表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

いつも病弱の幼馴染を優先して私を蔑ろにしていたのに、婚約破棄されるのは困るんですね?

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/04/02

 窓の外に広がる薔薇園は、今日も美しかった。


 白と薄紅の花弁が風に揺れるのを眺めながら、ロゼリア・ブランシュヴェールは小さな溜息をついた。テーブルの上には、二人ぶんの紅茶とサンドウィッチ。丁寧にスライスされたきゅうりと、クリームチーズの白が、午後の光に品よく映えている。


 しかし、向かいの席はからっぽだった。


 ついさっき届いた手紙は、たった三行。こう記載されていた。


『ロゼリア、ごめんね。ルナがまた発作を起こしてしまって。僕が側にいないと薬も飲んでくれないんだ。今日のお茶会は、また今度にしよう。——フェリクス』


 また今度。


 何度目だろう、この言葉を聞くのは。


 ロゼリアはサンドウィッチの皿を引き寄せ、一切れをつまんだ。おいしい。おいしいのに、のどを通っていく感じがしない。


 フェリクス・クリーンレイド侯爵子息。ロゼリアの婚約者であり、社交界の令嬢たちが「王子様みたい」とため息をつく美青年である。


 柔らかな金髪に、空のような青い瞳。誰にでも微笑みを絶やさず、困っている人を見れば真っ先に手を差し伸べる。周囲は彼を「非の打ち所がない好青年」だと疑わず、彼自身もまた、己を慈悲深い人間だと信じて疑わない。


 だが、フェリクスのその「優しさ」には、明確な境界線があった。

 彼が守るべき対象として選ぶのは、いつだって婚約者のロゼリアではなく、別の令嬢だった。


 ルナ・メンセルバス。フェリクスの幼馴染で、生まれつき身体が弱い伯爵令嬢。

 彼女が「少し気分が悪い」と顔を曇らせれば、フェリクスはそれがロゼリアとの大切な記念日であっても、観劇の最中であっても、その場に彼女を置き去りにして駆けつける。ルナが「こわい」と縋れば、彼はロゼリアとの約束を「なかったこと」にして一晩中付き添う。


 そして後日、彼は何事もなかったかのような顔で、決まり文句を口にするのだ。


「——君なら分かってくれるよね?」


 その言葉は、問いかけではない。

 病弱な人を助けるという「正義」の前で、ロゼリアに沈黙と我慢を強いるための呪文だ。


 彼が他人に差し伸べるその手は、一番近くにいるはずの婚約者の心を、いつも無自覚に踏みにじり続けていた。


「……おいしいのに、もったいないな」


 独り言が、しんとした部屋に落ちた。


 ロゼリアはサンドウィッチをもう一切れだけ食べて、残りに布をかけた。侍女のクレアが「お嬢様、フェリクス様は……」と言いかけたのを「大丈夫、急なご用事だって」と遮り、椅子から立ち上がる。


 向かう先は決まっている。


 廊下を抜け、渡り廊下を通り、庭の奥にある温室。


 ガラスの扉を押し開けると、むわっとした温かい空気と、甘い土のにおいが鼻をくすぐった。


「——やあ」


 温室の奥。鉢植えのレモンの木の下に置かれた長椅子で、くたびれた園芸書を片手に寝転んでいた青年が、のそりと身を起こした。


 深い緑の瞳と、少しくせのある焦げ茶の髪。ロゼリアの幼馴染——シリル・ラグディスタル伯爵嫡男である。名門の嫡男でありながらどこか飄々としていて、社交界では「つかみどころのない人」と評されている。


 シリルはロゼリアの顔を一瞥しただけで、園芸書をぱたんと閉じた。


「また置いてかれたの?」


「……っ、別に。フェリクス様は急用が入ったの」


「はいはい」


 シリルは長椅子から立ち上がり、温室の隅に置かれた棚からカップをふたつ取り出した。ポットは、まるで見越していたかのように既にお湯が沸いている。


「今日で何回目?」


「……数えてない」


「先月だけで四回。今月はこれで三回目。もっと遡れば二桁は余裕で超えるね」


 ぎくり、とする。そんなになるだろうか。いや、なっている。自分が一番よく知っている。


「ほんと、損な性格してるよな。ロゼリアは」


 呆れたように、でも責めるでもなく、シリルはそう言った。

 手際よく淹れられた紅茶がロゼリアの前に差し出される。アッサムの、しっかりした茶葉。シリルは、ロゼリアが落ち込んでいるときほどコクのある紅茶を選ぶ。


「あと、これ。さっき厨房から貰った」


 小皿に載せられたのは、焼きたてのスコーンだった。まだほんのり温かくて、割ると中からジャムの甘い香りがした。


「……ありがと」


「どういたしまして」


 シリルは向かいに座り、自分のカップに口をつけた。それきり何も聞かない。ロゼリアが話したいなら聞くし、黙っていたいなら隣で黙っている。


 それが、ずるいと思う。


 スコーンをかじりながら、ロゼリアはぽつぽつと話し始めた。先月の夜会でフェリクスが途中で席を外したこと。その前に送った手紙の返事が三日も来なかったこと。約束していた星空の散歩が、もう五回も延期になっていること。


