7 INTRODUCTION~悲しみの前奏~(4)
気がつくとベッドの上にいた。
この白さと鼻をつく薬品の臭いは……、ロゼッタの嫌いな医務室だ。
口元に何かがこびりついていたので拭ってみると、それは乾いた血だった。
何があったっけ…………。
「……あ、起きた? だいぶ魘されてたみたいだけど、変な夢でも見たのか?」
「夢……? 見てないよぉ?」
何かを見た気がするが、思い出せない。どうせ気のせいだろうと思う。
「傷でも痛んだみたいだな。ったく、だからじっとしてろって…………」
「ミキは過保護はんだよー」
「知るか、黙れ」
ミキはぶっきらぼうに言って、ロゼッタの枕元に数枚の紙を置いた。
点がいっぱい打たれた五線の下に、文が書かれている。楽譜だ。
ロゼッタはそれを取って、一枚一枚見ていった。
…………長い。
全部で二曲、いや、三曲だ。三曲もある。幸いなことに歌い馴れている曲ばかりだったので良かったが、量を考えると気が重くなる。あと体が不調なときに歌いたいものではない。結構肺活量がいるのは、ブレス記号の少なさを見れば分かる。
「……これはどこでするのぉ?」
「ん? 王族の屋内パーティーで、だけど。……この時期は体大切にしてもらわないと困る」
下っ端以外のハンターは基本的に暇人であるということは、皆知っている。そこで各部では、毎年全体で何かをするのだ。
アメリカ支部ではクリスマスに聖歌隊を大きな教会に向かわせる。オセアニア支部とアフリカ支部は様々なボランティアをしているらしい。またアジア支部は、つい最近劇団を作ったらしい。
そして、ここイギリス本部では、年に二回程サーカスを行っている。去年のサーカスは、丁度任務とかぶっていてロゼッタは不参加だったが、国内では結構な人気を誇っている。小柄なのでだいたいは空中ブランコの担当だが文句はない。自由に飛び回るのはいつだって楽しいと思うからだ。
だが、ロゼッタにはもう一つ年に何回かやらないといけないことがある。王族のために、歌を歌うのだ。専属と言ってもいいぐらいだ。
「へぇー。……立って歌うぐらいならできるかなぁ。サーカスはまだ先だから大丈夫ー」
「大丈夫じゃないだろ」
ロゼッタはその言葉を無視して、もう一度楽譜を見た。
そして、眉を思い切りしかめた。
「……ねぇ、ミキ。どーして“ピアノ”ってここに書かれてるの?」
ヴァイオリンとかかれてあるのは分かる。いつものことだからだ。
「……そこ、レインが弾けるからって」
ミキは気まずそうに下を向いた。
「レインが……?」
レインはシャーリング家の養子だ。ダンスができるのはアーサーの母親に教わったからで、それほどの教養をさせるのならピアノができてもおかしくはない。
「知ってるでしょ? ボクはピアノが、ピアノの音が嫌いなんだよ!?」
「あれ、そうなんですか?」
ベッドを隠すカーテンの隙間から、レインが出てきた。
それを見てロゼッタの目が僅かに見開かれて、すぐに細くなった。
「立ち聞きぃ?」
「さっき来たばかりですよ……。イリンドームさんピアノの音嫌いなんですか」
「うん、嫌いだよー。音聞くと破壊衝動にかられるぐらいね」
嘘ではない。いつからかはもう忘れてしまったが、何故かロゼッタはピアノの音を聞くとイライラするのだ。
「そうですか……。イリンドームさんに殴られるのは嫌なので、必要になったら言ってください」
レインはそれだけを言って、すぐに医務室を出ていった。
つまらない人だと思う。元執事の性かもしれないが、もうちょっと自己主張してもいいはずだ。少しは抵抗を見せて欲しい、ピアノの音は聞きたくないのは変らないが。
「……あいつ、最近変なんだよな。特に修練中…………」
ミキがぼそっと呟いた。
◆◆◆ † ◆◆◆
激しい運動はできなくても教えることは出来る。
エコだとか言って暖房の効いていない地下廊下の中心にある修練場で、レインはびっしょり汗をかいていた。
完治はしてないが、傷は治ってきている。それをいいことにロゼッタは車いすから降りて柔軟体操をしていた。
「あ、終わったぁ?」
動きを止めたレインを見て、確認する。
レインは先程までホログラムを相手にしていたのだ。以前レインが三期と戦って怪我をしたことを考慮して、さらに本物のトループを再現した新しいホログラムだ。
「はい、次いきますよ」
「ストップ、ちょっと休みなよー」
彼はもう一時間は休憩を入れずに動いている。さすがに体に良くない。
「……いいです。大丈夫ですから」
確かにミキの言う通り、最近のレインはちょっと変だ。
焦っているというかどこかやけくそで、一つ一つの動きに過剰な力をこめているのだ。
「休めよ馬鹿ー。レインが良くても、レインの体には良くないんだよー。それに、焦りは“夢”に良くないよ? せっかく良くなってきてるのに、今少しでも間違えたら、またやり直しになっちゃう」
ロゼッタがそう言うと、レインは無表情になって剣を片付けた。
端にある水道から水を呑んで、レインはロゼッタの横に座る。
今日も修練城内の人は少ない。
「何をそんなに焦ってるのー? タイムリミットはまだ先なのにぃ」
アルト・ラセレ=ツイン・ノアブレードが見つかり、エデンの園が見つかり、皆の実力が限界値まで達するのに後どれぐらいの時間がかかるのだろうか。
もしかしたら、アリスと闘うことすらないのかもしれない。
レインは表情を和らげて、自虐的な口調で言った。
「ボクは恥ずかしいですよ……。たかがかすり傷で弱音を吐いて。アーサーを傷つけた奴を許さないと思ったのも、こんな世界終わればいいのにと思ったのも……僕なのに」
ロゼッタは溜息を吐いた。レインはつまらない上に馬鹿だ。
そんなことを思っていただなんて、しかもそれに罪悪感まで感じていたなんて。一人で抱え込んでがむしゃらに動いたところで何も代わりはしないのに。
「あのね、スランプはだーれにもあるのー。ボクにだってあったんだからさ。ボク以外の一般ハンターにスランプがない方がおかしいの」
「イリンドームさんにも……、そんな時期があったんですか」
「……ちょっと何ー? その反応。 まさか、ボクが生まれたときからこんなんだって思ってたのー?」
レインは少し微笑んで、僅かな沈黙を置いたあと、いいえと答えた。
何だか非常にわざとらしい答えな気がする。
「まぁーボクは、茨に縛られた身だけどね」
何て言いました? 茨って? という風にレインが首をかしげた。が、無視する。
「ボクもさぁ、アネッタをトループに殺されたけど……。アネッタの死体をグチャグチャにしたのは、トループだけじゃあ無かったしね。……ショックだったんだよー」
「……そうですか。じゃあ、、地道に頑張ってみます」
休憩は止めだと立ち上がったレインの服を引っ張る。
「何ですか?」
「ねぇ、体もいーけれど、そろそろ別のことも学ばないとねー? 前にトループのこと教えてから結構経ってるよね? 久しぶりに資料室行くよ」
「え!? いや、あの……」
戸惑うレインを引っ張って、ロゼッタは資料室へ向かった。