The 3rd Ride 江の島エスケープ
3月。中学受験が終わって小学校から中学へ入学するまでの春休み。
その1か月近い期間を、僕は新しい自転車と一緒に過ごした。
「本気なの?八一」
「うん……だってどうせ、新しい学校に行ったってもう部活やる気もないし。同じ小学校からの友達もいないんだ。だったら、1人で何処にでも行けた方が楽だから」
自分で言っていて悲しくなるけど、嘘偽りない今の本心だ。僕が元々居た小学校はまだ春休みに入っていないだろうし、卒業式もまだだと思うけれど……
でも僕があの学校に戻る事は絶対に無いし、卒業式にも出るつもりはない。春休みが終わって学校が変わったからってすぐに友達ができるとも思えないし、今は友達を作りたいとすら思えない。
他にもあれこれと言ってくる両親を何とか説得し、購入を決めたと電話を入れた翌日から、家とその自転車屋さんへの往復が僕の日課になった。
整備が完了して引き渡しの日に電車に乗って自転車屋さんまで引き取りに行き、店員さんと一緒に家まで乗って帰る時と翌日、1人で自転車屋さんまで行くときはものすごく緊張したし、こんな距離を自転車で着けるの? ってすごく驚いた。
けれど、数日繰り返していると片道1時間の道のりも慣れて50分ぐらいで着けるようになり、1つずつ自転車の事を教えてもらいに行くのが楽しみになっていた。
それも慣れてきたら4月から通う学校までの往復もそこに追加され、さらに家から自転車屋さんに来る道のりも違うルートを指定されたりして、段々と走れるところが増えていった。
自転車っていうのは面白いもので「こんなの無理」って思っていた距離や道のりでも、繰り返すうちにキツくなくなってどんどん走れる距離が増えていく。
最初はこんな距離を自転車で? と思っていた家から自転車屋さんまでの片道15キロも、自転車屋さんの辺りから学校のある丘の上まで川沿いに続く坂道だって、1週間も経ってしまえば凄い距離だとは思わないようになっていた。
そして最初の日曜日、ショップライドという自転車屋さんが主催するお客さん同士の団体サイクリングに参加してからは、その時に行った海沿いの道が僕の日課ルートに替わった。
僕の家から川沿いを2キロ走ると海沿いの県道に出る。そこから自転車屋さんへ向かうのと同じ、海岸通りを15キロひた走ると現れるのは海に浮かぶ小さな島とそれにかかる桟橋。
観光スポットとして年中多くの人が来る江の島。そこに向かって海沿いを風を切って走る爽快感とその光景にすっかり心を奪われてしまったんだ。
その日も僕はお昼前に家を出てゆっくりと海沿いを走り、江の島が見える海岸近くのコンビニで買ったクリームパンとペットボトルのミルクティーを飲みながら、ぼーっと海を眺めていた。
季節は3月も下旬に入ってすっかり春休みなので、江の島に向かう桟橋や手前の水族館なんかは大勢の人で溢れている。そんな所で元・クラスメイトなんかに出くわしたら厄介なので、自然と喧騒から少し離れた場所を選んでいた。
そんな僕の真後ろでホイールの回転音が止まったかと思うと、誰かが立っている。
「キミ、ロード乗り始めたばっかの子? 何年生なん?」
振り返るとそこには、小柄な女の子がこちらを見つめていた。
身長こそたぶん僕と変わらないぐらいではあるが、チームロゴが入った上下お揃いのサイクルジャージに身を包み、ヘルメットとサングラスで装備を固めた姿がすごく様になっていて一目で上級者だろうなという事は分かる。僕より2、3個上の中学生ぐらいだろうか?
「あ、はい。春から中学に通うので通学用も兼ねてこのバイクを買ったんです」
「今度から中学っていったらウチと同学年やな。あーでも、自転車ではウチが断然先パイや!」
何だ、同学年かと思うと一気に緊張していたのがもったいなく感じる。
「そんで、キミはこれからどこまで乗りに行くん?」
「え? もう藤塚に帰るつもりだけど」
「はァ!? こんなに良い風吹いてて最高の日なのにさっさと帰るんかい!? そんなん許さへんで。ちゃちゃっと準備せぇや」
そう叫ぶと座っている僕のロンTの襟首を後ろから掴んで立ち上がらせようとする女の子。初対面なのにそんな強引な態度にびっくりしたけれど、拒絶しようって気持ちは不思議と起こらなかった。
誰か知ってる奴に見られたら、っていう後ろめたさを抱えながらここに座ってるよりも、遠くに行ってしまいたい。多分、気持ちの何処かにそういう部分があったんだと思う。
名前も知らない女の子に連れ出されて、ついて来いと言われるままにこれまで通った事の無かった海岸線の先へと向かう。よく分からないシチュエーションだけど、何故だかそれがすごくワクワクする。
前を行く女の子のペースに遅れまいとペダルを漕ぐたびに、スピードが上がって見ていた景色が後ろへと遠ざかっていく。それはまるで小学校時代の嫌な記憶が剥がれ落ちていくみたいで、何となく心地よかった。
「どや、サイッコーやろ?」
「うん。楽しかった……かもしれない」
海岸線をぬけて住宅街やヨットが沢山停まっている所を通り過ぎ、やがて海に突き出た小さな岩場の手前にある『長者ヶ崎』と書かれた駐車所のところで女の子は自転車を降りた。僕もそれに続いて自転車から降りて、彼女と同じ様に柵へ自転車を立てかける。
「無理に付き合わせて堪忍な。ちょっと強引過ぎたかもしれんて、走りながらちょっとだけ思ったんやけど……」
「いや、大丈夫だよ。それよりすっごく早いんだね君!」
「そんな事はまぁ、あるかもしれんけど……言われると嬉しいなぁ♪ ジュース飲むか?」
僕の誉め言葉に気を良くした彼女が買ってくれたコーラを飲みながら、僕は尋ねられるまま自転車に乗るようになったいきさつを彼女に話し、彼女も自分の事を話し始めた。