 口に出すと、思っていたよりみじめだった。


「……私、ちゃんとできてるのかな。婚約者として」


「ロゼリアが心配することじゃないだろ」


「でも、私がもっとちゃんとしてたら——」


「ロゼリア」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。


「お前は充分すぎるくらいやってる。それで足りないアイツの目が節穴なんだよ」


 さらっと辛辣なことを言う。でも、その言い方がいつも通りすぎて、怒っている感じはしない。


「ま、あんま無理すんなよ」


 大きな手がロゼリアの頭にぽん、と載せられた。子供のころからずっとそうだ。シリルは何かあるたび、こうしてロゼリアの頭を撫でる。


 その不器用な掌に触れている間だけが、今の彼女にとって唯一息継ぎのできる時間だった。



 §



 数日後。


 ロゼリアは、フェリクスの屋敷を訪れていた。


 領地から届いた書類を預かったのだ。本来なら使用人に頼めばいいものを、「少しでも顔を合わせる口実がほしい」という、健気すぎる理由で自ら足を運んだ。


 フェリクスの屋敷は、クリーンレイド侯爵家の別邸で、白亜の壁に蔦の絡まる瀟洒な佇まいだった。使用人に取り次ぎを頼もうとしたところ、玄関ホールにフェリクスの姿がない。


「フェリクス様は二階の客間にいらっしゃいます」と案内されるまま階段を上り、廊下を進む。


 客間の扉は、半開きだった。


 ロゼリアは何の疑いもなく手をかけた。


「フェリクス様、書類をお持ちし——」


 言葉が途切れた。


 目に飛び込んできた光景を、脳が処理するのに数秒かかった。


 長椅子の上。フェリクスが、ルナを抱きしめている。


 いや——唇が(・・)、重なっている。


 ルナの白い頬は紅潮し、フェリクスの手は彼女の細い腰に回されていた。


 がたん、とロゼリアの手から書類の束が落ちた。


 その音で、二人がようやく気づく。


 フェリクスの顔が真っ青になった。飛び起きるように身体を離し、両手を振って叫ぶ。


「ち、違うんだ、ロゼリア!」


 違わない。目の前の光景が、すべてを物語っている。


「彼女が……ルナが、発作の恐怖で泣いていたんだ。僕が安心させてあげないとって……その、それだけで——」


 フェリクスの声が遠かった。


 耳が、聞こえなくなっていた。水の底に沈んだみたいに、世界の音がぼやけて、フェリクスの口が動いているのだけが見える。


 ——安心させる。


 ——それは、婚約者のいる人がすることなの? 


 声が出なかった。

 胸の真ん中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。


「ロゼリア、聞いてくれ!」


 フェリクスが一歩近づいた。


 その瞬間、ロゼリアの身体が動いた。考えるより先に。


 踵を返して、走った。


「待って——」


 背後でフェリクスが叫んだ。でも追いかけてこなかった。追いかけてくるだけの覚悟も、資格も——あの人にはないと、ロゼリアはどこかで分かっていた。


 使用人たちが驚いた顔で何か言っていたが、聞こえない。外に出て、門を抜けて——気づいた時には小さな公園の前にいた。


 膝から力が抜けた。


 石のベンチに崩れるように座り込み、両手で顔を覆った。


 ——泣くな。惨めだから。


 ——泣くな。みっともないから。


 ——泣くな、泣くな、泣く——


 涙は、我慢なんか聞かなかった。


 指の隙間から、ぽたぽたとこぼれ落ちた。声を殺して泣いた。嗚咽が漏れないように歯を食いしばって、肩を震わせて、ひとりきりで。


 どれくらいそうしていただろう。


 五分か、十分か。涙で視界がぼやけて、時間の感覚があいまいだった。


 ——そんな時だった。


「——なにされたんだ」


 シリルが、ロゼリアの前に立っていた。


「シリ、ル……?」


 ロゼリアは、唇を震わせた。


 話したくなかった。口にしたら、あの光景が本当のことになってしまう気がして。でも——シリルの前では嘘がつけない。子供のころからずっとそうだった。


「……フェリクス様が、ルナ様と……」


 声がかすれた。


「……キス、してた」


 言葉にした瞬間、また涙が溢れた。両手で顔を覆ったまま、嗚咽が漏れた。もう隠しきれなかった。


 シリルの緑の瞳から、すっと温度が抜け落ちていく。

 だが、涙で目が霞んでいたせいで、ロゼリアはその事に気づかなかった。


「えっ、ちょっと、シリル!? どこに行くの?」


「アイツのところ」


 シリルは背を向け、迷いのない足取りで屋敷の方へ歩き出していた。


「ま、待って! ダメだよ、フェリクス様のところに行っても——」


 慌てて立ち上がり、涙を拭いながら後を追う。だが、シリルの足は止まらない。

 玄関ホールを抜け、驚く使用人たちにも目もくれず、真っ直ぐに階段を上がっていく。


「お願い、シリル、止まって! 事を荒立てないで……!」


 ロゼリアは困惑しながらシリルの背中を追い、その袖を引こうとする。だが、彼は全く揺るがない。長い脚でずんずんと二階の廊下を進み、客間の前まで来て——シリルの足が、ぴたりと止まった。


