美鳥
階段の踏み板を軽やかに叩くその歩調は、美鳥のものだった。
陽は息を呑む。
このまま自分の部屋に入ってくれ、という念を送るも見事に通じず、目の前のドアがココンとノックされた。
「にいちゃーん。居るー?」
「エ、ア、ちょっと待て! 少し待て!」
ゆーこさん! と小さく叫んで横を見るが、そこには真っ平な布団があるだけだった。
「もういーい?」
「あ……ああ、もういいです」陽は胸をなでおろして答えた。
ドアノブが回転する。部屋に入ってきた美鳥はイタズラっぽい声で、
「なーにアヤシイことしてたのかなぁー」
なにも怪しくねえよ。と答えた陽の枕元にあるそれに美鳥の視線が留まった。
「あ、なにそれなにそれ。ゆっこねえちゃんの写真じゃん」
美鳥はベッドに腰掛けた。
体重を受けた布団がくぼむ。
「えっ、なになに、どーしたの。にいちゃん、ゆっこねえちゃんのこと思い出したの」
陽は首を横に振る。
「夢子から借りてきたんだよ。こうやって眺めてるうちに何か思い出せたらいいなと思って」
「フン」と美鳥は頷いて、「あたしも写真みたい。いいでしょ」
返事も待たずに冊子の一つを手元に引っ張っていった。
「わー、なっつかしー。中学のゆっこねえちゃん可愛いー。やっぱ髪長いほうが美人って感じだよねー。ほあー、こうやって見るとむっこねえちゃんと似てるなあー」
「目鼻のあたりとか似てるよな」
「うんうん。でもやっぱさ、髪の毛だよね。つやっつやで芯が通ってて、すごいキレイ」
――あなたが綺麗だって言ったから、切った。
ゆーこの言葉が脳裏に蘇る。同時に水底に沈めたはずの疑問が再浮上した。それは不明瞭な多数の泡になって、ぶくぶくと口からあふれてしまう。
「なんで切ったりしたんだろうなあ」
言い切ってから、しまったと思った。
「さあねー。ゆっこねえちゃんのことだから、理由なんか無いんじゃない。ゆっこねえちゃんてすごい飽きっぽいじゃん? だから――」
美鳥はトーンを抑えて、続けた。
「――だからさ、にいちゃんと五年も続いたってのは、すっごい本気だったってことなんだよ。にいちゃんに何も言っていないなら、本当に理由なんて無いんだろうし、理由があったとしても言わなかったのなら、それは絶対に言うつもりがないってこと。……そういう人だったんだよ、ゆっこねえちゃんは」
どこか達観したその眼差しは、中学生とは思えないほど大人びていた。
美鳥もまた親しい人を亡くしたのだということに、改めて気付かされた。『ゆっこねえちゃん』という呼び名には、夢子に対するそれと同じような敬愛のこもった響きがあった。
「美鳥は、ゆーこさんのことが好きだったんだな」
「あたりまえでしょ」美鳥はページをめくる手を止めずに、「将来は本当にあたしのねえちゃんになるんだーって思ってたのに。……なんでこうなっちゃったかなあ」
と深くため息。
言葉のわりにはドライな表情だった。
なんだか美鳥らしくないな、と陽は思う。
そしてふと、二人が小学生の頃、近所に住み着いていた野良猫のことを思い出した。
野良のくせに人懐っこい猫で、学校の帰りによく顔をあわせては、頭をなでたり耳を裏をかいてやったりした。親に内緒でこっそりエサをやったこともある。名前なんて無かったし、名付けようとも思わなかった。
陽が小六の時、その野良猫は死んだ。
車に轢かれたのだろう。胴体はまさに皮一枚を残して半分にねじ切れ、半開きの口からこぼれた舌がアスファルトを舐めていた。それを見た美鳥は凍りつき、ひとたまりもなく泣きだした。陽だって泣きたかったが、妹の手前泣くわけにもいかない。
むせぶ美鳥を背負って一度家に帰り、シャベルを持って現場に戻った。亡骸を掬い上げる際、ついに皮が千切れて半身がぼとりと落ちてしまい、陽は腰を抜かしそうになったが、それでもなんとか遺体を回収し、二人で近くの雑木林に埋めた。墓標の代わりに、家の庭から手折ってきた名前も知らない花を突き刺した。
美鳥はそれから一ヶ月近くものあいだ、学校帰りに現場の近くに差し掛かると、野良のことを思い出してはめそめそと泣きだし、陽の背中に鼻水を垂らしながら帰宅したものだった。
あの頃に比べたら、今の美鳥は冷徹といっていいほどまでに落ち着いて見えた。
「なんだかあまり悲しそうに見えないな」
厚顔を承知で陽は言った。
美鳥は憮然とした表情で、
「にいちゃんには言われたくないっつの。にいちゃんが暢気に寝てるあいだ、ずっーと泣いてたから、もうなんにも出なくなっちゃったの。涙ってね、本当に涸れるんだよ?」
「そっか……。辛かったんだな」
「あたしなんかよりも、むっこねえちゃんのほうがずっとずっと辛いはずだよ。だから、むっこねえちゃんのこともちゃんと見ててあげなよ、にいちゃん」
「ああ」陽は頷いた。
いつまでも手のかかる妹だと思っていた。
しかし自分が病室のベッドに横たわり尿バッグに小便を垂れ流している間にも、美鳥は一つの儀礼を乗り越えていたのだ。
もう昔のようにおぶってやることもないのだろうと思う。
そんな寂しさを覚えると同時に、やはり不甲斐ない自分への憤りも感じずにはいられなかった。
部屋でゆっくり見たいと言うので、陽はアルバム――それと当初の目的だった古語辞典――を美鳥に貸した。
美鳥が部屋に戻ったのを確認してから、声を潜めてゆーこを呼ばわってみたが、ゆーこは姿を現さなかった。
ベッドに寝転がり何かを考えようとしてみても、頭の中はゴミだらけで所在無く、耐えかねた陽は机に向いラップトップを立ち上げ、編集部の仕事を片付けることにした。
その夜はもう、ゆーこが出てくることはなかった。




