3 MASTER AND BUTLER~主人と執事~(4)
カーテンの隙間から朝日が射し込む。
枕元に置かれた時計の針が指す数字を確認して、パッと身を起こした。
広い部屋を横切って窓際まで行く。飾り気のない無地のカーテンの裾を持ち上げて庭を見下ろした。
この時間帯には誰も外に出ないはずなのに、今日は違った。
向こうに見える塀を目指して足早に歩く少年の姿を認めて、口元に僅かな冷笑を浮かべた。
「あ〜あぁ、本当にやるんだぁ。めんどくさいなー」
こっちの身にもなれ、と心の中で呟きながら寝巻きを脱ぎ捨てた。
◆◆◆ † ◆◆◆
事はすぐに起こすという性分のレインは、今現在、生まれ故郷である村へ向かう列車の中にいた。
ガタゴトと規則的なリズムの振動が体を揺らす。イギリスは世界地図で見ると特別大きい訳でないが、実際歩いてみるとそうではない。
腕に義父の好きなシャンパンを抱えて窓の外を眺める。
腕時計を確認すると三時過ぎを指していた。
六時前に本部を出たのに、乗った列車が三時発なのには訳がある。レインが最も会いたいと願う人は毎年この時期この時間帯しか会いに来るなと言っているのだ。なので駅の待合室でウトウトしていた。
自分はもうバトラーではない。だから言うことは聞かなくてもいいはずなのに、自分を救ってくれた恩は消そうにも消えない。
自分が生きるために必要なもの、場所を与えてくれたのは義父であるシャーリング家当主だったが、心を支えてくれたのはまぎれもなくその実の息子、アーサー・シャーリングだ。
昔、シャーリング家が住んでいる村で大規模な火災が起こった。
彼らと対立していたノアシュタイン家という一族の屋敷が村のはずれの湖のほとりにあったそうなのだが、どうやら火元はそこらしい。
ノアシュタインの屋敷は焼け落ちて、今は残骸のみが転がる野原となっている。
そしてその火事の翌日のこと、まだ火の残る灰の山に一人の男の子が倒れていたのだという。
ノアシュタインに無事生き残った者はいないかどうか探していたシャーリング家当主は、その男の子を介抱した。
発見当時みずぼらしい身なりをしていたので、当主は彼を使用人だと確信した。
目を覚ました男の子は自分の名前を言わなかった。否、言えなかったのだ。
火事のショックからだろうと、医師は記憶をなくした少年に向かって言った。
当主は行き場のない彼を哀れに思って、彼はその少年を自分の屋敷で保護することにした。
それが、レインだ。
名前は一歳年下のシャーリング家の子息アーサーが付けた。意味は知らない。理由すら無く付けられた名前。それでもいい、受け入れられたのが何よりも嬉しかった。
そして名字のディアナイトなのだが、それはノアシュタインの屋敷の通称だ。そこに倒れていたから、という理由かららしい。
レインはシャーリング家の養子になった。
アーサーと一緒にいるのが好きで、どういう経緯だったが忘れたが当時流行っていた主従関係を題材にした小説の真似事か何かでレインはアーサーの執事となっていた。
実の子供同然にレインを扱い、良い学校にも通わせてくれた彼らに対しての恩返しだし、ただの遊戯だからと思ってレインは頑張った。
マスターには絶対服従——という訳ではないがそれに近い態度を取っていたと思う。
敬語が身に付いたのもその頃だ。
しばらくは何事もなく暮らしていたのだが……。
列車から降りると、真っ先に目に入ったのは鮮やかな深紅だった。
世間から忌み嫌われている花が、湖のほとりにこれでもかと言う程咲き誇っている。
昔からここに咲いているのだそうだ。近隣の人曰く、ノアシュタインの人が植えたらしい。火事で一緒に燃えたのだが生き残りが子孫を増やした結果がこれなのだという。