 扉は、まだ半開きだった。


 中からフェリクスの声が聞こえた。焦った声で、ルナに何か話している。


「——大丈夫だよ、ルナ。ロゼリアには僕からちゃんと説明するから。彼女も分かってくれるよ、いつもそうだったし——」


 追いついたロゼリアが息を呑むのと同時に、シリルは乱暴に扉を開け放った。


 客間の中で、フェリクスがびくりと振り返った。ルナがフェリクスの背中に隠れるように身を寄せる。


「な、なんだ……!?」


「……『彼女も分かってくれる、いつもそうだったし』……」


 直前のフェリクスのセリフを、シリルは反芻した。


「いつも分かってくれていたその彼女が、さっきどんな顔で泣いていたか。知ってますか?」


 責め立てるようなシリルの静かな声に、フェリクスの顔が引きつる。


「し、シリル……いくら君が彼女の幼馴染でも、これはクリーンレイド家とブランシュヴェール家の問題だ。君が、軽々しく口出ししていいことじゃない」


 身分を盾にした、あからさまな牽制。

 室内の空気がピンと張り詰める。ロゼリアは息を呑んだ。侯爵家に楯突くことがどれほど危険なことか、貴族である彼女が一番よく分かっている。


 だが、シリルは鼻で笑った。


「そうですね。家同士の問題。ご立派な次期侯爵様が、白昼堂々、婚約者以外の令嬢と唇を重ねていた。……社交界の雀たちが喜んで囀りそうな『問題』ですね」


「なっ……何が言いたい! 伯爵家の分際で——!」


「ええ、しがない伯爵家の嫡男ですよ。だから、失うものなんてたかが知れてる」


 フェリクスが言葉を失う。

 シリルは背後にいたロゼリアの腕を引き寄せ、自分の隣に立たせた。


「だから言わせてもらいますね。——こいつのこと。いらないなら、俺がもらいます」


 一片の迷いもない声だった。問いかけの形をした、通告。

 フェリクスが弾かれたように何か言いかけた。しかし、本気の殺気すら孕んだシリルの目と合った瞬間、喉の奥が凍りつく。


 シリルはため息をひとつこぼすと、ロゼリアの手をしっかりと握り直した。


「帰ろう、ロゼリア」


「え、あ、うん……」


 繋がれたシリルの指が、怒りを抑え込むように、ほんの少しだけ震えていることに気づいて——ロゼリアの胸が、ドクン、と大きく鳴った。

 

 シリルは迷いのない足取りで歩き出した。

 背後でフェリクスが何かを喚いていた気もするが、今のシリルの耳には届いていないようだった。


 屋敷を出て大通りに出たところで、シリルはその場でへたり込んだ。


「……あー、緊張した」


「き、緊張って……シリル、分かってるの!? 侯爵家のフェリクス様に、あんな喧嘩を売るような真似……おじ様の耳に入ったら……!」


 ようやく我に返ったロゼリアが青ざめて詰め寄る。


 身分差を理解しているはずの彼が、なぜあんな無茶をしたのか。

 必死なロゼリアを見て、シリルはぽりぽりと後頭部を掻いた。


「分かってるよ。親父に殴られる覚悟も、家を追い出される覚悟もした上で言った」


「だったら、どうして……!」


「お前が泣いてたから」


 ロゼリアの言葉が、ぴたりと止まった。


「相手が侯爵だろうが王族だろうが……ロゼリアを泣かせる奴には、俺は喜んで喧嘩売るよ」


 少しだけ照れくさそうに笑うその顔を見て、ロゼリアの頭は真っ白になった。


「シリル……」


「っし、早いとこ帰ろうぜ」


 そう言って再び引かれた手の熱さが、今度は違う意味でロゼリアの心を激しく揺さぶっていた。




 §




 ブランシュヴェール伯爵邸。


 ロゼリアの住む屋敷に帰ってきた。

 玄関ホールに足を踏み入れると、泣き腫らした顔を伏せるロゼリアを見て使用人たちが一斉に息を呑んだ。


 年配の執事が弾かれたように主人のいる奥の書斎へと駆け出していく。

 静まり返ったホールに、廊下の奥から急ぎ足でやってくる重々しい靴音が響き渡る。


「ロゼリア、どうした。その顔は」


 使用人に急かされるようにして姿を現したのは、父であるブランシュヴェール伯爵だった。

 目を真っ赤に腫らした娘と、付き添うシリルを交互に見やり、父はいぶかしげに眉をひそめる。


「お父様……」


 ロゼリアは震える声で、先ほど見てしまった光景を口にした。フェリクスがルナと口づけを交わしていたこと。自分が逃げ出してしまったこと。


 だがそれを聞いた父の反応は——ロゼリアの期待していたものではなかった。


「なんだ、そんなことか」


 心底呆れたような、ため息。


「そんなこと……?」


「相手は次期侯爵。男の火遊びなど、貴族社会では珍しくもない。ましてや相手は病弱な令嬢だろう。本気の恋というより、ただの同情だ。正妻は間違いなくお前なのだから、少しばかりの浮気は目を瞑りなさい」


