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1:I'm Alive. But...

電撃4次落ち供養

南無阿弥陀佛

 人は死んだら何処へ行くのだろうか。

 その問いに彼女は、何処へも行かない、と答えた。

 何処へも行けなくなるのが死だ、と。

 彼女に言わせれば、そもそも、物理的な身体に対する精神的なそれ――俗に言う魂というものが存在するという考え方からして間違っている。というのだ。

 なにも魂なんて神秘的な言葉でなくとも良い、ようするに我々の身体に宿る『意識』のことだ。人の体と意識とを別物として捉える二元論的な前提を、彼女は否定する。


 誤解を恐れずに言えば、それはタイプライターにたとえることもできるだろう。

 タイプライターをばらばらにして部品を調べてみても、それ単独では何の意味も見いだせない。

 それらの部品が高度に組み合わさって、タイプライターという機能を持つ。

 タイプライターは、文字を打つ。

 この世にある全ての文章を打つ。

 なぜなら既にタイプライターという存在そのものが、文章に対する『可能性』を有しているからだ。

 部品一つ一つの形状と運動そのものが文字という可能性を実体化したものであり、その部品たちが身を寄せ合い、文章というさらに大きな可能性を打ち出すタイプライターになる。


 それは「鶏が先か卵が先か」という問題に似ている。


 ようするに「鶏と卵は別のものである」という前提をおいてしまうから、そのような先入観をもってしまうわけで、いったん視点を引いて考えてみれば、鶏も卵も互いに互いを内包しているのであって、そこにあるのは一つの可能性でしかないのだ。

 人間にも、同じ事が言えるだろう。

 人はその身体に宿った可能性を実現させるため――さらには自身を包む世界に広がる可能性を汲み上げるために、

 見て、

 聞いて、

 手を触れ、

 言葉を紡ぎ、

 未来を考える。

 人がそのような可能性のために存在しているならば、こう言い換える事もできよう。

 人は世界に遍在する可能性によって、見られ、聞かれ、触られ、紡がれ、考えられている。

 世界が先か、ヒトが先か。

 そのような双方向性を持つ場においてはもはや、世界に対する身体とそれを操る意識、などという二元論は必要ない。意識なんてものは、食玩のラムネのようなオマケであり、副産物に過ぎないのだ。

 そこにはただ、世界に向かう『運動』があるだけだ。

 運動を続けることで、動かない身体の内側と動く世界の境界――つまりは『自意識』というものが定まる。

 そして死とは、その運動が止まることにほかならない。

 運動をやめれば境界は霧消し、意識は散逸する。

 ただ、それだけのことだ。

 魂なんて発明は、人間には必要なかったのだ。

 故に、彼女は言った。

 何処へも行けなくなるのが死だ、と。

 しかし、いくら観念的な言葉を弄されたところで、そのような言説はにわかに信じがたい。

 なにしろ、彼女の存在自体と大いに矛盾しているのだ。

 人は死んだら何処へ行くのだろうか。



 そんな問いに答えた彼女は、名実共に幽霊だった。

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