この花畑の後ろにあるのが、今や草原と化したディアナイトが建っていた場所だ。
ここに来ると胸がざわつくので早急に離れる。
懐かしい村を歩くと、たくさんの人が声をかけてくる。皆顔なじみの人だ。
「ようレイン、元気にやっていたか」とか、「久しぶりね」とか、そんな他愛ない言葉に返事する。
「坊ちゃんはいらっしゃいますか」
「ええ、たぶんいると思うわ。さっきここを通って行ったもの」
「お前さんも律儀やなー。もうクビにされたのにまだ命令に従っとるとか……。それに所詮は子供のお遊びやろ?」
愛想笑いで返して村人達の裏を見ようとする。
端から見れば分からないかもしれないが、昔から村人達は自分にどこかよそよそしい態度を取るのだ。
理由は分からない。ノアシュタインの者ははこの村の人達全員に嫌われていたと聞いた。事実か分からないが、そこの使用人だったらしいというからか、はたまた、別の理由があるのか——。
「早く行かないとアーサーどこかに出かけちゃうかもよ……」
そんなこと無い。
坊ちゃんはこの時期だけは、無駄なお出かけをしない。
そう心の中で反論しながらも、口ではそうですねと同意した。
ここにいても意味はないが、一年ぶりなので景色をもっと見ておきたいような気もする。
……まあそれなら、屋敷から見るのが一番いいかな。
そう思ってレインは屋敷に向かった。
丁寧に剪定された低木の生け垣。敷地内の道はアスファルトでも石畳でもなくて、古くからの砂利道だ。白い屋敷の磨き込まれた手すりも、つやを保つ扉も、水垢のない窓も、全部変わっていない。
丁度庭を見て回っていた当主の執事とばったり会い、普通に建物の中に入る。
レインは一応ここの家の出だが、昔からのしきたりで鍵は当主だけが持つことになっている。つまり誰かが外出するときには、必ず一人は留守番しないといけないということだ。不便極まりない。
「おかえりなさいませ、レイン様。胡蝶学園での生活はどうでしたか?」
「楽しいよ」
「確か、招待によってリュンヌ学園に転校されたのですよね」
……リュンヌ、学園?
あぁ、表向きの名前か……ヴェルスカーノ校長の。
一人でそう納得して、執事に頷いた。
「そうだ、今義父様はいらっしゃるか?」
「いえ、本日は商の会議があるので遅くまで帰られないと。……では、先にアーサー坊ちゃまにお会いになりますか?」
「そうする」
いつまでも自分が持っていたら割ってしまいそうなので、シャンパンは執事に預けておくことにした。
目の前の扉をノックする。
コンコンという軽快な音が廊下に響いた。
心臓が痛くてしょうがない。緊張して高鳴る鼓動は意志でどうにかできるものではないのだ。
「誰?」
声変わりして一オクターブ分低くなった声が聞こえてきた。
懐かしさに胸が締め付けられる。
決してアーサーに対して恋愛感情もしくはそれに類する気持ちは抱いていない。ただの主人を思う気持ちと兄弟愛というか友愛、そして尽くしても返せることはできない恩だ。
「……アー、サー」
様、や、坊ちゃん、と付けて呼ぶことは恥ずかしいからと止められてしまった。
「…………」
もしかして自分のことを忘れてしまったのではないかという不安にかられたが、すぐに駆ける足音がして扉がパッと開いた。
「レインッ!」
自分よりも頭一つ分小さい少年がいきなり飛びついてきた。
年齢と体格に似合わず、とらえどころのない軽さを受け止める。
「ようアーサー。元気にしてたか?」
金色の頭が上がって、綺麗なワイン色の目がレインの目を覗き込む。
そして一つ年下の義兄弟である彼は、無垢な笑顔で
「うん!」
と答えた。
◆◆◆ † ◆◆◆