「でも……!」


「それより問題なのは、泣いて逃げ帰ったことだ。みっともない。今すぐ戻って、フェリクス殿に『取り乱して申し訳ありませんでした』と頭を下げてきなさい」


 頭の芯が真っ白になった。

 一番の味方であってほしい実の父親にまで、「侯爵家との繋がりのため」という大義名分のもとに切り捨てられた。


 絶望で足から崩れ落ちそうになった瞬間。ロゼリアの肩を、大きな手が引き寄せた。


「……ロゼリアの顔を見てもなお、そのようなことが言えるのですか」


「貴族としての義務だ。娘の感情一つで、侯爵家との繋がりを失うわけにはいかん」


「本気で、そう仰るのですか。閣下にとっては、家門の誇りが娘の幸福に勝るというのですか」


「ああ。その通りだ」


 シリルはロゼリアの手を強く握り直した。


「承知いたしました。では、ロゼリアは我が家でお預かりします」


「は? いきなり何を言い出すんだ……」


「一度、冷静になってください。閣下が正気を取り戻されるまで、彼女をこの屋敷に置いておくわけにはいきません」


「冷やすべきは君だろう。我が家の問題に介入するつもりか?」


「ええ。不服がおありなら、どうぞ我が父に直接お伝えください。もっとも……『娘の心を踏みにじるような今の閣下のお考え』に、父が賛同するとは到底思えませんが」


 唖然とする父親を置き去りにして、シリルは再びロゼリアを連れて屋敷を出た。

 迷うことなく自家の馬車にロゼリアを乗せ、御者に屋敷へ戻るよう告げる。


 走り出した馬車の中で、シリルは小さく息を吐いた。


「……ごめん。親父さんにまであんな口の利き方して」


 ロゼリアはふるふると首を横に振った。涙がまたこぼれそうだった。

 シリルはロゼリアの隣に座り、その頭にぽんと手を乗せた。


「えっとさ、取り敢えずウチに来いよ」




 §




 シリルの屋敷に着く頃には、夕焼けが空を橙に染めていた。


 ラグディスタル伯爵家の別邸は、フェリクスの屋敷ほど華やかではないが、手入れの行き届いた庭と暖炉のある居心地のいい館だった。ロゼリアは何度も遊びに来ている。庭の薔薇の配置も、図書室のどこに何があるかも全部知っている。


 なのに、今日は妙に緊張していた。


 ——こいつのこと。いらないなら、俺がもらいます


 あの言葉が、頭の中でずっとこだましている。


「……ロゼリア。何突っ立ってんの?」


「えっ、あ、ううん! なんでもない!」


 慌てて首を振って、促されるまま玄関をくぐる。

 ホールに入ると、使用人たちが控えめに出迎えてくれた。シリルは手早く外套を預けながら、「客間の準備と、あと温かいお茶を適当に」と指示を出す。


「ねえ、シリル……」


「ん?」


「……あの……なんていうか、フェリクス様に言ってた、私のこと『もらう』って……どういう意味?」


 恐る恐る尋ねたロゼリアに、シリルは一瞬だけ目を丸くして——それから、いつもの気の抜けた笑いをこぼした。


「そのままの意味だけど」


「え?」


「なんてな。一種のハッタリだよ。ああいうボンボンにはあのくらい言ってやんないとだろ」


「ハッタリ……」


 そう言われて、ほっとしたような、胸の奥が少しだけチクリと痛んだような、複雑な気持ちになった。


 何はともあれ、成り行きでシリルとの同居が始まった。




 §




 翌朝。


 見覚えのない天井を見上げて、一瞬混乱した。


 白漆喰の天井。深い緑のカーテン。窓の外からは小鳥のさえずり。


 ——そうだ。シリルの屋敷の客間だ。


 そう、シリルの……。


「……いやいやいや」


 小声でかぶりを振る。何を動揺しているのだ。シリルとは子供の頃から散々一緒に寝転がって遊んでいたではないか。


 気合いを入れて起き上がり、顔を洗って身支度を整え、階下のダイニングへ向かった。


「おはよ」


 テーブルには、すでに朝食が並んでいた。焼きたてのパンと、バター、蜂蜜、果物。ゆで卵と、薄切りのハム。シリルはエプロンをつけたままコーヒーを注いでいた。


「……シリルが作ったの?」


「厨房の連中がまだ来てない時間だったからな。まあ、パンは昨日の残りだけど」


 シリルがエプロン姿で朝食を用意している光景は、考えてみれば珍しくない。子供の頃から料理が好きで、ロゼリアに色々作ってくれた。


 なのに。


 エプロンの紐が腰のあたりできゅっと結ばれている様子に、妙に目が行ってしまう。


 ——いや、何を見ているの私。


 慌てて視線をそらし、椅子に座った。


「いただきます」


「どうぞ」


 向かいに座ったシリルは、何の気なしにコーヒーを飲んでいる。髪はまだ少し寝癖がついていて、シャツの第一ボタンが外れている。袖を肘までまくっていて、日焼けした前腕が目に入った。


 ——ってぇ、何を見ているんだ私は! 


 パンをちぎる手が止まらない。


「……お前、パン千切りすぎ」


「えっ」


 見下ろすと、パンが粉々になっていた。


「あっ……ごめん、ちょっとぼーっとしてて」


「ぼーっと? 寝ぼけてるの?」


 ——あなたのせいですけど!? 


 とは死んでも言えない。


「そ、そうかも。あはは、うん、パンおいしい」


「粉々にしといて言う台詞か」


 くすっとシリルが笑った。何の含みもない、いつもの穏やかな笑い方。


 それだけで心臓が跳ねた自分に、ロゼリアは当惑した。




 §




 同居三日目。


 ロゼリアはシリルの書斎で本を読んでいた。実家には早馬で着替えと日用品を送ってもらうよう頼んであり、侍女のクレアだけがこちらに合流している。父からの手紙等は特にない。


