【2】
「はい、そこまで」
私のかけた言葉に、男は汚いお尻を丸出しのまま振り向くと、目を剥いた。
「はぇ!?」
無理もないだろう。内側から施錠したはずの小部屋に突然、招き入れた覚えのない女──つまり私が現れたのだから。
「…………くっ曲者ッ!」
たっぷりニ呼吸ぶん硬直してからようやく男は、下袴と一緒に床に脱ぎ捨てた帯刀に手をのばし、抜刀しながら立ち上がる。
判断が鈍すぎる。私が本当の曲者なら、とうに斬り捨てられている。
「どの口が言うか、痴者」
私はぴしゃりと言葉を返す。
だらしない巨腹に組み敷かれていた年若い下女が、すすり泣きながら小部屋の隅に這って逃げるのを、目の端で捉えつつ。
「ッ……だまれだまれっ!」
男は激昂して斬りかかってきた。
その見飽きた太刀筋には、忍びの技を使うまでもない。右半歩だけ下がった私の頬すれすれを、刃がかすめて空を切る。
バランスを崩して前のめりになった足元に爪先を軽く引っかけてやれば、勢いのまま倒れ込んだ男は、顔面を床に強打して「ぷぎょ」と情けなく鳴いた。
「白昼城内での破廉恥な所業だけでは飽き足らず、アマヒト殿下の御妃候補である私に刃を向けるとは。明るみになったら何もかも失うことでしょうね、近衛大臣どの」
「え……許婚……? お……お待ちを……見逃していただけるなら、金でも、なんでも……」
「ええ。それじゃあ早速、私のお願いを聞いていただこうかしら」
冷えきった声色で囁きながら、拾い上げた彼の刀の先端で汚いお尻をちくちく刺す。
そのたび、びくんびくんと全身を震わせては「おふゥ」などと妙な声をあげた。
「はい……はっ、はい……仰せの、ままに……」
屈みこんで耳元に囁く私の「お願い」に、ひたすら頷く。実はこの瞬間に、秘めていた被虐性癖が開花した彼は、以後すっかり私の言いなりになる。
これがまあ、999回全体でも指折りに信頼できて役立つ協力者なのだから、なんとも複雑だ。
「では、これにてッ……!」
大臣が服を整えながらそそくさと小部屋を出ていくと、部屋の隅で怯えていた下女は、おずおずと礼を伝えてきた。
「あの……ほんとうに、ありがとうございます。どうお礼をすればよいか……」
「気にしないで、もののついでだから。そうそう、あなたは紅を取りにきたのよね」
「えっ? ええ、はい」
「じゃあ、それをすこしいただけるかしら」
彼女は備品を収納するこの小部屋から、食紅を取ってくるよう言いつけられたのだ。
そしてなぜか待ち伏せしていた大臣に手篭めにされかけた。おおかた、上の人間に金でも握らせたのだろう。
私はそれを更に、天井裏で待ち伏せしていたわけだ。
下女がうやうやしく差し出した小箱から、鮮やかな紅を小指につけて唇に──それから両の目尻についっと塗る。紅い炎の先端のように。
「すてきです」
「ありがとう。悪いようにはしないから、ここでのことは内緒にしてね」
うっとりとこちらを見つめる下女の、ほんのり紅潮した頬の輪郭を手のひらでそっと撫でる。彼女は素直に頷き返した。
「あ……ごめんなさい、匂うでしょう?」
「いいえ、わたし澱杏は大好きです!」
ふと朝食のことを思い出し、慌てて口元を抑えた私にも、屈託なく笑ってくれる。
彼女の名はサツキといって、味覚と嗅覚の優れたとても料理上手な女の子だということを、私は知っている。
彼女が恐ろしい目に遭う前に救うこともできたし、そうしたこともある。
けれど今回、私は大臣の弱みを握るためにそれをしなかった。
罪悪感なんてとうに涸れているけれど、いずれ何かで埋め合わせするから。
──さあ、これで準備は整った。あとは決心を極めて、あの御方と対峙するだけ。




