有望な青年の手記
趣味で執筆を始めました。
この世界は、いつだって残酷だ。どれほど法律が整い、どれほど高尚な理念を掲げたとしても、競争は終わらない。資本主義だろうが、共産主義だろうが、自由主義だろうが──それらはすべて、人間の本能に根ざした「差異への欲望」を包み隠すための衣にすぎないのかもしれない。
誰かが勝てば、誰かが負ける。勝者が存在するからこそ、敗者が生まれ、そして敗者がいるからこそ、勝者の栄光が輝く。その構図は永遠に変わらない。私たちはそれを理不尽だと知りながらも、どこかでその理不尽を美として受け入れてしまっている。
私自身も、そんな矛盾の中で息をしている。
勝ちたい。誰よりも認められたい。社会の中で、他者より優れた存在として名を残したい。そんな欲望を否定することはできない。けれど、その一方で、負けた者を見捨てられない自分もいる。敗北者の影に潜む痛みや、努力の末に報われなかった人々の静かな涙を、私は見てしまう。
だからといって、私が特別に善良な人間だというわけでもない。敗者に寄り添うその心が、自己満足や優越感の裏返しである可能性を、私は否定できないのだ。むしろ、同情という名の仮面をかぶった自己陶酔こそ、最もたちの悪い欺瞞ではないかとも思う。
それでも──私は、寄り添いたい。
なぜなら、人間が生きるとは、敗者になることと背中合わせの営みだからだ。どんなに努力しても報われないことがある。才能や運の分配は不平等で、努力すらも環境に左右される。だからこそ、弱さを理解し、他者の痛みに手を伸ばすことが、人間であることの最後の誇りではないかと思う。
私はこの「競争の世界」を面白がる努力をしている。
それは、どうしようもない真理に対しての、せめてもの抵抗だ。勝つことに執着し、負けることに怯えながらも、その構図そのものを観察して楽しもうとする。まるで自分自身を実験動物のように眺める。そんな態度は、ある種の逃避にすぎないかもしれない。だが、逃避を笑う資格など誰にあるだろう。生きることそのものが、残酷な現実からの逃避行為であるかもしれないことを誰も否定できないはずだ。
仮に、「勝ち負け」そのものから脱すること──すなわち「解脱」が可能なのだとしたら、私はその境地にこそ憧れるのだろう。勝利への渇望も、敗北の苦痛も、ただ一つの出来事として受け流せる心。そこにこそ、真の自由がある気がする。しかし、そう考えている間は、私はまだ渇望の渦中にいるのであろう。夢を語るだけで、夢の外には出られない。
時折、私は思う。
もしも世界に「勝者」と「敗者」しかいないのなら、人間はもっと単純だったろう。だが現実には、敗者の中に勝者がいるし、勝者の中に敗者がいる。成功の裏には喪失があり、敗北の中にも誇りがある。人生とは、二元論で割り切れない曖昧な層を持っている。
たとえば、競争に敗れた青年が、他人の成功を心から祝福できたとき、その瞬間だけは「勝者」なのかもしれない。逆に、世界を手に入れた者が孤独に押し潰されているなら、それは「敗者」と呼ぶべきなのかもしれない。
生物には、少なくとも人間には、一元論では語れぬ何かがある。
それは「心」という曖昧な器の中に宿る、矛盾と希望の共存だ。欲望と慈愛、競争と共感、勝利と敗北──すべてが同居し、互いに食い争いながら、なおも生を形づくっている。その不安定さを、私はときに愛おしいとさえ思う。完璧な善も、完全な悪も存在しない。あるのは、揺らぎの中で生きる不器用な人間の姿だけだ。
そして私は思うのだ。
まだ夢を見ていられる。まだ未来を語る余地がある。だが、いつか年老い、夢を失い、何にも期待しない老人になれたとき──ようやく私は、本当の意味で自由になれるのかもしれない。
勝利を望まず、敗北を恐れず、ただ「生きている」ことそのものを肯定できるような、そんな静かな境地に。
ああ、将来、夢のない老人になっていたいなあ。
それは、あらゆる夢に敗れた者の最終的な悟りであるのかもしれないし、同時に、最も成熟した希望のかたちでもあるのかもしれない。
私はまだ幼い。渇望も、迷いも、嫉妬も、尽きない。
私は世界を、心から笑って見渡せている気がする。
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