メイドが持ってきた甘味類に手をつけながら、可愛い弟と久しぶりの会話をする。
二人共学校が離れているので学期中はまともな会話ができないのだ。アーサーはともかくレインは現代人にとって必需品になりつつある携帯を持っていない。手紙は一方通行の会話だし、パソコンを使える時間はそれぞれの校則で決まっていた。
「へ〜、リュンヌ学園! すごいねレイン」
しばらく他愛のない話を展開させ、一息ついたところでレインが転校した話になった。
「いや……、別にすごくはないだろ……。っていうかアーサー、知ってるのか?リュンヌ学園」
「当然だよ? 皆知ってるような有名どころじゃあない」
有名になる要素なんかない気が……。
というか、レインはリュンヌ学園なんて聞いたことはあるもののそんなに有名だとは知らなかった。どこにあるのかと聞いてもも誰もが分からないと首を振る、国内のエリートばかりが集まる謎に包まれた学校だということは理解していたのだが。
そんなものが、しかも実はただの犯罪じみたことをやっている人達が集まった組織が、どこをどう捻ったら有名校として名高いところになるのだろうか。
どんな噂を流してどんな尾ひれをつけたのか一つずつ見ていきたくなる。
「……ふうん。でもアーサーが通ってる学校の方がすごいだろ」
アーサーが通っているのは貴族学校だ。超の付く金持ちーーつまりはセレブ、というかかなりの裕福層の子供が通うエリート校なのだ。
送り迎えが高級自家用車だなんて子も少なくなく、下校時刻になると学校周辺を何台ものロールスロイスが巡回するというのは嘘ではない。
「ええっ!? レイン、何言ってるの!?」
レインの言葉が意外だったのか、アーサーは信じられない! という顔をしていた。
「リュンヌ学園って本当にすごいんだよ? 別のエリート校に入学した子の中で、内申が良くて学年でずば抜けてトップの秀才だけをどんどん引き抜いていく学校でしょ?」
「おいアーサー、それじゃあ悪いようにしか聞こえないぞ?」
「つまりっ、レインは学年のトップだったってことになるの!」
無視された。
もっともこういうことは昔からあることなので今更何とも思わないがたまにはこっちの話に相槌ぐらい打って欲しい。
「それにリュンヌって国際社会にすごく貢献しているんだよね」
「…………」
「科学も医学のレベルもとても高いんだって! だって学園を卒業してもそのままリュンヌの研究所に入る人が半分以上でしょ? すごいよねーっ」
まぁ……人助けと人殺し……、いや天使殺しという点でも貢献してるしな。
そう心の中で付け加える。
「アーサーも胡蝶に来れば良かったのにな。お前の頭だったら余裕だったろうに」
話をリュンヌという学園だと詐った神狩りの集合所から離すために、何気なく投下したその言葉が爆弾となった。
アーサーは紅茶のカップをテーブルに戻して、クッキーを掴みかけてた手を引っ込めた。
「……いやだよ」
「? 胡蝶はお前の好みじゃないか?」
「そうじゃなくて、……レインと同じ学校に行くのが……嫌だったから」
うつむいてアーサーはそう答えた。
「え?」
「あのね……レイン。僕はレインのこと嫌いじゃないよ。でもね、ずっといると嫌な気持ちになってくるんだよ! レインは昔っから僕より出来るし! 自尊心が傷つくッ。また小さいときみたいに馬鹿にされるのも嫌だ!」
大切な義弟を叱ったことはあるが罵倒したことは一度もないはずだ。
「……お前何言ってるんだ」
するとアーサーはバッと立ち上がった。テーブルの上のカップがカタカタと揺れる。なみなみと注がれた紅茶がはねてソーサーにこぼれた。