 本を読んでいるはずなのに、一行も頭に入ってこなかった。


 原因は明白である。シリルが、すぐ隣で園芸書に没頭しているからだ。


 ペンで何やらメモを取りながら、時おり眉間に小さな皺を寄せて考え込む横顔。指先でペンをくるくる回す癖。ふっと口元がゆるむ瞬間。


 全部、今まで何百回と見てきた仕草のはずなのに。


「面白くないなら別の本出すよ」


「……え? なんで?」


「さっきからページ動いてないから」


「い、いえ! 面白い! すごく面白い!」


「……『薔薇の病害虫対策大全』がそんなに面白いのか」


 手元を見た。そこには確かに、シリルの書棚から適当に抜き出した、薔薇の根腐れとアブラムシの対処法がびっしり書かれた本があった。


「…………」


「…………」


 シリルがぷっと吹き出した。


「お前って、昔からそういうとこ変わんないよな」


「う、うるさいなぁ……」


「少し歩こうか。庭、薔薇がいい感じに咲いてるよ」


 窓からの西日を受けて、緑の目がきらきら光っている。


「……うん」


 並んで書斎を出る。廊下を歩く時、シリルは自然にロゼリア側——風の吹く窓側に立った。昔からそうだ。シリルはいつも、ロゼリアの風上に立つ。


 今は、それがいちいち胸に刺さった。




 §




 庭の薔薇は見事だった。夕暮れの光に白い花弁が金色に縁取られている。


「……きれい」


「だろ。今年は肥料を変えたんだ。園丁のじいさんと研究してさ」


「シリルって、本当にお花が好きだよね」


「うん──あ、ちょっと待って。動くなよ」


「え?」


 シリルが手を伸ばした。ロゼリアの髪に花びらがひとひら引っかかっていたらしい。長い指が髪に触れ、そっと花びらを取り除く。


 その手が離れるまでの数秒間、ロゼリアは息をするのを忘れていた。


「はい。取れた」


 シリルは花びらを指先でくるくる回しながら、何事もなかったように歩き出した。


 三歩遅れてついていきながら、ロゼリアは心の中で叫んだ。


 ——ああもう! 私、絶対なんかおかしい! シリルは家族。兄妹みたいなもの、なのに……! 


 首をブルブル大きく振ってから、シリルの背中を追いかけた。




 §




 同居四日目の夜。


 ロゼリアが暖炉の前で居眠りをしてしまった。


 うっすら目を開けると、シリルが毛布をかけてくれているところだった。暖炉の明かりに照らされた横顔が、やけに近い。


 半覚醒の脳で、ぼんやりとその顔を見上げた。


 シリルは——不意を突かれたように動きを止めた。


 緑の瞳がロゼリアの顔を映している。暖炉の炎が、その目の中でちらちら揺れていた。


 数秒の沈黙。


 先に目を逸らしたのは、シリルの方だった。


「……寝るなら部屋で寝ろよ。風邪引くだろ」


 ロゼリアは数回瞬きをしたあとで、客間に駆け込んだ。


 ベッドに飛び込んで枕に顔を押しつける。


 ——どうしよう。


 ──どうしよう、どうしよう、どうしよう! 


 幼馴染として十何年、一緒に育ってきた。兄みたいな存在だと思っていた。隣にいるのが当たり前すぎて、特別だと気づかなかった。


 なのに今は、シリルの一挙一動が心臓に悪い。


 ——こいつのこと。いらないなら、俺がもらいます


 ロゼリアは枕を抱きしめ、もがいた。


「ただの幼馴染。ただの幼馴染、なんだから……!」


 心臓は、一向に静まってくれなかった。




 §




 同居五日目の昼下がり。


 来客があった。


 応接間に通されたのは——ロゼリアの父、ブランシュヴェール伯爵だった。


 ロゼリアは身を強張らせた。あの日の言葉が、まだ胸に刺さっている。


 ——みっともない。今すぐ戻って頭を下げてきなさい


 また同じことを言われるのだろうか。連れ戻しに来たのだろうか。


 シリルが自然にロゼリアの隣に立った。何も言わないが、「何かあったら俺が出る」という気配が伝わってくる。


 父は——しかし、あの日とは違う顔をしていた。


「……ロゼリア。座りなさい」


「……はい」


 向かい合って座る。シリルは少し離れた場所に立ったまま。


 父はしばらく黙っていた。何かを言おうとしては口を閉じ、テーブルの上で組んだ指を見つめている。


 やがて。


「……あの日のことは、すまなかった」


 ロゼリアは耳を疑った。


 父が——あの「家名第一」の父が、謝った。


「私はまず娘の気持ちを聞くべきだった。侯爵家との繋がりばかりを考えて……あの言い方は、父親として最低だった」


「お父様……」


「シリル君に言われた言葉が堪えた——と言えば、格好がつかんな」


 父は苦い顔で笑った。


 ロゼリアの目に、じわりと涙が滲んだ。


「あの後、一人で考えた。お前が小さかった頃のことを思い出した。初めて歩いた日のこと、初めて字を書いた日のこと……ミローナ──お前の母親が亡くなってから、私はいつの間にか、お前を『家の駒』としか見なくなっていたのかもしれん」


