暗闇の中で
今なら蜘蛛の巣に引っかかっただけで死ぬと陽は思う。
清治、寒河江、夢子とそれぞれ山に入っていき、とうとう陽の順番になった。
さっさと行って済ませようと立ち上がる陽を押さえつけ、三人は嬉々として怪談を披露した。
「――だからね、よー君。神社の階段を降りる時は、決して振り返ったらだめだよ。それを忘れて、振り返ってしまうとね、階段の上から得体の知れない何かが、物凄い勢いで追いかけてくるの」
「そういえば私、神社の階段から少し行ったあたりで、変な音を聞きましたよ。……なんかこう、硬い爪のようなもので石段を叩くような、コツコツコツって音が」
「あ、俺も俺も。なんかあの辺りで草薮がガサガサいってよ、すっかりビビって小走りで逃げてきちまった」
首筋にまとわりつく緊張を振り払おうと、陽はぶっきらぼうな口調で、
「ハッ。どうせ野生動物だろ。ほら、この山カモシカ住んでるし。なあ夢子?」
「この時期の子連れのカモシカは気が荒いから、それはそれで危ないと思うよ」
なけなしの虚勢も挫かれた。
己を鼓舞する時間も与えられず、半ば追い立てられるようにして神社の裏へと続く道の入口に立たされる。もうそれなりの時間なんだからさっさと行って帰って来い、という非情な声に急かされて、陽はしぶしぶ歩を進めた。
空気は驚くほど冷えきっていた。
虫の声もまだ少ない、土と草の匂いに満ちた湿った空気の中を、泳ぐように歩いてゆく。
まわりを市街地に囲まれ、すぐ近くには交通量の多いバイパス道も走っているというのに、自分の呼吸音すら吸い込まれて消えるような深く静かな闇だった。
青白い電灯の光が、人一人が通れる程度の細道を無言でなぞる。枯れ松葉に敷き詰められた道は絨毯のように柔らかく、足音は耳に届くまもなく減衰して霧散する。
過去に何度か通ったことのある道が、今はまるで異国の道を辿るように感じられた。
だしぬけに、言いようのない不安が押し寄せる。
もしかしたら自分はすでに異界に踏み入ってしまっているのではないかという恐怖が背筋を撫ぜる。
いますぐ広場へ逃げ帰りたい衝動が急速に膨らみ、しかし引き返してしまえばそれこそ本当に異界へ迷い込んでしまい、闇の中を永遠に彷徨うことになるのではないかという妄想が、頭の隅から消えてくれない。
そうなるともう立ち止まることすら恐ろしかった。
冷たい焦燥を脳天から浴びながら、夢子があんな話をするからだと恨み言を心中に呟く。
木の根が張り出した坂道を注意して登り、蛇のようにくねったブラインドコーナーを曲がると、さらに急な斜面が現れた。
さすがにそこだけはコンクリが打たれ、階段が設けられていた。
「よっこらしょ、と」
陽は自分を励ますように呟き、わざと大きな足音をたてて階段を上る。
そしてふと、行く先をライトで照らしてみるとそこに、
白い服を着た女が座り込んでいた。
「うわあっ!」
驚きのあまりバランスを崩し、危うく階段から転げ落ちそうになる。
咄嗟に階段を降りようとし、しかしここで踵を返しては取り殺されてしまうとなかば本気で思う。もはや自分のモノとは思えない足をつっかえ棒にしてその場に腰を押しとどめ、唯一の武器であるライトの切っ先を向ける。
「ちょっと陽ちゃん眩しいってば」
真っ白な光に照らされたゆーこは、目を細めて顔をそむけた。
その姿を認めた陽はがっくりと肩を落とした。
「ぅあーもうー」と情けない声を吐き出して、ゆーこの元に歩み寄る。「脅かさないでくださいよぉー。マジで幽霊かと思ったじゃないですか」
非難するような声で陽が言うと、ゆーこは一瞬の間を置き、盛大に吹き出した。
「あはははっ。なーに言ってんの、マジもんの幽霊じゃん私」
「――あ」
「陽ちゃんってばほんとスットボケてるんだから、ウフフ」
「……ははは」
肯定するようにこぼれた笑いはしかし、滑稽な自分を嗤うというよりは安堵の気持ちから出たものだった。
「あ、ゆっとくけど私、脅かす気なんてなかったんだからね。陽ちゃんが勝手にビビっただけだからね」
歩き出した陽に肩を並べて、ゆーこが言った。触れられないと解っているのに、陽はついつい道の端に寄ってしまう。
「そんなら登場の仕方をもうちょっとマイルドにしたらどうなんですか。せめて、今から出るよー、みたいな声でも掛けてくれれば」
「なにそれ昭和の銭湯みたい」
と無邪気に笑うゆーこに、陽は頬を緩ませかけて思い出す。
「ていうか、昼間のアレはなんなんですか。勝手に人の口乗っ取って。僕は腹話術人形じゃないんですからね。お陰で皆に嘘をつくハメになっちまったじゃないですか」
ゆーこは「ごめんごめん」と少しも反省の色が無い声で言って、
「でも、あの場はああやって収めるしか無かったと思うよ。それに、今のあの子たちには安心が必要なんだと思う。物事は良い方に向かっている、正しい道は見えている。そういうものが、今は必要なんだと思う」
「安心……ですか」
不安なのは自分だけではないのだと、陽は目が覚めるような思いで認識を新たにする。
陽や夢子だけではない。清治や寒河江にも彼らなりの日常というものがあり、それぞれのペースで時を刻んでいる。自分やゆーこはその歯車の一部だったのだ。そしてその平和な回転が、安心できる日常の一部が、永遠に失われてしまったのだから。
でも、と陽は思う。
そんな欠けた歯車となった自分が彼らを癒せるのだろうか。たとえ自分の記憶が戻り、元の位置にくっついたとしても。隣にあるべき『ゆーこ』という歯車は永遠に失われたままなのだ。
彼らの心に『ゆーこ』という亡霊の歯車が居座り続ける限り、その日常は空転し続ける。
「でも、所詮はニセモノの安心でしょ」陽は語尾を上げてゆーこに問う。「やっぱり不誠実っていうか、残酷ですよ。だって真実を――嘘を吐かれていた事を知ってしまったら、やっぱりそこには失望しかないんだから」
ゆーこは短い黙考を挟んで言う。
「嘘の力はね、想像の力なんだよ。嘘を騙るということは物語を語ることと同じ、想像力を必要とする作業なの。だとすれば一応は記憶を取り戻す努力の一環だと言えるんじゃないかな」
嘘も方便ってやつですか。という合いの手に頷いて、
「ま、実際その重荷を背負うのは陽ちゃんだしね。幽霊の私は治外法権だもーん」
おどけた語調で言って、再び未舗装になった坂を栗鼠のように駆け上がり、振り向く。
「でもね、私は安心するよ。あの子たちの顔を見て、声を聞いて、こうやってあなたと一緒に歩いてる時は、自分はまだ死んでないような、この世の住人で居られるような、なんだかそんな気がするから。――たとえそれが、嘘だとしてもね」
踵を返し、さっさと道の先に消えていくゆーこ。
言葉を返し損ねて足を止めた陽は一人その場に取り残される。ゆるりと肌を撫ぜる夜気に呆けていた頭が震え、足早にゆーこを追いかけた。