「しらばっくれないでよ! 覚えてないだなんて言わせるもんか! あんなことしといて! 僕を見る度に散々貶したくせにっ、鼻で笑って嘲笑ったくせにっ。お前は小さな家のチビだとか、泣き虫だとか! 自分の紅い目の方がお前のすさんだ赤よりも綺麗だとかって!」
「ちょ、おいおい待て、待てって」
全部が全部、身に覚えのないことだった。
以前のアーサーはこうではなかった。学校がどこかで嫌なことがあったのか、それとも……。
「だから俺は……」
可愛かった彼の顔が歪んだ。もう理性は吹っ切れたのかもしれない。訳の分からない頭の中で、そう冷静に判断している自分がいる。
「嘘つくな! いつもいつもいーっつも……僕のこと! いじめてたくせに! 僕達はお前らのせいで没落したのに、それを……それを! 誰? 誰!? 僕達のこと玩具みたいに扱って嗤ってたのは誰だよ! 僕達を堕としたのは誰ッ! お前らなんだよっ、お前らがこんなんにしたんだっ、僕の家族と家を! お前らみたいに人の闇になるような奴なんてっ、死んでしまえばいいんだ……ッ!?」
——その瞬間、レインとアーサー、双方の目が同時に大きく開かれた。
「!?」
義弟の口から血が垂れる。
深紅のネットリとしたその液体は一筋の線を描いてテーブルにポタッと落ちた。そこ以外から散った血も、同じようにテーブルや床を汚す。
「レ……イ、ン…………」
アーサーはゆっくりとした動きで自分の腹部を見下ろした。レインも呆気にとられてそれを見る。
彼の背中から腹にかけて突き抜けて刺されていたそれは、銀色のランスだった。
服に血がにじんでいる。
今、自分の目に映っているものが信じられない。
何故、ここに、今、なんで、こんな…………武器が。
だって、この時代は……銃すら見かけないような…………平和なところじゃないか。しかもこの家の中で……。
アーサーは視線をレインに戻してーー
ドサリ、と倒れた。
完全な混乱状態に陥った脳内で、断片的な言葉を唱える思考は、その音を聞いた途端正常に戻った。
「アーサー! アーサーッ」
我に返ったレインは動揺を必死に押さえつけながらアーサーの元へと駆け寄った。
ランスが細かったためか怪我はそこまで酷くない。少なくともレインにはそんな風に見えた。けれど、出血が止まらない。
「レイン……何……」
何したの? そう聞きたかったのか否か。
それだけを言って、アーサーは気を失った。
まわりに包帯なんてない。止血できない。傷口を押さえようにも、どこを押さえればいいのかも分からない。
早くなんとかしなければ、アーサーは……。考えたくもない悲惨な結果が訪れるだろう。それがレインを焦らすが、気持ちだけが空回りするだけだった。
とにかく、助けを……。
跳ねるように立ち上がって、閉められた扉のノブを掴んで回す。が、開かない。施錠されていないのにガチャガチャという音しか聞こえないのだ。
「どうして……! 早くしないとアーサーが……!」
汗ばんだ手で回りきらないドアノブを回すという無駄な行為を繰り返す。
ちらりと横たわっているアーサーを見ると、流れ出た血を服が吸っていた。
「誰か! 誰でもいいから! アーサーが死にそうなんだよっ、お願い助けて……っ」
この屋敷の全室に防音効果が施されているのを知っていて、叫ぶ。何かしていないと全てが無くなってしまいそうで怖い。
不意に、クスクスという笑い声が聞こえてきた。
「アーア、外シテシマイマシタネー。当タッタト思ッタンデスケド。ゴッドハンターノ方ニハ当タリマセンデシタカネ」
ギョッとして、レインは動きを止めた。まるで金縛りにあったかのような錯覚に陥る。
黒板を爪でひっかいたときの音に似た、耳に痛い生理的嫌悪と不快感を感じる声だ。