 父の声が、わずかに震えた。

 父の視線が、部屋の隅に立つシリルに向いた。シリルは何も言わず、静かに立っている。


「……恥ずかしい話だが、シリル君──キミに教えられたよ」


 父はゆっくりと息を吐いた。


「クリーンレイド侯爵家との婚約は、私から解消を申し入れたいと思うが、問題はないか?」


 ロゼリアは一瞬の当惑のあとで、顔を上げ真っ直ぐ父を見つめた。


「はい。フェリクス様との婚約は、解消させてください。私……もう、あの方の隣で笑えません」


 はっきりと口にした瞬間、胸の奥につかえていた冷たい重りが、すっと溶けていくのがわかった。


 父は深く頷いた。


「わかった。侯爵家には私から話をつけておこう」


「……ありがとうございます、お父様」


 父は頷き、立ち上がった。帰り際、シリルの前で足を止める。


「あの日は済まなかった」


「いえ。あの時は俺も言い過ぎました。すみません」


 父は表情は和らげると、扉に手をかけ──ふと振り返った。


「しかし……侯爵家との婚約解消となれば、社交界もうるさいだろう。お前の次の貰い手を探すのは、少々骨が折れそうだな」


「あ、はい。覚悟しております」


「だから、お前自身でいい人を探しておきなさい。家格や体裁など気にせず、お前のために平気で無茶をしてくれるような……そんな変わり者をな」


 父はそう言うと、部屋の隅で静かに立っているシリルへ、ちらりと視線を流した。


 シリルは気まずそうにすっと視線を逸らし、わざとらしく小さく咳払いをする。

 数秒遅れてその言葉の意味に気づいたロゼリアは、みるみるうちに顔を赤く染めていった。


「じゃあ、また後でな」


 父は最後に柔らかく微笑むと、今度こそ部屋を後にした。


 ——なんだ、お父様、あんなふうに笑うんだ。


 ロゼリアは熱くなった頬を両手で包み込みながら、閉ざされた扉を不思議な気持ちで眺めていた。




 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



 婚約解消の知らせが届いた日、フェリクスはむしろ余裕すら見せていた。


 ——ちょっと拗ねているだけ。少し怒っているだけだ。

 ──僕が直接会って「ごめんね」と笑えば、きっとまた許してくれる

 ──だって彼女はいつもそうだったから。


 しかし、そんな甘い認識を叩き壊したのは、彼の父親だった。


「フェリクス。こちらに来なさい」


 クリーンレイド侯爵の書斎に呼び出された時、フェリクスは嫌な予感がした。父がこの部屋に呼ぶのは、重い話の時だけだ。


 書斎に入った瞬間、頬を張られた。


 痛みに目を瞬かせる間もなく、父の低い怒声が降ってきた。


「——お前は、自分が何をしたか分かっているのか」


「父上、僕は——」


「婚約者がいながら別の女性と唇を重ね、その場を目撃されて逃げられ、挙句には相手方から婚約解消を突きつけられたんだぞ」


 フェリクスは口を開こうとしたが、父はそれを許さなかった。


「ブランシュヴェール家との政略結婚がどれほど大事なものか忘れたか。先方の伯爵が直々に婚約解消を申し入れてきた。お前のせいで侯爵家の面子が泥を被ったんだ」


「で、ですが父上、ご安心ください。僕が直接ロゼリアに会って説明すれば——」


「説明?」


 父の目が、冷たく光った。


「お前はまだ分かっていないのか。先方はもうお前を婿候補として見ていない。信頼というのは一度壊れたら二度と戻ることはないんだ」


「…………」


「当面、社交界への出席は控えよ。これ以上恥をかかれては困る」


 社交界への出席禁止。十七歳の貴公子にとって、それは事実上の謹慎処分だった。


 フェリクスは唇を噛みながら書斎を出た。


 ——大丈夫。僕にはまだルナがいる。


 ルナだけは、いつでも僕を必要としてくれる。僕が傍にいないと薬も飲めないような、あの儚い少女だけは。


 彼女のために全てを捨てたのだ。彼女さえいれば——。


 だがその最後の砦は、三時間後に崩れた。


 ルナの屋敷を訪ねたフェリクスが見たのは——庭園で、知らない青年と親しげに笑い合うルナの姿だった。

 相手はフェリクスの知らない男だった。しかしルナは、その青年の腕にごく自然に手を添え、花のような笑顔を向けていた。


 フェリクスが見たことのない——健康的で、屈託のない笑顔を。


 フェリクスは物陰に隠れたまま、動けなかった。

 やがて青年が「また手紙を書くよ」と優しく微笑んで立ち去り、ルナがほんのりと頬を染めてその後ろ姿を見送る。


 青年が完全に屋敷を出たのを確認してから、フェリクスはよろめくように庭へ足を踏み出した。


「ルナ……」


 振り返ったルナは、フェリクスを見て一瞬だけ気まずそうに目を伏せた。ほんの一瞬だけ。それから、静かに向き直る。


「……フェリクス様」


「今のは誰だ。どうして僕以外の男と……!」


「え、えっと、スワンヴェール家のアレン様です。前々から、お手紙のやり取りをしていた方なんです」


「前々からって……」


 フェリクスの頭が真っ白になった。


「待ってくれ、ルナ。だったらあの日のことは何だったんだ!? 僕たち、キスしたじゃないか! 君だってそれを受け入れて——」


「……ごめんなさい」


 ルナは真っ直ぐにフェリクスを見た。そこにはもう、フェリクスに依存して震えるだけの弱々しい少女はいなかった。


「あの時、私、発作の恐怖でパニックになっていて……安心させてくれるなら、誰でもよかったの。フェリクス様は私が泣けばいつも飛んできて、私が全部委ねるのを待っていたから……あの日も、そうやってすがりつくのが正しいんだって、思い込んでた」


「だ、誰でもって……」


「でも、あの時……強く抱きしめられて、キスされて。私、気づいてしまったの。フェリクス様の『優しさ』が、酷く重くて……息が詰まりそうだって」


「息が、詰まる……?」


「それにフェリクス様が愛しているのは、『可哀想な私を救ってあげる、優しいご自分』だけでしょう?」


 静かな声だった。

 それは、フェリクスがひた隠しにしてきた本性を、最も残酷なかたちで暴き出す言葉だった。


「もう、私を利用して、ヒーローごっこをするのはやめてください」


 フェリクスはハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。

 否定したかった。そんなことはない、僕は君を大切に思って——。だが、喉が引きつって声が出ない。


「私、アレン様と一緒に生きたい。アレン様は私が自分の足で歩けるようになるのを、焦らず、一緒に待ってくださるの。……フェリクス様と違って」


 それは、フェリクスの「悲劇のヒーロー」としてのアイデンティティを、完全に殺す宣告だった。


 自分が「守ってあげている」と思っていたものは、相手にとってはただの「重荷」だった。


 ロゼリアに対しても。ルナに対しても。

 フェリクスは結局、誰のことも見ていなかった。「頼られる自分」「優しい自分」という鏡に映った自分の姿だけを、ずっと愛していたのだ。


 ロゼリアを失い、ルナには拒絶され、父親には謹慎を命じられ、社交界にも出られない。


 全てを失って初めて、フェリクスの頭の中に明確な後悔が生まれた。


 ——僕は、何をしていたんだ。


 しかしその後悔すらも、まだ歪んでいた。

「自分が何を失ったか」は痛いほど分かる。けれど「ロゼリアをどれだけ傷つけたか」は——まだ、本当の意味では分かっていなかった。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



