第九話 仁の選択
風が、止まっていた。
音もない。
ただ、目の前の存在だけが、現実だった。
“仁”の珠を持つ男。
だが、その中身は空っぽ。
与えることも、思いやることもない。
ただ――奪うだけの存在。
「……全部、いらない」
男が、もう一度言う。
「持ってるやつから、奪えばいい」
その声に、感情はない。
怒りも、悲しみも、何も。
だからこそ――
怖い。
「……どうする」
犬山道節が低く言う。
「このままじゃ、被害が広がる」
「分かってる」
犬川荘助が応じる。
「だが――」
「斬るのか?」
犬田小文吾の声。
誰も、すぐには答えられなかった。
沈黙。
その中で――
犬塚信乃が、一歩前に出る。
「……俺が行く」
「信乃」
荘助が呼ぶ。
だが、止めない。
止められない。
信乃は、男の前まで歩いた。
距離は、数歩。
刀は、まだ抜いていない。
「……聞こえてるか」
静かに言う。
男は、反応しない。
ただ、見ている。
「お前の中に、何か残ってるはずだ」
「……」
「なかったら、こんな形で立ってない」
沈黙。
だが――
わずかに、目が揺れた。
ほんの一瞬。
それだけ。
だが、確かに。
「……あっただろ」
信乃は続ける。
「誰かを助けたこと」
「守りたいと思ったこと」
「……」
男の手が、わずかに震える。
だが――
「……いらない」
その言葉で、すべてが消えた。
珠が、濁った光を放つ。
「全部、捨てた」
「……っ!」
信乃の表情が歪む。
「……そうかよ」
ゆっくりと、刀を抜く。
「なら――」
一拍。
「思い出させるしかねえな」
次の瞬間。
男が動いた。
重い一撃。
地面が砕ける。
信乃は、正面から受ける。
「ぐっ……!」
重い。
だが、耐える。
「……それでも」
押し返す。
「終わりじゃない!」
刃が交差する。
火花が散る。
信乃は、踏み込む。
ただ斬るためじゃない。
届かせるために。
「お前の“仁”は――そんなもんじゃないだろ!」
叫ぶ。
だが、届かない。
男の目は、まだ空っぽだ。
その時だった。
「……信乃」
声。
振り返らない。
だが、分かる。
仲間だ。
「一人で背負うな」
荘助の声。
「……ああ」
信乃は、わずかに笑う。
「最初から、そのつもりだ」
次の瞬間。
五つの影が動いた。
荘助の槍。
道節の剣。
小文吾の拳。
毛野の刃。
親兵衛の支え。
それぞれが、ぶつかる。
だが――
狙いは一つ。
倒すことじゃない。
「止めるぞ!」
信乃の声。
全員が応じる。
六つの珠が、強く光る。
その光が――
男の珠へと、触れる。
「……っ!」
男の体が、震える。
何かが、ぶつかっている。
内側で。
「……やめろ」
初めての、感情。
「やめろ……!」
叫び。
その目に、光が戻る。
ほんの少し。
だが、確かに。
「……そこだ!」
信乃が踏み込む。
刀を振るう。
だが――
斬らない。
珠に、触れる。
その瞬間。
光が、爆ぜた。
強い光。
すべてを包む光。
そして――
静寂。
風が、戻る。
音が、戻る。
男は、膝をついていた。
「……俺は」
震える声。
「何を……」
信乃は、刀を収めた。
「戻ってきたな」
男は、ゆっくりと顔を上げる。
その目には――
確かに、“心”があった。
胸元の珠。
それは今、澄んだ光を放っている。
刻まれた文字。
「仁」
「……犬村大角」
男は、自分の名を口にした。
「……俺は」
言葉が詰まる。
だが、信乃は言う。
「これからだ」
短い一言。
それだけで、十分だった。
七つの珠が、揃う。
だが――
まだ一つ、足りない。
「……あと一人」
親兵衛が呟く。
「ああ」
荘助が頷く。
「これで終わりじゃない」
風が吹く。
七つの光が、共鳴する。
だが、その光は――
どこか、不完全だった。
最後の一つ。
それが揃った時。
何が起こるのか。
誰にも、まだ分からない。