「餌ヲ産ミ出ス人間ガ死ヌノハ嫌デスケド、彼ラト関ワッテイルノナラ話ハ別デスヨネ……。丁度イイ、殺スツイデ二“夢”ヲイタダキマショウ」
恐る恐る振り返る。
開け放たれたベランダに立っていたのは、くすんだ色の羽の生えた歪な人間らしきモノ。
手には銀のランスを持っていて全身を鎧に包んでいる。
そして、目は怖い程綺麗な緑色をしていた。どこまでも澄み切った、彼らの所行には似合わない色の眼玉。まるで高価なエメラルドをそのまま埋め込んだかのような色の目は、レインを見て残忍な光を宿した。
「……トループ!?」
「ソウダヨ」
あっけらかんと堕天使は答えた。
こいつがランスを投げたのは間違いない。これ以上アーサーが傷つかないように、抱きしめるようにしてかばう。
「ナーンダ、ヤッパリ当タッテナカッタノカ。オ前ソレデモハンターナノカ?守護ノ臭イヲツケタママ出歩クヤツナンテ初メテ見タ。マアイイヨ、スグニドチラトモ殺スカラ」
堕天使はそう言い放って、右手をあげた。
空中にいくつものランスが現れる。どれも例外なく尖っていて機械にだって刺さりそうだ。
トループは楽しそうに笑いながらその手をレイン達の方に向けた。その動きに会わせて十数本のランスが飛んでくる。
自分の体でアーサーを包むが、ランスは二人をさけて周囲の床に刺さった。檻のように二人を囲う。
「サァ、コレデ逃ゲラレナイ。ドチラモ殺スケド、先ニ餌ヲイタダカナイトネ」
トループの手が変な風に動いた。すると、アーサーに刺さっていたランスが抜けた。
「あっ……!」
傷口から小さな血飛沫を上げてランスはトループの手に収まった。
手をアーサーの血で汚して、レインは呆然としていた。
「ウーン、アマリ美味シソウデハナイナー」
堕天使に握られた血まみれのランスは鈍く輝いていた。
そして——、トループはランスに噛み付いて血ごと“夢”を吸っていった。
だんだんと光が弱くなる。
あぁ、自分はこうして見ていることしかできない。
兄なのに。義理だけど兄なのに。誰よりも可愛がって、大事に思ってたのに。
ただ恐怖して、大事な人の“夢”が——アーサーそのものが食べられる瞬間を見ていることしかできない。
トループは満足そうにランスを口から離した。
どうしてこうなった。
アーサーは何もしていないのに。
やめろ、殺さないでくれ、俺の義弟を。殺すなら俺を……。俺だけに……。
ロゼッタに言われた言葉が頭の中を流れる。
『でもねー、レインと、レインのだぁーいじな人達が死んじゃうよぉ?生き人形になっちゃうよ〜?』
目の前のアーサーを見る。“夢”を取られた今、アーサーはアーサーではない。肉だけのただの形だ。本当に生き人形になってしまった。
『ボクが言ったこと、忘れないでよぉ? キミのだーいじな人までもが傷付いちゃうってことを〜』
自責の念がどっと溢れてきた。
ロゼッタはちゃんと二度も忠告してくれたのだ。それなのに自分は我が侭にここに来てしまった。
「……ッ!?」
肩に激痛が走った。見るとランスが貫通している。生温かい血がドボドボと溢れてくる。
今度は足に痛みが走った。ふくらはぎと床が縫い付けられる。
「———————————ッ!!」
もはや言葉をのせない声だけの悲鳴が、喉から溢れてきた。
表現のしようがない熱い痛み。体内が異物に貫かれるこの気持ち悪さ。ドクドクと、鈍くも鋭くもあるこの痛さ。
バランスが取れなくなってそのまま倒れる。
痛みと涙で視界がかすむ。義弟であり元マスターすら守れなかった。これじゃあバトラー失格だ……。
トループはどうやら即殺するよりもいたぶって殺す方を選んだらしい。
血が床に模様を描く。
貫かれたのは左肩だ。心臓に近い分出血量が多い。