 王都の目抜き通りは、秋の市で賑わっていた。


 色とりどりの露店が並び、焼き栗の甘い香りが風に流れてくる。ロゼリアはシリルに連れ出されて、久しぶりに街を歩いていた。


「あ、あそこの焼き菓子屋、新しい」


「お前、本当に甘いもの好きだよなあ」


 ロゼリアは財布を取り出し、紙包みに入った大きな焼き菓子を一つ買った。焼きたてで湯気を立てている焼き菓子からは、甘い香りが漂ってくる。


 火傷しないようにそっと端をかじると、サクサクの生地の中から温かいカスタードと林檎の甘みが口いっぱいに広がった。


「んっ……! これ、すっごく美味しい!」


 ぱあっと顔を輝かせて、ロゼリアは幸せな気分でもう一口頬張る。


 隣を歩くシリルが、ふっと柔らかく吹き出した。


「お前って、昔からほんと美味そうに食べるよな。見てるこっちまで腹減ってくる」


 呆れたような、でもどこか甘やかすような声だった。見上げると、シリルがとても優しい目をしてこちらを見下ろしている。


 その穏やかな顔を見たら、なんだか無性にこの美味しさを共有したくなった。


「シリルも一口食べる? はい、あーん」


 ロゼリアは自分が口をつけていない端の方を指で小さくちぎり、シリルの口元へひょいと差し出した。

 子供の頃からよくやっていることだ。しかしシリルは一瞬、わずかに目を丸くして動きを止めた。


 周囲の目もある往来での「あーん」に照れたのか、気まずそうにすっと視線を逸らす。耳の端が、少しだけ赤い。


「……子供扱いすんな」


 ぼそっと文句を言いながらも、シリルは少しだけ身を屈めてきた。

 だが、彼がぱくりと口に入れたのは——ロゼリアが指で差し出した小さな欠片ではなく、彼女のもう片方の手にある『本体』の方。それも、ロゼリアの小さな歯形が残っている食べかけの部分だった。


 長い睫毛がすぐ目の前まで近づき、ロゼリアの指先にシリルの唇が微かに触れる。


「っ——!?」


 間接キス。

 いや、そんなの、今まで何百回もしてきたじゃないか。

 同じコップで喉を潤したり、一つのスプーンでデザートを分け合ったり。子供の頃からずっと一緒にいるのだから、そんなこと当たり前のように繰り返してきた。


 なのに今は、彼の唇が触れた指先から火が出そうなくらい熱い。


 ──なんで今さら、こんな……っ! 


 今まで当たり前だった距離感がバグを起こして、ロゼリアの顔がみるみるうちに朱に染まっていく。ちぎった焼き菓子を持った手は、行き場をなくして宙で固まっていた。


 シリルはロゼリアの真っ赤な顔から視線を外したまま、口元を手の甲で覆って小さく咀嚼した。


「……熱っ」


 少しだけ声が低かった。平然を装っているようだが、わざとなのか無意識なのか分からない。


 ——ただの幼馴染。ただの幼馴染なのに。


 心臓がうるさいほど跳ね回る。行き場をなくした欠片と、指先に残る微かな熱をごまかすように、ロゼリアは残りの焼き菓子を急いで口に運んだ。


 秋の陽射しは穏やかで、こうして同じものを分け合っているシリルの隣にいると、数日前の重さが嘘みたいに軽くなる気がした。


 と、その時だった。


「ロゼリア!」


 人混みの向こうから、フェリクスが真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。


 その姿に、ロゼリアは息を呑んだ。


 あの爽やかな「王子様」は、もうどこにもいなかった。金髪は乱れ、目の下に深い隈。服装は整えてあるが、どこかちぐはぐで、襟元が曲がっている。以前のフェリクスなら絶対に許さなかった、身だしなみの乱れ。


