終わらない歌
20年以上前、私が幼い頃、母の運転する車の助手席で、母の弟のAさんについて話をされたことがある。
Aさんは私が物心つく前に白血病で亡くなっており、享年は20代か30代だった。
母の実家に行くと仏壇があり、知らない老人の写真の中に一人だけ若い人がいて、それがAさんだった。
カーステレオからは、Aさんが好きだったというブルーハーツの「終わらない歌」が流れていた。
母はそれを聴きながら、亡き弟の思い出を語って、涙を流していた。
母の涙を見たのは、もしかするとそのときが初めてだったかもしれない。
私は子ども心に、終わりというものが怖かった。
誰かの死は、母をこんなにも悲しませる。
母が悲しむと、私も悲しかった。
誰かの死ではなく、母が死んだら。
考えただけで、どうしようもなく悲しかった。
「終わらない歌」は、たった3分の曲である。
終わらないと言いながら、あまりに短く終わってしまう。
さらに、終わらない歌がいくら好きでも、亡くなってしまう人がいること。
幼心に解せなかった記憶がある。
自分がAさんくらいの歳になって、自分に子どもができて思う。
もし私がAさんのことを娘に話して、娘がそれを覚えていたら、それは俯瞰で見れば、終わらない歌になるだろう。
あるいは、私が誰かの、例えば母の死を、娘に語り継いだとして、それが、その行為自体が、母の涙と重なり、繰り返し、終わらない歌になるのではないか。
一曲が終わらないのではない。
何度も繰り返されるということだ。
たった3分の曲が終わるたび、なんだ、終わってしまうじゃないか、と不平に思っていた少年。
テープを巻き戻して聞けということか?と、終わりに対する漠然とした不安と恐怖から、苛々して、喧嘩腰だった少年。
曲は、あなたの中で、一度しか流れない。
ただ、他の誰かに、その曲のことを教えることはできる。
あなたはその曲を永遠に聴こうなんて思わないこと。
世界のどこかで誰かがその曲を今聴いていればそれでいいのだ。