痛い……。
もうそう感じることすらも痛い。
吐き気を催す鉄の臭い。
真っ赤に染まった部屋の中。
向こうに倒れているのは血を流す生き人形と成り果てた大切な人。
『その目で見てくればー?』
『ボクらのいる世界の姿を』
そうなのか……。
自分と変わらない年頃の子が、こんな世界にいるだなんて信じられない。
どれだけの死を見てきたのだろう。
どれだけの傷を負ってきたのだろう。
激痛の止むことのない傷から絶えず自分の命が流れ出ていくこの感覚を、死が近付いてくるという恐怖を、仲間を失ったときの痛みを、彼らはどれだけ背負ってきたのだろうか。
あと少しすれば、自分も背負われたその“荷物”の仲間入りだ。
……イリンドームさんやユリニアって奴もこんな世界にいたのか。酷く陰湿で、暗くて、非情で、非道徳的な、絶望の果ての希望も期待できないような“世界”の中で、ああやって彼らは彼ら並に、精一杯生きている。
今度は腕に突き刺さった。恐怖と痛みでもう声すらあげられない。呼吸だけが荒くなる。
「イイザマダ、我ラヲ殺シテキタ罪、ソノ身ヲモッテアリス様ニツグナウガイイ」
なんとか目だけを動かしてトループを見る。堕天使はまだランスを持っていた。
今さら絶望なんかしない。
……俺、このまま死んじゃうのかな。
絶望はしない。悲嘆もしない。ただ、そう思うと悲しかった。
“夢の核”はまだロゼッタに返してもらっていない。例え持っていたとしても自分では扱えないだろうが。
もう助からないんだな……。
『呼んで』
そう思った直後に、たった三文字の言葉が脳裏をかすめた。
『call me』
意味は私を呼んで下さい、だ。
呼んでって……。
何なのかなとあの時も、そして今も思っている。
だが、その短い言葉が急に光りのように思えてきた。そこだけに希望の光があるかもしれない。
そうでなくても別にいい。自分が悪いのだから、助けにきてくれなかったと恨むことはしない。
とにかく、一か八かの賭けにでる。
潰れかけの声を頑張って捻り出した。
「…………、イ、リンドー……ム、さん……」
かすれた声で囁く。
今まさにとどめをさそうとしていたトループは、動きを止めてこっちを見ている。
「イ……リンドームさん!」
今度はちゃんとした声が出てきた。
トループは不快な声を上げて笑っている。
「ナンダ? 最期ニナッテイモシナイ人ヲ呼ブノカ?ヤッパリ人間ハ愚カダ……」
刹那、扉が派手な音をたてて吹き飛んだ。
木屑や埃が舞う中、黒衣の人が歩いている。
「愚かなのはどっちだろぉねぇ? ボクはここにいるじゃなーい」
太い剣を振り回しながら、その人は言った。
「つーか何でお前みたいな雑魚四期となんか戦わなきゃいけないの〜? もう少し強いのを引っ張り出してきなよ」
ロゼッタはレインと誰かも分からない倒れている少年に素早く視線を走らせた。
さっさと決着をつけなければ両方とも危ないだろう。特にレインは出血量が多い。
「……オ前ハ誰ダ」
「うわっ、なんかイラッてくるねその声。しかも何? 普通自分から名乗るでしょー。それにねー、お前らを倒すのはボクらゴッドハンターだけんなんだけどなぁ? いちいち聞いてこないでよねぇ」
「デハ殺ス」
「殺せるものなら殺ってみればー」
高く飛び上がり、トループの頭上まで一気に移動する。
降下中に剣を振り上げてさっと下ろした。
「チッ」
が、間一髪で逃げられてしまった。
今度はちゃんと床に立って攻め上げる。
トループの方が劣勢で、片手で振るった剣が堕天使の腕に傷を付ける。が、それぐらいの傷ではトループは死なない。
と、同時にロゼッタの頬をランスの先がかすめる。
