ、お姉ちゃんが使ってたのと同じだね」
「へえ、そうなんだ」
「よー君にリップクリーム塗る習慣を付けさせたのもお姉ちゃんだよ」
「それも初耳――ではないよな当然。ごめん。まだ思い出せなくて」
「よー君は夏でも唇がさがさだもんね」そこで夢子の目に閃きの色が踊った、「ねえ、塗ってあげる」
時として夢子の頑固さは思いつきの児戯も適応されうる。嫌がる陽のことなどお構いなしで、やると決めたらもう揺るがない。このまま根比べを続けるのと、さっさと塗られて終わりにするのと、どちらが賢明かは自明だろう――とその目が訴えてくる。
「ほら、顔よこして」
もはやこちらが折れるしか無かった。陽は辺りに人の目がないか見回して、
「ほらよ」顔の高さを夢子に合わせた。
二人の視線が衝突し、間に生まれた沈黙に周囲の音がのみこまれる。
ハンカチで口元が隠れたその顔に、不意にゆーこの面影が重なった。髪を切らずに伸ばしていれば、きっとこうなっていたであろうという姿が、陽の理性を幻惑に引きずり込む。一番古い『親友』の、見慣れたはずのその瞳が、呪術的な不可思議を帯びて陽の心を絡めとる。
「目、つむって」
「なんで」
「なんでもいいから、つむって」
言われたとおりにした。
リップスティックのキャップを外す音がした。が、その次の動きが無い。暗とも明とも言いがたい目蓋の裏側で、瞬間瞬間が圧延される。異様な緊張の中で鼓動だけが強く体を揺らす。
十秒は過ぎたかと思う。
その感覚に堪え切れなくなった陽が、なけなしの意気地を動員して口を開こうとした時――
唇の端にクリームが触れた。
柔らかい膏が乾いた粘膜を滑る。
「はい、いいよ」
「ん、さんきゅ」目を開き頭を上げ、一応礼を言っておく。
「はい」夢子はリップスティックを陽に差し出した。
「使わないの」
「うん、やっぱりいい」ハンカチをスカートのポケットに収め、「行こ」
さっさと歩き出した夢子を陽は追いかけた。
少しして、歩きながら夢子が言った。
「夏休みになったら、海にいかない?」
「いいけど、どうしてまた」
夢子は俗に云うところのインドア派である。誰かに誘われてついて行くことはあっても、自分から外で遊ぼうと言い出したことは一度もないと陽は記憶している。さらに言えば、元々運動が得意でなく、とりわけ水泳は苦手科目だった。
過去に一緒に海水浴に行った時も、パラソルの下で本を読んでいるか、波打ち際で砂遊びをするくらいだった。
「そろそろ現場に花を上げに行こうかなって……。それとよー君の記憶探しも兼ねてね。あの日はよー君とお姉ちゃん、海に行ってたでしょ」
陽は記憶をまさぐってみる。
そういえばいつだったか、当日は二人で海に足を運んでいたと誰かに聞かされた事があったような気がする。
「花かあ。ゆーこさんってどんな花が好きだったんだろう」
「さあ……。お姉ちゃん、綺麗な花ならなんでも好きって感じだから。でも昔、庭でヒナゲシを育てて喜んでたことがあった。馬鹿みたいにいっぱい植えて、お母さん困ってた」
へえ、と相槌をうってみるが、とくべつ花に詳しいわけではないので、ヒナゲシなんて言われてもイマイチ想像を働かせきれない。ゆーこが気に入るくらいなんだから、さぞかしキュートな花なのだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、唐突に、夢子の頭が後方に流れた。
陽は怪訝な顔で振り返る。
「そういえば、ついでに図書室に寄るつもりだったんだっけ。ごめん、先に部室に戻ってて」
言うなり踵を返して歩き去る背中に、反射的に呼びかける。
「夢子」
「なに」
合成音声のようにソリッドな声が廊下に響く。
振り向いたその顔からはいかなる感情も読み取れなかった。二の句に詰まった陽は、逡巡というには長すぎた沈黙の末にぽつりと一言。
「――大丈夫か?」
「なにが」
突き放すような返答に、陽は視線を逸らしてしまう。
「大丈夫だよ」夢子は表情を崩して言う。「私は大丈夫だから」
そして芯の通った動作で身を翻し、長い髪を陽炎のように揺らして歩いていった。
大丈夫なわけないだろ。
その叫びはしかし、力の抜けた喉からは到底絞り出せず、陽はただ立ち尽くす。
瞑目の中で感じた苦酸っぱく湿った吐息が、鼻腔にこびりついて離れなかった。