「よかった。やっと会えた。ロゼリア!」


 フェリクスが手を伸ばし、ロゼリアの腕を掴んだ。


「僕が悪かった。全部、僕が悪かったんだ」


 その声は——今までと違った。「ごめんね」で許してもらえると信じている、あの余裕がない。本当に追い詰められた人間の声だった。


「ルナには、以前から心を通わせていた相手がいたみたいで。僕が守ってたつもりだったのに、全部——」


 フェリクスの声が震えた。


「父上にも叱られて、社交界にも出られなくて。僕の周りに、もう誰もいないんだ。ロゼリア、君だけなんだ、僕の話を聞いてくれるのは——」


 ——僕の話を聞いてくれるのは。


 ロゼリアの中で、何かが静かに鳴った。


「フェリクス様」


 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。


「あなたは今——ルナ様に捨てられて、お父様に叱られて、誰もいなくなったから私のところに来たんですね」


 フェリクスが目を見開く。

 ロゼリアがフェリクスに言い返したのは初めてのことだった。


「ロゼリア、違う! 僕は——!」


「私はもう、『分かってくれるよね』で済ませるつもりはございません。当然、婚約破棄は撤回致しません。どうぞ、お引き取り願います」


 フェリクスの指が強張った。


 ——その時。背後から伸びた手が、フェリクスの手首を掴んだ。


 シリルだった。ロゼリアとフェリクスの間に、自分の身体を滑り込ませている。


「……いい加減、離してもらえます?」


 フェリクスの手が、するりとほどけた。


「まだ何かあるなら俺が相手しますけど」


 フェリクスは二人を交互に見た。何かを言いかけ——結局、唇を噛んで、人混みに消えた。


 その背中は、びっくりするほど小さく見えた。



 §



 嵐が去った。


 通行人の視線が散り、秋の市の喧噪が戻る。焼き栗の香り。子供の笑い声。リュートの音色。


 しばらく無言で並んで歩いた。


「ロゼリア、ちゃんとアイツに自分で言い返してたな」


「……うん」


「かっこよかった」


「なっ、全然かっこよくないよ。声震えてたし……」


「ロゼリアがアイツの言いなりにならなくてホントよかった」


 シリルは安堵の息をこぼし、ロゼリアの頭を軽くぽんと撫でる。

 ロゼリアの頬に熱が溜まっていく。心臓の鼓動がドクドクと早鐘を打つのを感じる。



「おっと、道を開けてくれ!」



 背後から、荷馬車を引く商人の大きな声が響いた。

 道幅の狭い通りに馬車が入ってきたことで、両端の露店を見ていた人々が、一斉に中央の道へ押し出されてくる。


「……っ」


 急な人波に押され、ロゼリアの身体が大きくよろけた。

 誰かとぶつかりそうになった瞬間、ぐい、と腕を強く引かれた。


「危なっ」


 すっぽりと、シリルの腕の中に収まっていた。

 外套越しでも伝わる温もりと、微かなレモンの香り。顔を上げると、少し険しい顔をしたシリルがロゼリアを庇うように立っていた。


「……ご、ごめん、ありがとう」


「ったく」


 やがて荷馬車が通り過ぎ、人だかりが潮が引くように元に戻っていく。


「もう大丈夫……」


 ロゼリアが離れようとした、その時だった。

 腕を掴んでいたシリルの手が、するりと下へ滑り——そのまま、ロゼリアの右手をしっかりと握りしめた。


「え?」


「……はぐれたら厄介だろ」


 シリルは前を向いたまま、平然とした声で言った。

 だが、繋がれた手はただ握られているだけでなく、指と指が少しだけ絡められている。


「は、はぐれないよ! もう馬車も行ったし、そんなに混んでないし……」


「そんなに嫌なら離すけど」


 ……ずるい。


 ──シリルと手を繋ぐのが嫌なわけがない


 ちらりと見上げたシリルの横顔は、いつもの飄々とした表情を取り繕っていたが——よく見れば、耳の端が少しだけ赤かった。


 ──……なんだ。シリルだって、意識してるんじゃん


 そう思ったら、少しだけ可笑しくなって、ロゼリアは小さく息を吐いた。


「……あーあ。フェリクス様にあんなこと言っちゃったし。成人したらシリルにお嫁さんにしてもらおうかな」


 ドキドキさせられた腹いせに、ほんの少しからかうつもりだった。


 しかし、振り返ったシリルの顔を見て、ロゼリアは息を呑んだ。


「……え?」


 耳の端どころか、首の根元まで茹でダコのように真っ赤に染まりきっている。


 誰の目にもあからさまな動揺。途端に、自分が口にした言葉の破壊力がそっくりそのまま跳ね返ってきた。


 ——え、なにその反応

 ——てか私、今すごく恥ずかしいこと言ったんじゃ……っ! 


「あ……っ、ち、ちが……っ! 今のは、その!」


 ボッ、と音がしそうな勢いで、今度はロゼリアの顔が爆発したように真っ赤に染まった。

 恥ずかしさで火を噴きそうだ。慌てて繋がれた手を振り解こうとするが、シリルは絶対に離してくれない。


「そういうこと言われると、俺、期待しちゃうけど」


 シリルの翡翠の瞳がロゼリアを捉える。

 逃げ場のない真っ直ぐな視線。からかっているわけでも、誤魔化しているわけでもない。


 ──き、期待? 期待って言った!? 今!? 


 頭が真っ白になる。繋がれた手から伝わってくるシリルの体温が熱い。


 ──こういう時、なんて答えればいいの? 


 ──そもそも、私とシリルは幼馴染だし。兄妹みたいなもので。


 ──ん? でも元を辿れば他人だし、結婚してもいいのか。


 ──シリルと結婚? ……結婚!? 


 ──ああもう! 


 オーバーヒートしそうな頭で、ロゼリアはぼそっと今にも消え入りそうな声で答えた。


「……ど、どうぞ?」


 ちらりと見上げると、シリルは空いた手で顔の半分を覆い隠し、深く深く息を吐き出していた。耳の先まで真っ赤に染まったまま、呻くように呟く。


「……お前、言ってる意味わかってんの」


「わ、わかってるもん……っ」


 これ以上何かを言えば、本当にその場でへたり込んでしまいそうだ。シリルも同じだったのか、それきりバツが悪そうに口を噤み、逃げるように前を向いて歩き出した。


 沈黙が落ちる。気まずい。死ぬほど気まずい。けれど、絡められた指先だけは絶対に離れようとしなかった。


 橙色の夕日が、石畳にふたつの影を落とす。

 繋がれた手のぶんだけ近づいた影が——ゆっくりと、ひとつに重なっていく──。

最後までお読みいただきありがとうございました。

よければ、感想・☆いただけると励みになります♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
そんなぁ、ルナのざまぁだけが見たかったのに
いやいや、具合悪くなる度にわざわざ連絡しといて、重かったってアンタ・・・そりゃあ勘違いもしますわ この女が幸せになったらモヤモヤするなぁ
元婚約者もあれだが、ルナの方も大概やね。 散々利用して、都合が悪く成ったらポイ捨てとは恐れ入った。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