できたのは命の危機からはほど遠い浅い切り傷だったが、だからこそプライドが刺激される。
痛くない傷をなぞって血を拭う。
「……もういいやぁ。久しぶりに四期に会ったから楽しもうかなって思ってたけど……レインは重傷だしそこの男の子も怪我してるからさっさと終わらせましょおか」
「ハッ、我ニ切リ傷ヲツケルコトシカデキナイ小娘ガ他ニ何ガデキルトイウノダ……」
トループは最期まで言えなかった。
ロゼッタの剣がそいつの胴体に斬り込まれる。分厚い金属すらもあっさりと切断してしまう刃で鎧ごと堕天使の胴を薙いだ。
確かな手応えの後、トループの体は真っ二つにされた。
悲鳴を上げる時間すらもなく、傷口から大量の血が吹き上がる。
全てを破壊されたトループがそうであるように、この堕天使もまた色素が薄くなって消えていった。
床や高い天井まで血飛沫が散っている。
返り血をチロリとは舐めたが笑うことはしなかった。
「……イリンドームさん、その中、に、アー……サーの“夢”が……」
背後から弱々しい声が聞こえてきた。
どうやら倒れている少年はアーサーというらしい。
広がった血の上に剣を突き立てて、いつものように能力を使う。
“夢”が形状変化した血は輝きながら、やがては全部消えていった。アーサーとかいう人のものも戻っただろう。じきに目を覚ますはずだ。
次はレイン達の手当だ。体のあちこちに刺さっていたランスはトループと同様に消えていた。力によって産み出された物は、その源が消えてしまえば消滅するものだ。
「ボクはいいから、アーサーを先に……」
その言葉を無視して常備品の治療薬を傷口に投与していく。レインは自分の出血量を分かっていない。もっとも、そういうことに慣れていない一般人は目安など分からないのだが。
「……っ」
傷にしみるのかレインは顔をしかめた。
「へぇ〜。さっきのトループ、こんなことしたんだぁ……」
幸いながらレインの骨はどこも折れていなかった。ギリギリのところで肉を刺していたのだ。神経にも問題ないと思うが医者ではないので詳しくは分からない。
「ちょっとそのままでいることー。じゃないと貧血で倒れちゃうよ〜」
包帯を縛りながらそう言った。
「そこの子が大切なのは分かるけど……。大丈夫だよ、そんなに酷くは無いからね〜」
アーサーとやらの傷は一つだけだったのですぐに済んだ。が、まだ意識は戻らない。
「アーサー……」
ロゼッタの忠告を無視して、ふらふらとしながらもレインは義弟の元へ歩いていった。
レインは、アーサーに酷いことを言われたのを忘れた訳ではない。
それでも大切な義弟であり元とは言えどもマスターなのだ。そこは変わらない。
アーサーの頬を撫でる。
自分のせいで、こいつを巻き込んでしまった……。
そう思った途端に涙が出てきそうになった。歯を食いしばって我慢する。
先ほどのあの短い戦闘。意識は朦朧としていたがきちんと見ていた。
あの躍動感。一般人よりもはるかに死に近い所を、陰と光の微妙な小さな境界線の上を歩むハンター。そして、アーサーをこんな風にした奴の消滅。剣が一閃するたびに世界が切り崩されていく、そう錯覚しそうになるあの感じ。
あんな世界が、早くなくなればいいのに。どうしてあるんだ、アリスとか堕天使とか神狩りとか。本当に、早く消えてしまえばいいのに。そしたら皆もっと平和でいられるというのに。
そう思いながらアーサーを眺める。
もしも自分にあれができたら……もっと早く、あの残酷な世界は終わるだろうか?
「……あの、イリンドームさん」
「何?」
決めた。
「僕を、ゴッドハンターにしてください」
ロゼッタは目を見開いたが、次の瞬間には微笑を浮かべていた。
「……、意志が強いのは嫌いじゃあないよ〜」